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過去につながり、今を問え!

レディ・トラベラーへの旅(3)

 近代郵便制度を生んだヴィクトリア時代の人びと、特に中産階級の人たちは、手紙をよく書いた。書いただけはなく、受け取った手紙をちゃんと保存していた。そうした手紙(の一部)は国立・州立の文書館や市の博物館などに所蔵されており、今なお現物を読むことができる。メアリ・キングズリも例外ではない。彼女はとても筆まめで、しかも一通一通が長く、記された日付と実際の出来事をつき合わせると、当時の彼女が何を考えていたのか、何が彼女にそう思わせたのかが考察できる、第一級の史料でもある。

 そのなかでも、その一通・・・・は異彩を放っていた。1900年3月半ば、ボランティアの看護師を志願した彼女が、南アフリカ戦争(1899-1902、第二次ボーア戦争)の現場、ケープタウンへと向かう船のなかで書いたものである。

 宛先は、アフリカ西岸、リベリアの首都モンロビアで雑誌『ニュー・アフリカ』の編集長を務めるA・P・カンフォー。リベリアは、1820年代からアメリカの解放奴隷の移住が始まり、1847年に独立した黒人国家である。カンフォーもアメリカで生まれ育った黒人で、メソディスト系伝道協会からモンロビアに派遣され、現地の教育・啓蒙活動に従事していた。メアリの2冊目の著書『西アフリカ研究』(1899)の書評を同誌に掲載してくれたことへの謝辞で始まるその手紙には、彼女の最期のメッセージが綴られている。

現在のアフリカ55カ国(松田素二編『アフリカ社会を学ぶ人のために』世界思想社、2014年、巻頭)

 

メアリ最期の手紙

 帝国主義の時代と呼ばれる19世紀後半、イギリスを含むヨーロッパ諸国は、「3つのC」で植民地の支配を考えていた。キリスト教(Christianity)、文明(Civilization)、貿易(Commerce)、である。そのうち、キリスト教と文明(=ヨーロッパ文明)を、メアリは明確に否定した。西アフリカの旅のなかで、彼女は、アフリカ人をヨーロッパの助けがないと何もできない子どもとみなす宣教師や行政官に、アフリカ人を救うことなどできないと確信したからである。彼女は、現地アフリカのやり方を知ろうとするイギリスの貿易商人に期待を寄せてきた。

 カンフォー宛ての手紙にも、「重要なことは、白人、ヨーロッパ人の価値観で物事を見ない、考えないこと」であり、「そのためには、アフリカにはアフリカの文化や制度、法があると、堂々と言えばいい」と綴られている。そう主張すれば、イギリスはアフリカに危害を加えることはしないだろうと…。

 このとき、メアリが引き合いに出したのは、古代アイルランドの諸権利や慣習を総合した法律、「ブレホン法」である。7〜8世紀に集大成され、イングランドに征服される以前のアイルランド社会を支えたブレホン法に、メアリは、西アフリカの土地法との類似性を認めた。16〜17世紀に廃止されたブレホン法の重要性が認識されたのは、1852年にテキスト保存のための「ブレホン法委員会」が設置されて以後のことである。メアリはこう書いている。

 イングランド人がこの法[ブレホン法]のことを知ってまだわずか50年ほどにしかなりません。もしエリザベス朝の人びとがこのことを知っていたら、今のアイルランド土地問題などなかったでしょう。

 あなた方にはチャンスがあります。神はアイルランドの悲劇をくり返さない方法を教える機会をいつも与えてくれるのですから。それも、手遅れにならないうちに……。

(拙著『植民地経験のゆくえ』人文書院、2004年、171-172頁訳より)

 アフリカとアイルランドを重ね、アイルランドの歴史に学べという力強いメッセージを含むこの手紙は、メアリの死後、『西アフリカ研究』第2版(1901)の巻頭に全文掲載されて、広く知られることとなった。

 この手紙の公開を強く望んだのは、カンフォーだけではない。カンフォーを通じて、メアリの南アフリカ滞在時の連絡先を受け取ったエドワード・W・ブライデン(1832-1912)もまた、彼女の最期の手紙に心打たれたひとりであった。当時デンマーク領だった西インド諸島(現在のアメリカ領ヴァージン諸島)のセント・トマスで、自由黒人の両親のもとに生まれたブライデンは、ミッション教育を受けたのち、アメリカの大学への進学を希望したが、肌の色ゆえに拒絶された。彼の才能を惜しんだ宣教師の助言で、1850年、独立まもないリベリアに渡った彼は、まずはジャーナリストとして活躍。やがて教育者、外交官として、英領シエラレオネへも活動の場を広げた。今なお、アフリカにおける彼の思想的影響は大きいといわれている。実は、『ニュー・アフリカ』にメアリの本の書評を書いたのは、ブライデンの教え子のひとりであった。

エドワード・W・ブライデン(1887年頃)

西インド諸島

 ブライデンは、メアリが伝言した南アフリカの連絡先(ケープタウンのスタンダード銀行気付)に手紙を書いている。日付は1900年5月7日。ブライデン書簡集に収められた彼の返信には、自らミッション教育を受けた者としての苦悩、ヨーロッパ人宣教師によるキリスト教伝道の矛盾が鋭く指摘されている。

英語でミッション教育を受けた黒人の多くは、アフリカの文化や慣習、宗教、法や制度を邪悪なものとして軽蔑し、知ろうともしない。……そして、イギリスやヨーロッパの博愛主義者たちに、彼らが最高の意図を込めて黒人に提供している教育が、黒人にとって最高のものではないことを理解させるのは難しい。

(Hollis Ralph Lynch (ed.), Selected Letters of Edward Wilmot Blyden,KTO Press, 1978, p.461)

 ブライデンがこれを書いた日から1か月足らずのち、メアリは帰らぬ人となった。彼女にブライデンのこの手紙が届いていたかどうか、不明である。確かなことは、メアリが旅した19世紀末の西アフリカでは黒人の知識人が育ちつつあり、さまざまな方法でヨーロッパ人とつながり、対話が始まっていたことである。帝国主義時代のアフリカについて、わたしたちが見なければならないのはこの双方向性であり、(沿岸部が中心ながらも)アフリカ内部に存在した黒人同士の交流であり、そしてそれらがどんな未来を拓いたか(あるいは拓けなかったか)、なのである。

補助線としてのアリス・グリーン

 アフリカ支配のツールである「3つのC」のうち、2つを手厳しく非難したメアリ最期の手紙は、カンフォーやブライデンのみならず、彼女と親交を結んだ多くの人びとに各々が背負うものを考えさせたと思われる。そのひとりが、拙著『植民地経験のゆくえ』でとりあげたアリス・ストップフォード・グリーン(1847-1929)であった。

 歴史家の夫を亡くした彼女は、その後、政治家や知識人らが集まり、自由で親しみ深い雰囲気のなかで語り合うサロンの女主人としてその名を知られるようになり、1890年代には知と政治の世界を架橋する幅広いネットワークを築いていた。シャイなメアリに姉のように寄り添うアリスの自宅サロンで、メアリ・キングズリは多くの知識人や政治家と知り合った。そのなかで、アリス自身が、メアリのアフリカ観やイギリス帝国を見る目に強く影響されていく。

 われわれが目にする「現在」の世界は、今となっては見ることのできない、だけど確実に存在した「過去」との双方向の関係性で創られている。このことを私が強く意識したのは、拙著『植民地経験のゆくえ』で、この二人の女性の関係を通して当時のイギリス帝国を見直す過程においてであった。なかでも私が驚かされたのは、メアリの訃報に接したアリスが、「なぜメアリは死ななければならなかったのか」を探るべく、彼女が看護したボーア人捕虜を追って、セント・ヘレナ島(ナポレオンの流刑地として有名な、アフリカ大陸沖合1800キロ余りの南大西洋上に浮かぶ島)に渡るという行動であった。セント・ヘレナ島は、ボーア人捕虜の急増を受けて「捕虜収容所」が設置された大英帝国領のひとつであるが、私には、なぜ一介の民間人であるアリスに立ち入りが許されたのか、彼女の「人脈」にも関心があった。彼女は当時の植民地相ジョセフ・チェンバレンと直談判したと思われる。

 アリスは、1か月余りにわたって捕虜への聞き取り調査を行った。彼女にとって、セント・ヘレナ島の捕虜収容所こそが南アフリカ戦争の「戦場」であり、この戦争の本質が浮き彫りにされた「現場」であった。聞き取り調査を詳細に記述した彼女の分厚い日誌には、この戦争をボーア側で戦って捕虜となった外国人義勇兵の証言が数多く認められ、その多様性にアリス自身が大変に驚いている。この戦争はけっして「イギリス人とボーア人の戦い」ではない――アリス自身のこの覚醒に、「なぜメアリは死ななければならなかったのか」という問いの先が実に深いことを感じる。どんな出来事もそれが起こった現場だけで考えてはいけないのだ。

 捕虜収容所という戦争の「現場」経験をアリス・グリーンはどう考えたのか。

 そのひとつの答えは、彼女のサロンを訪れるゲストの変化、ゲストらが醸し出す空気の変化にうかがい知ることができる。1903年秋、転居した彼女の新しいロンドンの自宅には、イギリスの「偽りの口実」によって領土を侵犯された領土を侵犯されたボーア人に共感した人びと、および帝国主義や植民地主義を批判する人たちが集まるようになる。

 転居から半年余り、1904年春以降、アリスの自宅サロンを頻繁に訪れる常連ゲストのなかに、彼――ジャー・ケイスメントの姿があった。本連載第5回第6回で取り上げた集合写真が撮影された1895年1月から数えると、10年近い歳月が流れていた。今、写真の二人、メアリとケイスメントの間に、アリス・グリーンという「補助線」が引かれる……。

アリス・ストップフォード・グリーン。
ケイスメントがサロンの常連になったことで、1916年以降、彼女のロンドンの自宅は何度も家宅捜査されることになる。その影響もあるのだろう。1918年、アリスはアイルランド、ダブリン市内に転居した。そこでも彼女の自宅サロンは、1920年代を通じて知の拠点であり続けた。

ケイスメントと南アフリカ戦争

 1898年、サン・パウロ・デ・ロアンダ(現ルアンダ)領事として西アフリカに戻ったケイスメントが、南アフリカ戦争最中の1900年1月から2月にかけて、前任地であるポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)の港湾都市、ロウレンソ・マルケス(現マプト)で、トランスヴァール共和国の首都プレトリアに向かう鉄道貨物を密かに調べ、外務省に報告していたことは第6回で述べた。このとき、ケイスメントは、ボーア側への武器移送を阻止すべく、鉄道路線を爆破する計画まで立てている。彼は文字通り、大英帝国に忠実な官吏であった。

 一方で、当時のケイスメントは、敵であるボーア軍内部にアイルランド人部隊が作られていたことにも気づいていた。通称「マクブライド隊」と呼ばれたその部隊は、アメリカ系を含むアイルランド人500名余りで構成されていた。ジョン・マクブライド(1868-1916)は、トランスヴァール共和国の鉱山地帯にあるアイルランド人コミュニティのリーダー的存在であり、戦争前にすでに、彼を中心に、トランスヴァールとアイルランドとの間には政治的、文化的ネットワークが構築されていた。南アフリカ戦争勃発前後のダブリンでは、詩人WB・イェイツがこよなく崇拝する若手女優モード・ゴンらによって、戦争反対とマクブライド隊への支持をアピールする大規模なデモが繰りひろげられた。実際、200名ほどのアイルランド人がマクブライドのもとにはせ参じてもいた。アイルランドにおける反戦、反英、親ボーアの動きは、1900年1月、「南アフリカをもう一つのアイルランドにするな!」と叫ぶ「停戦(ストップ・ザ・ウォー)委員会」の主張とも共鳴していた。


ジョン・マクブライド(19001916年撮影)


20世紀初頭のモード・ゴン。
詩人イェイツの再三の求婚を断り、1903年にマクブライドと結婚し、翌年には息子ショーンが生まれた。だが、夫婦仲は急速に悪化。裁判で息子の親権を得た彼女は、主にパリで暮らした。1916年の夫の処刑後は、再びマクブライド姓を使い始め、アイルランド共和国の独立運動にも加わっている。なお息子のショーン・マクブライドは、やがてアイルランド共和国の外務大臣を務め、国際平和や人権運動をリードし、アムネスティ・インターナショナルの創立にも努め、1974年にはノーベル平和賞を受賞している。

 だが、同じ1900年1月、南アフリカにいたケイスメントは、マクブライド隊のことも、「アフリカのアイルランド人」のことも、深く掘り下げることはなかった。当時のケイスメントが彼らの活動をむしろ苦々しく思っていたことは、「捕虜には厳罰で臨むように」という外務大臣宛ての私信(1900年8月3日付)からも読み取れる。

 ケイスメントはのちに、大英帝国の外交官という衣を脱ぎ捨て、アイルランド独立の大義に身を投じ、1916年4月のイースター蜂起に加担して、ドイツからの武器輸送計画に関わった国家反逆罪で、同年8月3日に処刑される。処刑後、共同墓地に埋葬された彼の遺体が家族のもとに返還されるのは、半世紀後の1965年のことである。こうした彼の人生をふり返って書かれる伝記や彼にまつわる「神話」のなかには、南アフリカ戦争時にすでに彼の「反英感情」を認めるものもあるが、それは違う。だからこそ、「大英帝国の忠実な官吏」から「アイルランドの大義に散った愛国者」への転身の背景が問われねばならないのである。

 ちなみに、南アフリカ戦争をボーア人とともに戦ったマクブライドは、終戦後、フランスでモード・ゴンと結婚してアイルランドに戻ったのち、1916年のイースター蜂起との関与が疑われて処刑された(彼は蜂起自体とは無関係である)。マクブライドにとって、そして彼に従った多くのアイルランド人にとって、南アフリカ戦争は、アイルランド史の分岐点とされるイースター蜂起の前哨戦だったのかもしれない。だが、ロジャー・ケイスメントが自分のなかの「アイルランド」に気づくには、もうひとつのアフリカ――コンゴの奥地が必要であった。

コンゴ自由国という虚偽


レオポルド2世(1900年頃)

1884年、アフリカ分割のひとつ、ベルギー王によるコンゴの私有化を諷刺した雑誌Le Frondeur(1884年12月20日、ベルギーのリエージュで発行)

 コンゴ自由国は、1884〜85年、アフリカ分割を議論するベルリン会議で、ベルギー王レオポルド2世の個人的所有が認められた植民地である。アフリカの広大な土地と資源に関心を寄せたベルギー王は、他のヨーロッパ諸国の手つかずであったコンゴ川流域に注目し、その探検、調査をヘンリー・モートン・スタンリー(1841-1904)に依頼した。スタンリーは、1871年、行方不明だったリヴィングストン博士を発見したことで一躍その名を知られるようになったジャーナリストであり、探検家でもある。イギリス、ウェールズで私生児として生まれた彼がアメリカに渡り、大英帝国ではなく、ベルギー王の植民地建設に尽力するプロセスにも興味深い物語があるのだが、それはまた別の機会にしよう。


ヘンリー・モートン・スタンリー。写真はケイスメントが初めてスタンリーと出会った頃の撮影(18848月)と思われる。

アフリカ大陸横断で知られるスコットランドの宣教師リヴィングストン(1813-1873)は、東アフリカ探検中の1869年以降、消息を絶ち、死亡説まで流れた。『ニューヨーク・ヘラルド』の記者だったヘンリー・スタンリーは、莫大な懸賞金と報奨金で捜索を引き受け、18711110、タンガニーカ湖畔のウジジで、痩せこけたリヴィングストン(中央右)を発見した。そのときにスタンリー(中央左)が口にした言葉、「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(Dr. Livingston, I presume?)」は、その後、思いがけない人と会ったときの常套句となった(Henry Morton Stanley, How I Found Livingstone, 1872(Paris: Hachette, 1876)の挿絵より)。

 スタンリーは、ベルギー王の資金援助を受けて、1874〜77年、水源から大西洋に注ぐ河口へのコンゴ川のルートを探検し、その後も王の私的団体「アフリカ国際協会」、およびその後身である「コンゴ国際協会」の名のもと、交易や布教のためのインフラ整備、すなわち植民地建設の指揮をとった。流域の村450余りとの間に「保護条約」を結び、労働力と食糧供与を確保したのも彼だ。だが、「隣接するフランス植民地では得られない、ベルギー王による保護の利点」は嘘だらけであり、文字の読めない現地の首長らに、「保護への見返り」として求められる労働力徴用の意味が理解できたとは思われない。それでも、キリスト教布教や自由貿易を通じてアフリカの文明化を図り、奴隷制度や現地の蛮習をやめさせることを設立趣旨に謳った「コンゴ国際協会」は、欧米各国の著名人や政府・企業の関係者からそれなりの資金を集めた。1881年にはベルギー王の名を冠したレオポルドヴィル(現キンシャサ)が建設され、上流との物流拠点として欧米の利益をひきつけた。

 1885年8月、「コンゴ国際協会」の支配領域は、自由貿易地域として、「コンゴ自由国」とその名を変えた。元首となったベルギー王は、未開の人びとに光を与える慈悲深き人道的君主であることを、さらに欧米諸国にアピールした。


ケイスメントは1880年代、マタディからレオポルドヴィルまでの鉄道敷設工事に関わっていた(マリオ・バルガス=リョサ『ケルト人の夢』野谷文昭訳、岩波書店、2021年、「ロジャー・ケイスメント関連地図」)

 だが、そんな嘘がいつまでもまかり通るはずもない。ここではその名に掲げた「自由貿易」など行われておらず、この地域に集約されたゴム・象牙採集の利益はすべて、ベルギー王に独占されていた。「保護条約」に定められているとして、労働力や食糧供用のために村々に要求した過酷な徴用実態も、ノルマが達成できなかった村や現地人への数々の虐待も、1890年代のうちに欧米諸国に知られるようになっていった。1895年には、アメリカのバプテスト宣教師がコンゴ自由国でゴム採集する現地人への虐待を新聞に暴露し、その記事を見たイギリスの「原住民保護協会」も動き出した。1897年には、自由党議員のチャールズ・ディルクがイギリス議会でコンゴ問題に触れている。だが当時、コンゴより南アフリカの利害を優先させたイギリス政府は、ベルギー王に何ら働きかけを行おうとはしなかった。

 同じ頃、のちにケイスメントと合流し、コンゴ自由国における現地人虐待と自由貿易違反でベルギー王を告発する国際運動の中核を担うED・モレル(1873-1924)も、勤務するリヴァプールの船会社エルダー・デンプスターの路線のひとつ、コンゴ川河口のボマとアントワープを結ぶ積み荷への疑惑から、密かに調査を開始していた。銃や武器弾薬を積んでアントワープを出港した同社の船は、コンゴ自由国で採取された生ゴム入りの容器や象牙をボマで積み込み、アントワープに戻る。しかも、ボマからの大量の積み荷(ゴムや象牙)の価値は、アントワープから自由国に運ばれた銃器とはまったく釣り合わない。そこから、自由貿易以外の「何か」がコンゴ自由国で行われていることを確信したモレルは、エルダー・デンプスター社の上層部に訴えるが、社の重役たちは「証拠不十分」として却下した。失望したモレルは会社を辞め、イギリスの「反奴隷制協会」や「原住民保護協会」などと協力しながら、コンゴ問題を訴えるジャーナリストに転身し、ベルギー国王に買収された御用メディアと激しく対立した。

コンゴ改革運動をリードしていた当時のE.D.モレル(1905年)

 コンゴ自由国の奥地で何か不正が行われている。だが、ベルギー国王を弾劾するには、何よりも確たる証拠、動かぬ証言が必要であった。

ケイスメント、コンゴの奥地へ

 南アフリカ戦争のさなか、1900年7月下旬、体調不良でアフリカから戻ったケイスメントに、翌8月、コンゴ自由国領事に任じる辞令が下りた。管轄対象地域には、フランス領、ポルトガル領のコンゴも含まれる。悪化した痔の治療のために休暇を2か月延長した彼は、同年10月、ブリュッセル経由で、コンゴ自由国領事館のあるボマに向かった。

 このとき、駐ベルギーのイギリス公使を介して、ベルギー王レオポルト2世がケイスメントに面会を求めた。まずは10月10日午後1時に「朝食」(!)会。翌日にも個人的な懇談が設けられ、話は1時間半にも及んだ。内容は、コンゴ自由国内部で行われている「よからぬこと」についてであった。コンゴ自由国内の現地人に対する虐待や搾取の告発が相次いでいたこの時期、ベルギー王は、赴任する新イギリス領事に、前もって「弁解」を試みたと思われる。

 実はケイスメントは、1884年、20歳のとき、コンゴ国際協会が広く欧米に募集した探検隊を志願して、初めてアフリカの大地を踏んでいる。1886年からはスタンリーの意を受けたアメリカ人ヘンリ・シェルトン・サンフォードの調査隊で、コンゴ川流域での探検や道路整備、そして下流の町マタディからレオポルドヴィルまでの鉄道敷設工事などに加わった。当時のケイスメントがコンゴ自由国で何を見て、何を考えたか、定かではない。たとえば、前述した1900年10月、ベルギー王との個人的な歓談の場で、彼は16年前のアフリカ初探検の話をしただろうか。これについても、ケイスメントは、「[レオポルド2世]陛下とわが国との良き関係のために努める」という(文字通りの)外交辞令を外務大臣宛ての手紙で報告するにとどめており、あとは駐ベルギー公使の「ベルギー国王ととてもいい会話をしてくれたケイスメントに感謝する」という記録が残っているだけである。

 その後、1900年12月、ボマにある領事館に到着したケイスメントは体調不良の状態が回復せず、マラリアの再発もあり、わずかな期間に静養のための帰国が二度も続いた。ようやく体調が落ち着いた彼がコンゴに戻ったのは1903年2月。コンゴ問題でイギリス議会が紛糾するのは、その3か月後の5月20日のことであった。

 コンゴ自由国で何が起きているのか。その調査を、イギリス政府は直ちに、コンゴ自由国領事に命じた。

 1903年6月5日、ケイスメントはボマを出発し、マタディから鉄道で移動し、翌日レオポルドヴィルに到着した。その後、コンゴ川の上流に向けて現地調査の旅にでかけた。紙面の関係上、その詳細は省くが、調査に当たっては、20年近く前、1884年から4年間にわたる彼のコンゴ経験が大きく役立ったと思われる。それは土地勘のみならず、1884年と1903年との「比較」という意味において、である。あのとき村々にあふれていた現地人の姿が減っている。なかには村ごと消えたところもある。なぜ? 何が起こったのか? 

 3か月余りの調査を終えてボマに戻ったケイスメントに、外務大臣ランズダウンから報告書作成を急がせる電報が届く。1903年11月、ケイスメントは、ポルトガル領コンゴのサン・パウロ・デ・ロアンダから帰国の途につき、船のなかで報告書をほぼ完成させた。12月1日にロンドンに着いた彼は、12月10日、それまで手紙で連絡しあっていたE・D・モレルと初めて会い、コンゴ問題解決のためのNPO「コンゴ改革協会」を立ち上げた。この協会への物理的・精神的協力を求めて回った「有力者リスト」のなかに、自宅を転居してまもないアリス・グリーンの名もあった。

 1904年4月下旬、ケイスメントはモレルとともに、アリスの自宅を訪問する。南アフリカ戦争の捕虜収容所に「アイルランド」を見たアリスは、従来イングランド中心に書かれてきた、よって「劣った野蛮な時空間」として記述されてきた中世アイルランド史の書き直しを試みようとしていた。最初の訪問時、まだ試行錯誤中であった(であろう)アリスの粗削りの「新しいアイルランド史」、メアリを追ったアリスの南アフリカ戦争経験のうえに構築された「アイルランドの物語」に、コンゴの奥地で現地人虐待のさまを目にしたケイスメントは深く心動かされたと、のちに親友ハーバート・ウォード宛ての手紙に記している。ケイスメントはここ、アリスの自宅サロンで、自分がアフリカの奥地で見たもの、感じたことを別の文脈――アイルランドへと転換させるすべを身に着けていくことになる。

 かくして、ケイスメントとメアリは、アリスを介してつながることになった。コンゴ報告書、通称ケイスメント・レポートの衝撃が走るイギリス社会を横目に見ながら、ケイスメントは1916年のイースター蜂起に向けて、アイルランドへの愛国心と大英帝国への憎悪を強めていく。                   




 ノーベル文学賞作家のマリオ・バルガス=リョサには、ケイスメントを主人公とする『ケルト人の夢』(2010)という長編小説がある。そのなかでリョサは、1903年にコンゴ奥地の村々を調査して回るケイスメントが、20年近く前の1884年、スタンリーが指揮したコンゴ探検を回想するという設定で、若きケイスメントにこんな質問を口にさせている。

あなた[スタンリー]は我々がやっていることで良心の呵責を感じたり、自責の念を覚えたりすることはないんですか。

マリオ・バルガス=リョサ『ケルト人の夢』野谷文昭訳、岩波書店、36頁)

続けて、リョサはケイスメントにこう語らせる。

我々がここにいるのはアフリカ人のためだと、僕は常に信じてきたんです、スタンリーさん。物心がついたときから尊敬していたあなたに、信じ続けるための根拠を教えてほしいんです。契約が本当に彼らのためになるのだと。

(同、37頁)

 すでに述べたように、20代前半のケイスメントが、いやコンゴ領事となった36歳の彼もまた、自分は「コンゴ国際協会」に騙されていたと、当時の自分の無知を恥じる記録はない。この回想自体が、作家リョサの想像力の成せる技である。それでも、今信じられない暴力を目のあたりにしているわれわれに、リョサの語るケイスメントの回想シーンは、どこか説得力をもつ。聞かされていたことと自分が見ているものとのあまりの落差に、「現地の人びとのためになると思ってここにきたのに」と今つぶやいているのは誰なのだろうか。たとえば、それは、「ウクライナはロシアのもの」と断定的に語る大統領の歴史観とどうつながっているのだろうか。

 過去につながり、今を問え!――問題は、どの過去に今をつなぐか、にある。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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