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過去につながり、今を問え!

レディ・トラベラーへの旅(2)

 第5回の最後で、私の忘れられない一枚の写真を紹介した。そこには、レディ・トラベラーのメアリ・キングズリとともに、当時外務省所属の植民地行政官であり、その後アイルランド独立運動に身を投じ、第一次世界大戦中に反逆罪で処刑されるロジャー・ケイスメントが写り込んでいた。二人の人生は、1895年1月の西アフリカ、カラバルという場所と時間でしか重ならない。人の世は一期一会だ。


「ある西アフリカ・グループ」とのタイトルで、西アフリカの週刊紙West Africaに1901年6月1日付で公開された写真

ロジャー・ケイスメント(1910年ごろ)

 そんな一瞬をフリーズしたこの一枚を「奇跡」だと思うのは、私がその後の二人の人生を知っているからである。彼らが生きた19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は世界各地で植民地獲得競争をくりひろげ、自分たちの価値観を「良きもの」として現地の人びとに押しつけることに何の疑問も持たなかった。そのなかで、この二人にはどこか、そんな自信たっぷりのヨーロッパに対する「ためらい」や「抗い」を感じるのである。それが私を、すれ違うしかなかった二つの人生を重ねてみたい衝動に駆りたてる。

 そこにもうひとり、ある歴史的事件と遭遇することになる写真の人物を加えてみよう。メアリの左側に座っている、ニジェール沿岸保護領の総領事クロード・マクドナルドである。この写真の撮影後、カラバルを去った彼は、イギリス公使として北京に異動となり、妻エセル(メアリの右側に座る女性)とともに、義和団事件(1900)に巻き込まれる。そして、ひとりの日本人武官と協力して籠城を耐え抜いた彼は、義和団鎮圧直後、駐日公使として東京に着任し、日英同盟締結を支えた。

 あの写真に封じ込められた時空間とは何なのだろう。写真の人びとの人生を重ね合わせると、時代の見え方はどんなふうに変わるだろうか。

すれ違いと出会いの狭間で――メアリとケイスメント

 メアリは、1892年まで、ロンドン、あるいはケンブリッジの自宅で、「従順な娘」というヴィクトリア時代の理想の女性像を生きてきた。父方のキングズリ家は、知の世界でその名を知られた名門一族。父ジョージは、貴族の侍医として、世界各地を自由奔放に旅して回り、異文化を愛でた。留守宅を預かるはずの母は心身を病んでおり、メアリは母の介護と弟チャールズの世話に明け暮れる。そんな生活は、1892年2月に父が、その6週間後に母が亡くなったことで、突然終わった。

 同1892年8月、アフリカ大陸の北西沿岸沖合に浮かぶスペイン領カナリア諸島に初めてひとり旅をしたメアリは、ここを活動拠点とする商人や宣教師、政府派遣の役人らの話から西アフリカへの関心を深め、そこへの旅を決意したという。それからほぼ1年後、1893年7月31日付の遺言を残した彼女は、その2日後、リヴァプール港から第1回目の旅に出た。 

 西アフリカでは、当時イギリスの直轄植民地であったシエラレオネのフリータウンから、まずは一気にポルトガル領アンゴラのサン・パウロ・デ・ロアンダ(現ルアンダ)まで南下し、そこからベルギー領、フランス領のコンゴへと北上するルートをとった(メアリ・キングズリの旅ルートについては、第5回を参照)。10月には、著書『西アフリカの旅』(1897)の序文にも登場する商人、リチャード・デネットのもとで過ごしている。リヴァプールの「ハットン&クックソン」社の駐在責任者である彼は、西アフリカ居住歴15年の西アフリカ通で、現地の自然や民族に関する豊かな知識はメアリを魅了した。と同時に、彼女は、現地文化を破壊することなく、平和な交易関係を構築しているヨーロッパ商人への共感と尊敬の念を強めた。これが、西アフリカにおけるヨーロッパの帝国主義を考えるメアリ・キングズリの基本的スタンスとなっていく。

 フランス領コンゴをさらに北上し、イギリスのニジェール沿岸保護領の拠点カラバルに到着したのは、11月末から12月初旬のことだった。ここを預かるマクドナルド総領事から、妻エセルがカラバルに来る際の同行を依頼され、二度目の旅への展望を膨らませている。

 一方、ケイスメントは当時、カラバルの領事館(1893年からは総領事館)を中心に、植民地の境界画定のための探検や地図作成などの任務に当たっていた。ダブリン生まれのケイスメントは、9歳で母を、12歳で父を亡くし、北アイルランドの親戚の家で育った。母方の叔父のつてで、15歳で西アフリカ航路を持つ商船会社「エルダー・デンプスター」に就職。1884年、20歳のとき、アメリカの探検家ヘンリー・M・スタンリーのコンゴ遠征隊への参加を志願して、初めてアフリカの地を踏んだ。その後アフリカでさまざまな経験を積み、その経験を買われて、1892年、マクドナルドのもとで初めて外務省職員に採用された。

 だが、メアリ・キングズリが西アフリカ沿岸部を北上する旅にあった1893年秋、ケイスメントは体調不良で休暇リーヴをとり、カラバルにはいなかった。従妹のガートルードに退院を知らせる手紙(1893年11月6日付)によれば、ロンドンの病院で痔瘻じろうの手術を受けたと思われる。退院後ブリュッセルの旧友のもとに身を寄せた彼は、1893年12月6日、カラバル行きの船に乗った。カラバルからメアリを乗せてリヴァプールに向かう船と、アフリカ沿岸か大西洋上のどこかですれ違ったと思われる。

 二人の唯一の接点となった1895年1月も、実はきわどいタイミングだった。1894年12月23日にリヴァプールを出航したメアリと総領事夫人エセルが、予定通り2週間ほどでカラバルに到着したとき、ケイスメントはすでにカラバルでの任を解かれ、帰国が決まっていた。あの写真は、メアリの到着とケイスメントの出発の間のごく短期間に撮影されたものなのである。奥地への旅に出ようとするレディ・トラベラーと、その奥地をよく知る帰国直前の外務省役人が、何か会話を交わしたことは間違いない。だが、記録はいっさい残っていない。その後、各々の経験を通じてイギリス支配のあり方を批判することになる「二人の未来」を知っている私としては、それがとてもはがゆい。

 記録に残されることはごくわずかでしかない。だからこそ、この写真は蠱惑こわく的なのだ。

ヨーロッパによるアフリカ分割の状況(1895年)。
二人が出会った1895年、アフリカ内陸部は依然として詳細不明で、ヨーロッパ人が支配の境界を確定できない地域が多いことがわかる。ピンク色が英領。

あったかもしれない三度目の旅

 あの写真の撮影後まもなく、ニジェール沿岸保護領をあとにしたケイスメントは、コンゴ川河口の伝道所に旧知の宣教師T・H・ホーストを訪ね、彼とともにイギリスに戻り、その後、故郷アイルランドに向かった。1895年6月、ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)の港湾都市、ロウレンソ・マルケス(現マプト)の領事に任命する外務省からの異動通知を受け取ったのは、アイルランドの叔父の家であった。

 同じ頃、メアリ・キングズリはフランス領コンゴの河口でオゴウェ川を遡るボートに乗船している。『西アフリカの旅』第7章は「オゴウェ川」と題され、1895年6月5日から始まる。この川を遡り、奥地をめざした旅のルートに白人未踏の地が含まれていたことで、1895年11月下旬に帰国したメアリ・キングズリは一躍、時の人となった。

 1897年1月に上梓された彼女の『西アフリカの旅』は、その分厚さにもかかわらず幅広い読者を獲得したが、それによって彼女は、西アフリカに支配を拡大しつつあったイギリス政府と現地人統治をめぐって対立し、時に激しい政治論争へと引きずり込まれた。1898年のシエラレオネの「小屋税戦争」はその好例である。

 イギリスの直轄領フリータウンの後背地(当時の地図)は1896年8月に広く保護領化されていたが、1898年1月、新たな課税として「小屋税」の徴収が始まると、これに反対する現地人が全土で同時多発的に反乱を起こした。メディアが「小屋税戦争」と呼んだこの出来事には、「自分が暮らす住居への課税」に対する、イギリスと現地との社会的・文化的な意味合いの差、理解の差が大きく関わっている。西アフリカの人びとにしてみれば、課税対象になることはイコール、自分の所有物ではなくなることを意味したのである。

当時のシエラレオネ
イギリスは直轄地フリータウンを拠点に、19世紀後半には半島部から奥地へと支配を広げた。1890年には治安部隊・フロンティア警察隊を立ち上げて実効支配を強め、1896年8月、上記領域全体を正式に保護領化した。1930年代に奥地で発見されたダイヤモンド鉱脈がその後「紛争ダイヤモンド」と呼ばれて内戦の一因となったことは、映画『ブラッド・ダイヤモンド』(2006年)などでおなじみである。

 旅の経験から、アフリカにはヨーロッパと異なる文化や法、慣習があることを確信するメアリは、すぐさま小屋税批判、反乱擁護の論陣を張り、植民地省と激しく対立した。彼女にとってもっとも痛手だったのは、反乱による混乱で、1898年に予定していた三度目の西アフリカの旅を断念せざるを得なかったことだろう。

 「小屋税戦争」を重く見たイギリス政府は、反乱の原因解明のために王立調査委員会を立ち上げた。委員会が送り込んだ調査団は、1898年7月、シエラレオネに到着し、関係者への聞き取り調査を開始する。

 同じ頃、ケイスメントは、サン・パウロ・デ・ロアンダの領事に異動となり、再び西アフリカに戻ってきた。彼が受け取った異動通知(1898年7月29日付)には、「コンゴ独立国およびガボン」と、北に隣接するフランス領も管轄地区として補足されており、もしメアリの三度目の旅が実現していればケイスメントとの新たな縁が生まれたかもしれない、と思わずにはいられない。当時のメアリ自身、西アフリカの旅で知り合ったある植民地行政官に宛てた手紙のなかで、つぎのように書いている。

ロジャー・ケイスメントはロアンダ領事の職を得たとのことですが、アイルランドでは自転車で転んでけがをしたそうです。後者の内容は間違いないと思いますが、前者については会ってみないとわかりません。

(チャールズ・クロース宛、1898年8月8日付)

 ケイスメントは今回の異動通知も、故郷アイルランドで受け取ったのだろうか。メアリらしいユーモアあふれる文面からは、時期が許せば西アフリカをもう一度旅したいという思いが見え隠れする気がする。

義和団事件と籠城――北京のマクドナルド

 手紙には、ケイスメントに関する上記のあとに次の言葉が続いている。

ご存じのように、サー・クロード・マクドナルドは北京で不穏な時を過ごしています。

 メアリは、『西アフリカの旅』の最後にも、カメルーン山登頂を終えてカラバルに戻った1895年10月上旬、マクドナルド夫妻がすでに数カ月前に(つまり、メアリがオゴウェ川河口に着くころには)カラバルをあとにし、帰国後まもなくイギリス公使として北京に異動したことを記している。

 1898年8月の手紙でメアリの言う「不穏な時(anxious time)」とは、「義和団」が勢力を拡大し、キリスト教の教会や中国人信者への襲撃が増えていくさまに言及したものと思われる。山東半島で結成された白蓮教の流れを汲む自衛組織「義和団」が、反キリスト教と外国人排斥を叫びながら、1900年の初夏、北京のイギリス公使館にいるマクドナルド夫妻に迫りつつあった。

 1900年6月4日(この日付をご記憶願いたい)、マクドナルド公使は外相を兼務する首相ソールズベリに宛てて、「イギリス人宣教師ロビンソンとノーマンが義和団に殺され、その断固たる措置を清国政府に求めた」と打電した。公文書から歴史的出来事を再構成する“Uncovered Editions”シリーズの一冊として、義和団の乱100周年を記念して出版された『1900年、北京公使館の籠城』(イギリス印刷庁、2000年)は、その前半、第一部で、この日以降、外務省と北京公使館とのやりとりが一気に緊迫の度合いを増していくさまを伝えている。

 義和団弾圧に失敗した西大后は義和団支持に転じ、1900年6月19日、突然欧米列強に宣戦布告し、24時間以内の北京退去を命じた。これを契機に、北京・紫禁城の東南地区、在外公館区域である東交民巷への集中攻撃が始まった。日本を含む11カ国の公使館関係者、各国居留民、そして中国人キリスト教徒ら、合わせて3000人ほどがこの地区に籠城を強いられた。1万を超える義和団・清国兵士軍に対して、籠城する公館側は430名の兵士に150名ほどの志願兵のみ。その総指揮官を務めたのが、イギリス公使クロード・マクドナルドであった。イギリス公使館の広さと堅牢さに加えて、前任地である西アフリカ、ニジェール沿岸保護領を任されたときと同様に、陸軍士官学校出身という、外交官としての異色の経歴がその大きな理由であった。

北京公使館籠城防衛線変遷図

 マクドナルド公使は、籠城する多様な国籍の兵士・義勇兵を束ねる権限を、1900年3月に日本公使館付き武官として着任した柴五郎・陸軍中佐(1860-1945)に与えた。上述した『1900年、北京公使館の籠城』の後半、第二部は、清国が宣戦布告する前日の6月20日から、日本とロシアを中心とする援軍が到着する8月14日まで、籠城の状況や死傷者数などを詳細に記録したマクドナルドの日記なのだが、そこに何度も登場するのが“Colonel Shiba”である。なお、「中佐」に当たる英語は“Lieutenant Colonel”だが、マクドナルドの日記でこの正式名称が記されているのはわずか1か所のみ。それ以外は「大佐」を意味する“Colonel”が使用されている。それは単なる省略という以上に(通常の略称ではLt.-Colonel)、能力と人柄を含めた柴中佐へのマクドナルドの敬意と信頼の表れではないだろうか。

日英同盟への道――マクドナルドと柴五郎

 柴五郎は、会津藩士の五男に生まれた。戊辰戦争で若松城が約1か月の籠城の末に陥落する前日、母の勧めで親戚の家に送り出されて落城時の難を逃れた。母や祖母、姉妹らは自刃して果て、柴はその後、生き残った父や兄とともに、「朝敵」となった会津藩士の集団移住先である斗南となみ藩(現在の青森県むつ市)に移った。苦しい生活のなかでいくつかの縁をつなぎ、陸軍幼年生徒隊(幼年学校の前身)、士官学校へと進んだ柴は、中国語や英語、フランス語に堪能であり、諜報活動に卓越した才能を開花させていく。その人生については、柴自身が当時の想い出を綴っている『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(石光真人編、中公新書、1971年)に譲りたい。

陸軍中佐時代の柴五郎

 1900年6月から8月にかけて、柴中佐は、高い諜報能力を生かしながら、足並みのそろわない籠城部隊を率いて、各公館のリーダーたちとも粘り強く交渉し、2か月に及ぶ籠城を耐え抜いた。その様子は、柴五郎、並びに義勇兵として籠城に参加した北京留学中の東京帝国大学文科大学(東京大学文学部の前身)教授・服部宇之吉が記した『北京籠城・北京籠城日記 付北京籠城回顧録』(大山梓編、平凡社の東洋文庫53として1965年復刊)に詳しい。

 ちなみに、映画『北京の55日』(1963年制作・公開)では、のちに映画監督となる伊丹十三(当時は一三)が柴中佐役を演じている。最近では、『万能鑑定士Q』シリーズなどの作品で人気の松岡圭祐が『黄砂の籠城』(上・下、講談社文庫、2017年)でこの籠城を真っ向から扱った。小説の最後は柴中佐とマクドナルド公使との友情で締めくくられており、そのあとに添えられた「後記」でも、「柴五郎陸軍砲兵中佐の冷静沈着にして頭脳明晰なリーダーシップ、彼に率いられた日本の兵士らの忠誠心と勇敢さ、礼儀正しさ」への敬意をマクドナルドが公式に示したとして、日英同盟締結への道筋が暗示されている。

 義和団の乱の鎮圧後、休養のために一時帰国を勧める首相の申し出を丁重に断ったマクドナルドは、籠城を共に耐え抜き、傷ついた人びとの看護にあたった妻エセルとともに、東京に移動し、アーネスト・サトウ後任の駐日イギリス公使に着任した。1902年の日英同盟締結、その後2度にわたる同盟更新を通じて、クロード・マクドナルドは日英関係の良き時代を象徴する外交官となる。

 余談ながら、2020年にはむつ市が「斗南藩150年記念事業」の一環として、柴五郎の住居跡に顕彰碑を建立した。コロナ禍で遅れていた除幕式も、2021年6月27日に無事行われたと聞く(「義和団事件で居留民保護に活躍 柴五郎の顕彰碑が完成」朝日新聞デジタル)。2018年の「明治維新150周年」から続くこうした顕彰事業は、「英雄再発見」に留まらず、現在を過去へとつなぎ、今を考え直す重要な機会でもある。

「家路」の謎――南アフリカのメアリ

 さて、話をメアリ・キングズリに戻そう。

 マクドナルド夫妻が北京で籠城戦の最中、イギリスは南アフリカで、2つのボーア人国家、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国と戦闘状態にあった。彼らをオランダ農民の子孫と侮り、1899年10月の開戦時には早期決戦を思い描いていたイギリスだが、現地の地形を知るボーア人に苦戦を強いられた。

 このとき、劣勢打開の戦略拠点として注目されたのが、ケイスメントの前任地、モザンビークのロウレンソ・マルケスであった。この町とトランスヴァール共和国の首都プレトリアが鉄道で結ばれていたからである。1900年1月から2月にかけて、西アフリカ、ロアンダ領事のケイスメントは、休日に前任地を訪れたという風情でロウレンソ・マルケスに赴き、港湾から鉄道に移される積み荷の中身の確認をはじめ、積極的に諜報活動を展開した。この時期のケイスメントは、まさに大英帝国に仕える官吏(サーヴァント)そのものであり、十数年後に反逆者として処刑される片鱗も認められない。

ロウレンソ・マルケスとプレトリアを結ぶネーデルランド南アフリカ鉄道(開業1895年)

 同じ頃、1900年2月12日、ロンドンの帝国研究所で「西アフリカにおける帝国主義」という講演を行ったメアリも、冒頭、「今みなさんの最大の関心は、西アフリカではなく、南アフリカでしょうが…」との言葉を発している。それでも西アフリカに関心を持って集まってくれたことに感謝しながら、彼女はいつものように、西アフリカの旅で経験した現地諸民族の文化、社会制度、慣習などを語り、これらを生かした間接統治と貿易関係の重要性を強調した。そして、講演の最後をこんな言葉で締めくくっている。

さようなら、みなさん、お別れです。私は家路につくのですから。
(Goodbye and fare you well, for I am homeward bound.)

 「家路」とは、もちろん西アフリカ――その場にいた聴衆も彼女の友人たちも、みなそう思ったことだろう。

 だが、1か月後の1900年3月10日、メアリが乗り込んだのは、カラバル行きの商船ではなく、ケープタウン行きの軍艦であった。南アフリカ戦争の戦場での看護活動を志願したのである。3月28日にケープタウンに到着後、近隣のサイモンズタウンの砲兵隊の兵舎(バラック)を改築した簡易病院施設に配属され、ボーア人捕虜の看護にあたった。ケープペンギンの繁殖地として知られているサイモンズタウンには、当時も今も南アフリカ最大の海軍基地がある。

 なぜ当時イギリスでその名を知られたメアリ・キングズリが、イギリス人ではなく、ボーア人捕虜の看護の配属に回されたのか。そこには、彼女が到着する前後の戦況変化が大きく影響している。

メアリの死

 南アフリカで苦戦を強いられたイギリス軍は、1900年1月、18万人余りの大規模な兵力補充によって盛り返しはじめ、1900年2月末、パーダベルクの戦いを境に、両軍の形勢は逆転する。この戦いに敗れたボーア軍から約4000人の兵士が投降。ボーア人捕虜の急増で、彼らの収容場所の確保が問題となった。当初はサイモンズ湾内に停泊する輸送船や病院船、その後サイモンズタウン郊外のベルビューに設けたテントに収容したが、それでは追いつかず、1900年4月半ば以降は、大英帝国領の島々――アフリカ沖合のセント・ヘレナ島、西インド諸島のバーミューダ島、インドのセイロン島(現スリランカ)などに捕虜収容所がつぎつぎと設置され、それらへの移送も始まった。

サイモンズタウンの捕虜収容所

 このように、メアリ・キングズリは、戦況変化でボーア人捕虜が急増する新たな局面を迎えた瞬間のケープタウンに降り立ち、移送を待つ捕虜の看護に忙殺されることになった。

 彼女が腸チフスに感染し、手術の甲斐なく37歳で死亡したのはそのわずか3か月後、6月3日のことであった。1900年6月3日といえば、先に記したように、義和団をめぐって北京のマクドナルド公使と外務省とのやりとりが緊迫感を増す契機となった、義和団によるイギリス人宣教師殺害の日である。サイモンズタウンではメアリが亡くなり、北京のマクドナルド夫妻も一時死亡が伝えられた。当時の大英帝国がどういう時空間だったかを実感させられる。

 メアリ・キングズリは死の直前、「死んだら水葬にしてほしい」「動物[の死に際]と同じように、ひとりにして」とつぶやいたという。これら彼女の最期の言葉は、軍医長ジェラール・カレの手紙で多くの関係者に伝えられ、広く知られることになった。

 遺言に従い、海軍形式にのっとって水葬の儀式は厳かにとり行われた。彼女の遺体を収めた棺は、イギリスの魚雷艇スラッシュ号でサイモンズタウンの埠頭から3マイル沖合のケープポイントに運ばれ、ゆっくりと海面に降ろされた。だが、棺はなかなか沈まない。魚雷艇の救命ボートがおもりとなるスペアの錨を棺に結びつけたのち、棺はようやく海中に沈み始めた。新聞が伝えるこの顛末を、メアリ独特の「ユーモア」と思うか、あるいは西アフリカへの彼女の未練と捉えるか――いずれにしても、残された者の心をざわつかせたことだろう。

サイモンズタウンの埠頭におけるメアリ・キングズリの葬儀の模様(Robert D. Pearce, Mary Kingsley, 1990, p.96とp.97の間) 

 彼女の死に納得できず、ざわつく心を抑えきれない人たちは、それぞれの場所で、メアリ・キングズリの記憶を留めようと動き出していく。彼女との接点を永遠に失ったロジャー・ケイスメントは、帝国主義ヨーロッパへの「ためらい」や「抗い」に独自のかたちを与えようともがきはじめる。大英帝国の官吏を脱皮していくその先に、処刑という彼の死もまた準備されていく。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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