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過去につながり、今を問え!

レディ・トラベラーへの旅(1)

 年明け早々から、退職する大学教員の最終講義のお知らせが届きはじめた。2020-21年はコロナ禍によるオンライン配信が圧倒的に多く、諸先輩の最終講義をいくつか聞くことができた。最終講義のYou Tube配信も広がっており、なかには画像処理技術を駆使したドキュメンタリー・タッチのものまである。ウィズコロナ時代の最終講義は、見せ方も残し方もさらに多様化し、研究関係者のみならず、広く市民に開かれ、楽しめるものへと変わっていくかもしれない。

 もうひとつ、大学教員の退職には退職記念論集の刊行というイベントがある。こちらはコロナ禍でも特に従来と変わらない。専攻や学科の同僚、研究仲間、あるいは教え子らが企画し、退職者と縁の深い人たちが執筆することになる。昨年秋、某国立大学を定年退職する友人の関係者から、記念論集への執筆依頼があった。「えー?もう定年なの?」とびっくりした次の瞬間、自分の年齢に改めて気づく。そして、人類学者の彼との四半世紀を超える長いつきあいに思いをはせた。

 出会いは、1994年。駆け出しの研究者だった30代の私は、彼が主宰する国立民族学博物館の研究会に参加したのだった。共同研究のテーマは「民族誌的現在の歴史的文脈」。民族誌(エスノグラフィー)とは、フィールドワークを通して現地の社会や人びとの生活・文化を記述したもの。それを歴史学との対話を通じて見直そうとする試みであった。

 あのとき私は何をしていたんだっけ? 

 一気に時間が、「あのころの私」に巻き戻る……。

レディ・トラベラーとは?

 1990年に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社)、その2年後に『子どもたちの大英帝国――世紀末、フーリガン登場』(中公新書)と2冊の単著を出した私は、1994年当時、大英帝国という時空間への関心を深めつつ、つぎは女性たちの目でこの空間を見直したいという思いを強くしつつあった。政治史や経済史といった「伝統的な歴史学」で無視されてきた、名もなき人びとの名もなき出来事に光を当てて社会全体を見直そうとする「社会史」という大きな波のなかで、女性たちの姿や声を引き出す研究成果が続いていたことが、私の背中を押していた。だが、女性も一枚岩ではない。誰の目から大英帝国を見直すのがいいだろう?

 私の目に留まったのは、レディ・トラベラーと呼ばれる一群の女性たちだった。19世紀後半から20世紀にかけて、さまざまな事情と自らの好奇心から、アジアやアフリカ、オセアニアなど、世界各地を旅した女性たちのことである。

 旅といっても、レディ・トラベラーは、観光会社がお膳立てしたルートをめぐる「ツーリスト」ではない。彼女たちにはいくつかの特徴がある。

 第一に、レディ・トラベラーはひとりで旅をする。それは、白人の同行者がいない、という意味であり、ガイドや通訳、荷役などに現地の人たちの力を借りていることは言うまでもない。

 第二に、レディ・トラベラーの旅には、文字通りの「トラベル」、つまり苦労が伴う(travelとtroubleは語源が同じ)。それでも、白人未踏の土地を旅することは少なく、たいていは男性の探検家、冒険家の後塵を拝した。男たちの探検が「未知の発見」、観光が「既知の発見」とすれば、レディ・トラベラーの旅はその中間に位置し、「あまり知られていないものの発見」だといえる。地名に名を残す男性探検家・冒険家とは異なり、彼女たちの存在が、一時的に評判にはなってもすぐに忘れられていったのは、そのあたりに一因があるのだろう。

 第三に、レディ・トラベラーは旅の資金を自分で調達できる中産階級に属していた。男性の探検が、現地の測量や国境画定と関わって、王立地理学協会(1830年設立)から豊かな資金援助を受けていたこととは対照的である。しかも30代、40代の未婚が多く、当時の平均年齢からすると中年の女性たちであった。

 ここから第四の特徴が引き出せる。それはイコール、彼女たちが中産階級特有のモラルや知性、家族像や価値観のなかで育ったことである。手紙を書き、日記をつけることも、この階級の女性たちの特徴だ。旅のなかでこまめに家族に綴った手紙が、レディ・トラベラーの旅行記のベースとなっている。

 上記のように、レディ・トラベラーがアフリカやアジア、大西洋上へと向かったのは、元気溌剌、若さゆえの勢い、によるものではない。しかも、 彼女たちは体力に自信があったわけではなく、むしろ多くが片頭痛、腰痛、関節炎などの持病を抱えていたことを、第五の特徴としてあげておこう。興味深いのは、彼女たちが「旅の間は持病が治まっていた」と異口同音に語っていることである。実はこの点は、21世紀に入って環境・気候と病気(あるいは病気認識)との関連性をめぐる研究が進展するなかで、新たな注目を集めている。1990年代の私は、それを単純に「環境が変わったから」とだけ捉えていたが、どうもそれだけではないようで、別の機会に少し触れたいと思っている。

「変人」女性と大英帝国

 上記5つの特徴から思い浮かぶレディ・トラベラーのイメージを一言で表現すれば、「変人」であり、当時の理想像である「従順な娘、貞淑な妻、慈悲深き母」を大きく逸脱した「男のような」女性、だろう。実際、家族や親しい友人を除けば、当時のイギリス社会は、レディ・トラベラーを「女性らしさ」とは真逆の存在と捉えていた。好奇心むき出しの人びとの反応から、彼女たちは帰国後、ふたたび片頭痛や腰痛に悩まされることになった。

 同時代のもうひとつの「変人」女性として、女性参政権運動の担い手、特に郵便ポストの放火や建物への投石などの過激な行為で知られるサフラジェットたちがいた。パンクハースト夫人と二人の娘を中心とする彼女たちの活動は、映画『サフラジェット』(邦題『未来を花束にして』、2015年制作)に描かれている。面白いことに、レディ・トラベラーの大半は女性参政権運動に否定的だった。見方を変えれば、レディ・トラベラーは非常に保守的であり、政治への関心はほとんどなかった。アフリカやアジアの旅はいっとき、イギリス社会が求める「女性らしさ」や「家庭における女性の義務」から彼女たちを解き放ったかもしれないが、彼女たちはそれらを否定する「新しい女性」ではなかったのだ。

 では、旅は彼女たちの価値観、世界観をどう変えたのだろうか。そもそもなぜ彼女たちは、安全で心地いいイギリスのわが家を離れて、遠くの危険な地を旅したのだろうか。

 そんな問いが、伝記やノンフィクションの作家ライターのみならず、歴史学の研究対象として真面目に・・・・議論されるようになったのが、1980年代、90年代のことである。それは、大英帝国に対する関心の復活と関わっている。

 きっかけとなった出来事はフォークランド紛争(1982)だ。アルゼンチン沖、南米大陸最南端、ホーン岬から北東へ700キロ余りの大西洋上に浮かぶフォークランド諸島(アルゼンチン名マルビナス諸島)は、1833年以来イギリスが実効支配してきた。1982年3月、アルゼンチン海兵隊が無断で島に上陸したのを皮切りに、4月には島の領有を主張してアルゼンチン軍が侵攻した。イギリスは空母2隻をベースに機動部隊を派遣し、最新鋭ミサイルを投入して島の奪還に成功。社会保障政策の失敗で人気低迷中だった当時の首相、マーガレット・サッチャーは支持率を回復した。連日テレビで報道される戦闘の模様は、イギリス人の愛国心をかきたてた。それまでほとんど意識していなかったこの「羊と岩だらけの島」での勝利は、イギリス人が「帝国であった過去」に目覚めていく契機ともなった。 


フォークランド諸島

 くわえて、ベルリンの壁の崩壊(1989)やソ連という国家の解体(1991)など、冷戦体制崩壊による国際的枠組みの大変革が、イギリスの歴史を、一国史としてではなく、より広い文脈で捉えたいという人びとの欲求につながっていたことも無視できな。ピューリッツァー賞を受賞したジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(1997初版、日本語訳は草思社、2000年)を筆頭に、人類史をより長いスパンで捉えた歴史書や「グローバル・ヒストリー」を銘打った書籍が増えるのも1990年代であり、当時の世界的潮流がうかがい知れる。こうした大きな時代のうねりが、名もなき女性たちに光を当てた社会史の数々の成果と重なって、レディ・トラベラーを忘却のかなたから引き戻したといえる。

 1990年代、彼女たちの旅の再発見は急速に進められた。フェミニズムの出版社として知られるヴィラーゴ社は1994年、『女性トラベラーの本』を刊行した。探検や旅を専門とする古本屋で売買経験を積んだジェイン・ロビンソンが女性旅行家のアンソロジーを手がけたのも、同じ1994年のことである。以後、彼女たちの旅行記の復刻も進められ、彼女たちの旅とその記述を真面目に捉え直そうとする研究が本格化していった。

 1994年、国立民族博物館の共同研究に誘われたとき、私は「帝国と女性」をめぐる大きな潮目のまっただなかにいた。

メアリ・キングズリとの出会い

 『ヴィクトリア朝のレディ・トラベラー』(1965)の著者ドロシー・ミドルトンは、きわめて早期にレディ・トラベラーに関心を寄せたひとりである。彼女は、男たちによる多くの探検のスポンサーであった学術組織、王立地理学協会の季刊誌『ジオグラフィカル・ジャーナル』の副編集長を長らく務めていた。その間、ある出版社から「イザベラ・バードの手紙を見てほしい」との依頼を契機に、バードに、そして彼女を含むレディ・トラベラーたちへの関心を深めたという。

 1878(明治11)年に初めて日本を訪れ、東北を旅して北海道へと渡り、アイヌの記録を残したイザベラ・バード(1831-1904)は、日本で最も有名なレディ・トラベラーだろう。民俗学者の宮本常一には、日本観光文化協会所長時代にバードの『日本奥地紀行』(1880年初版、日本語訳は平凡社、1973年)の講読講義録をもとに編んだ『イザベラ・バードの旅――『日本奥地紀行』を読む』(講談社学術文庫)がある。そのなかで宮本は、レディ・トラベラーの観察眼の鋭さ、彼女が見たものの意味を楽しげに分析している。もっとも、現代の読者には、民俗学者の本よりも、佐々大河の漫画『ふしぎの国のバード』(KADOKAWA、2015-)や、バードの通訳兼従者を務めた伊藤鶴吉を主人公にした中島京子の小説『イトウの恋』(講談社、2005年)の方が身近かもしれない。

 だが、イギリスには、バード以上に有名なレディ・トラベラーがたくさんいる。なかでも際立つ存在がメアリ・キングズリ(1862-1900)だ。彼女は、当時マラリアの罹患率、死亡率の高さゆえに「白人の墓場」と言われた西アフリカを、単身、二度にわたって旅し、その様子を描いた『西アフリカの旅』(1897)で一気にブレイクした。彼女の旅については、拙著『女たちの大英帝国』と『植民地経験のゆくえ』に詳しいが、彼女の旅行記(ダイジェスト版を含む)も、彼女自身の伝記も、「レディ・トラベラー再発見」が始まるずっと以前から公刊されていた。「再発見」が進む1980年代以降も、多くの作家が彼女の伝記を出版しており、子供向きの読み物を含めて、人気の高さが知れる。 1990年代にクローズアップされた帝国とジェンダー、旅とジェンダーの研究においても、彼女はひときわ存在感を放っている。

井野瀬久美惠『女たちの大英帝国』講談社現代新書、1998年

井野瀬久美惠『植民地経験のゆくえ――アリス・グリーンのサロンと世紀転換期の大英帝国』人文書院、2004年。向かって右の写真がメアリ・キングズリ。

 レディ・トラベラーの存在に注目した瞬間から、私はメアリ・キングズリに引き寄せられていた。旅行記を読む前に、伝記や評伝の表紙を飾る、あるいは口絵に掲げられたメアリの写真に、魅了されてしまったのだ。

 写真は2種類ある。ひとつは、初めての著作『西アフリカの旅』を出した1897年にスタジオ撮影された黒いドレス姿の全身写真。木々と階段が描かれた背景の前に立つ彼女は、全身黒づくめ。顎まで首をすっぽりとおおったハイネックのスカーフ、つま先まで届くロングドレス、右の足先がわずかに見える靴も黒だ。手首近くで細く締まる袖は、肩から腕にかけてふわっと膨らんでいて、コルセットで締めたウェストラインがより細く見える。アップにした頭には花飾りのついたボンネット、右手は黒い日傘の柄を軽く握り、左手には(おそらくは皮の)手袋を握りしめる。整った目鼻立ち、正面をしっかりと見つめる目ヂカラが印象的な一枚だ。スタジオ撮影の作為性を感じさせないのは、真っ直ぐにこちらを見すえる彼女が真顔だからだろう。

メアリ・キングズリ、1897年
(Robert D. Pearce, Mary Kingsley: Light at the Heart of Darkness, Oxford: Kensal Press, 1990.)

 もう一枚は、西アフリカの旅から戻ったとたんに有名人となり、『西アフリカの旅』の出版以降はメディアに追い回されることが増えた彼女が、1898年ごろ、報道用に撮った胸から上の写真である。自ら「八方美人であろうとする者の憂鬱な写真」と解説をつけたこの写真も 、先の一枚と同じ服装のようだ。こころもち右を向いたその表情からやはり意志の強さが伝わってくるのは、口元をきゅっと結んだせいだろうか。


メアリ・キングズリ、1898年ごろ(出典同上) 

良質の分厚いロングスカートのおかげ

 メアリ・キングズリは、写真によく似たロングドレス姿で西アフリカのジャングルを旅し、現地人ガイドとオゴウェ川をカヌーで遡って新種の魚を採取し、西アフリカ最高峰のカメルーン山(標高4,095メートル)に白人女性として初めて登った。そのもっとも有名なシーン、帰国後の彼女が講演のたびに強調していた場面を『西アフリカの旅』から紹介してみよう。

旅ルート① メアリ・キングズリは1893年8月から4カ月余り、西アフリカ沿岸部を中心に図のような旅をした(井野瀬久美惠『植民地経験のゆくえ』123頁より)。それをもとに、1895年の2回目の旅では、旅ルート②に記した奥地にまで足を踏み入れることになる。 

旅ルート② 旅ルート①のオゴウェ川流域の拡大図(出典同上、124頁)

 エフォナという村に向かっていたメアリは、現地ファン族が仕掛けた、深さが約4.5メートルもある、底に杭が突き出た獣捕獲用の穴に落ちてしまった。無事だとわかったときの様子はこう表現されている。

「良質の分厚いロングスカートのありがたみがわかるのはこんなときです。イギリスで多くの方々からいただいた助言を気にして男性のような服装をしていたら、杭が骨まで貫通していたことでしょう。…私はスカートのふくらみを身体の下に押し込み、12インチ[30センチ余り]ほどの黒檀の9本の杭の上に比較的楽に座って、早く出してと快活に叫んだのです。」

 このとき彼女は、ガイド兼荷役として雇ったファン族の男たちとともに、白人男性も旅したことのない、すなわち当時の地図にはない土地に、足を踏み入れつつあった。現在赤道ギニア共和国の国民の大半を占めるバンツー系の民族ファンには、当時、自分たちの土地への侵入者を殺して食べる「人喰い」の噂があった。沿岸部ではなく奥地、オゴウェ川の北のジャングルに暮らすファンは、特に粗野で危険だとして、現地部族の間でも恐れられていた。リチャード・バートンらの探検記に登場する彼らの話を読んでいたメアリも、ファンを「人喰い」、カニバリズムの文脈で捉えてはいたが、彼らを怖いとは思わなかったという。むしろ彼女は、西アフリカ沿岸部での交易を通じて白人馴れした現地人を嫌っており、同行したファンの男たちとの間には友情すら感じたと書いている。


ファンの人びと
(Mary Kingsely, Travels in West Africa: Congo Français, Corisco and Cameroon, London: Macmillan,1897.)

 さて、ロープ代わりの植物の蔓を使って穴から一気に引き上げられたメアリは、「ものすごく恥ずかしい」思いを抱えたまま、ふたたび歩き始めた。ところがまもなく、先頭を歩いていたファンの男性(ひどく無口な彼に、メアリは「サイレンス」というあだ名をつけていた)が、突然、悲鳴とともに消えた。今度は彼が獣用のわなに落ちたのだ。「サイレンス」を引き上げたときの様子を、メアリはこう書いている。

「彼の身体の必要な個所を緑の冷たい葉っぱでくるんであげました。彼はスカートをはいていなかったので、杭のとげですり傷だらけだったのです。」

 こうした書きぶりひとつひとつから、同じルートを旅した男性旅行家・冒険家とは異なる「彼女の旅」が伝わってくる。


筆者が集めたメアリ・キングズリ関連書籍の一部。中央の赤い背表紙の本が、『西アフリカの旅』初版本。

西アフリカ、1895年

『西アフリカの旅』を読み進めながら、メアリの伝記を片っ端から集めた私は、挿入された彼女所縁の写真に見入ったものだ。そんなある日、1枚の集合写真に目が釘付けになった。おそらくは、メアリ・キングズリが映っている唯一の集合写真だろう。拙著『植民地経験のゆくえ』の冒頭は、この写真から始まっている。

「ある西アフリカ・グループ」とのタイトルで、西アフリカの週刊紙West Africaに1901年6月1日付で公開された写真

 撮影されたのは1895年1月、場所は西アフリカ、現在のナイジェリア南東部の港町、カラバル(オールド・カラバル)。以前オイル・リヴァーズ保護領と呼ばれていたこの地域は、1893年以降、ニジェール沿岸保護領と改名された。カラバルはこの地域のイギリスの統括拠点だった。背後の建物は領事館だと思われる。

 写っている人物は全部で8人。前列中央、カメラをしっかり見据えて座っている女性がメアリ・キングズリである。その左隣に座る男性は、ニジェール沿岸保護領の総領事、クロード・マクドナルド(1852-1915)。スコットランド出身の軍人で、ハイランド軽歩兵隊将校としてカイロ、ザンジバルに配属されたのち、この地に派遣されて初代総領事となった。『西アフリカの旅』によれば、メアリは1893年秋、最初の西アフリカの旅でカラバルに立ち寄った際にマクドナルド総領事と知り合い、妻エセルのアフリカ行きの付き添いを頼まれたという。エセルは、メアリの右隣に座り、愛犬(だろう)に目をやり、手をのばしている。1894年12月下旬、二人の女性を乗せた船はリヴァプールをたち、1895年1月半ばにカラバルに到着した。写真は二人の無事の到着を記念して撮影されたと思われる。

 後ろに立つ5人の男たちは、いずれも当時、マクドナルドのもとで働くイギリス人スタッフである。私が目を奪われたのは、向かって右端に立つ男性。他の4人より頭ひとつ抜きん出た長身、鋭い眼光、一度見たら忘れない特徴あるあごひげ――ロジャー・ケイスメント(1864-1916)である。アフリカや南米を転々としたイギリスの外交官。ベルギー王レオポルド2世が私的に所有するコンゴ自由国での現地人虐待の実態を調査し、報告書にまとめて全世界に伝えた人道主義者。その後、アイルランド独立運動に身を投じた愛国者であり、第一次世界大戦中の1916年4月、イースター蜂起との関連で逮捕され、同年8月に処刑された。ケイスメントは1892年7月にニジェール沿岸保護領に赴任したが、メアリらの到着後まもなくアイルランドに帰国し、その後ポルトガル領東アフリカの要衝、ロレンソ・マルケスの領事に異動した。

 メアリ・キングズリとロジャー・ケイスメントが写り込んだこの集合写真は、大英帝国と関わる私の研究に新たな地平を拓いてくれた、忘れられない一枚である。友人の退職記念論集への執筆依頼をきっかけに戻ってきた「あのころの私」は、松任谷由実の歌のように、泣きながらこの写真をちぎることはしないけれど、やはり二人にまた会いたいと思う。そして、二人に会える旅が歴史研究なのだと、以前より強く思う。

 今回改めてこの写真のことを調べ直し、「あのころの私」が見過ごしていたこと――たとえば、ケイスメントを含む植民地行政官の「異動の行間」を読む面白さも見えてきた。次回はそんな話とともに、メアリ・キングズリの唐突な最期にもおつきあいいだたきたい。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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