ブリストルのコルストン像、引き倒される!(3)――レイシストの記憶へ
「コメモレイション・デー」のもうひとつの記憶
コルストンが奴隷商人であり、「レイシスト」であるという記憶は、いつ、どのように想起されたのだろうか。
その突破口を開いたのは、歴史家ではなく、アーティストたちであった。
1992年8月から1993年1月にかけて、大西洋上の奴隷貿易と関わった2つの港町リヴァプールとブリストル、および奴隷貿易廃止法案(1807)を推進した国会議員ウィリアム・ウィルバーフォース(1759-1833)の選挙区であるハル(北海に注ぐハンバー川の河口のキングストン・アポン・ハル)の3つの都市が連携して、「帝国の戦利品」と題する展示が行われた。3都市に共通する展示のテーマは、「コロンブスが開いた奴隷貿易や植民地主義の遺産とは何か」の再考であった。
1992年といえば、「コロンブスによる新大陸発見」から500年という大きな節目にあたる。そこでは、この歴史的出来事が欧米に開いた「明るい未来」とは対照的に、南北アメリカ大陸やカリブ海域の先住民、広くアフリカやアジアの人びとにもたらした「負の遺産」に大きな注目が集まりつつあった。上記展示もその一角を成す。ちなみに、2020年初夏、BLMを中心とする反レイシズム運動のなかで、像の撤去が(要求を含めて)最も多かったのもコロンブス像であったという(『朝日新聞』2020年9月10日)。
クリストファー・コロンブス(1451頃-1506、出身とされるイタリア語ではクリストーフォロ・コロンボ)再検討の動きは、1989年に起きたベルリンの壁崩壊、それが象徴する冷戦体制の崩壊とも関連している。それまで東西対立のなかに封じ込められ、冷凍保存されてきたさまざまな「声」がこの国際情勢のなかで解凍され、噴出し、可視化されていったからである。その延長線上に、われわれが生きる21世紀という時代があることを忘れてはならない。しかも、IT革命と相まって個人による情報発信が可能かつ容易にでき、個人の私的な「記憶」が、国や地方行政体などの公的な「記録」を揺さぶることができる時代でもある。この「記録と記憶の狭間」を見つめること、考えること、問うことこそ、本連載のねらいである。ローカルな問題は、どこかでグローバルな問題とつながっている。
話が少しそれてしまったが、凍結されてきた「声」は、そんな1992年に開催された「帝国の戦利品」展でもあふれ出た。ひときわ衆目を集めたのは、ブリストル会場(アルノルフィーニ・ギャラリー、1992.11.21~1993.1.10)で、インスタレーションとプロジェクションを組み合わせた作品であった。
制作者はブリストル出身のアーティスト、キャロル・ドレイク。作品のタイトルは「コメモレイション・デー」――「記念日」がこの町で何を意味するか、市民の多くには自明であった。
暗い床に敷き詰められているのは、摘み取られた菊の花。菊はコルストンお気に入りの花とされ、「コルストン・デー」を彩る花である(展示開催中、花はしおれるがままに放置された)。近くの壁にはモノクロームの映像が映し出されている。映像のなかで、制作者ドレイク自身の出身校、コルストン・ガールズ・スクールの女生徒たちが、コルストン・デーにコルストン像の周囲に群がり、花を供えている。添えられた説明によれば、この映像は、1973年、旧校舎が建て替えられた年に撮影されたものだという。おそらく、学生時代のドレイクもまた、無邪気にコルストン・デーを祝う女子高生のひとりだったのだろう。
はしゃぐ生徒たちの映像のうえに、不気味な黒い影が落ちている。天井からロープで首を吊られたレプリカのコルストン像だ。その姿は、2020年6月7日を知るわれわれに、ロープで引き倒されたコルストン像を連想させずにはおかない。
展示にあたって、制作者ドレイクは、自分が生まれ育ったこの町が「記憶喪失」に陥っていると語ったが、実際、この作品を見たブリストル市民の反応は鈍かった。コルストン像に閉じ込められた「もうひとつの記憶」――レイシストの奴隷商人――に行きつくには、いくつかの「リハビリ」が必要であった。
奴隷商人コルストン――ローカルな記憶からナショナルな記憶へ
1998年1月、コルストン像の台座にペンキで「奴隷商人」と落書きされたことを、『ガーディアン』やBBCが大きく取り上げた。その直前、ブリストルでは、18世紀の奴隷貿易をとりあげたフィリッパ・グレゴリー原作の歴史小説、『お上品な商売』(1995)と同名のBBCドラマのロケが行われていた(放映は1998年4月~6月)。落書きはこのドラマロケに刺激されたものと思われる。
BBCドラマ『お上品な商売』のロケ地となったブリストルに設置された記念プレート(2007年8月、筆者撮影)。以下の言葉が刻まれている。「数え切れないアフリカ人男性、女性、そして子どもたちを追悼して。奴隷にされ搾取された彼らは、アフリカ奴隷貿易を通じて、ブリストルに莫大な富をもたらした。レイシズムに反対するヨーロッパ年である1997年12月12日除幕」。
1999年10月には、イギリスのテレビ局、チャンネル4の人気シリーズ「知られざる物語」が、1か月にわたって、輝かしきイメージを抱かれてきた大英帝国のダークサイドとして奴隷貿易をとりあげた。この番組が視聴者に伝えたいメッセージは実にシンプルだった。絵画や建築をはじめ、イギリス国内の文化遺産を支えた資金は、どこかから来ている――。もちろん、その「どこか」は奴隷貿易、あるいは奴隷制度によるプランテーション経済、だけではないだろう。奴隷貿易/制度が産業革命の財源となったという学説をめぐっては、歴史学上の大論争も起きている。だが、この人気テレビ番組が放ったインパクトは、歴史家の議論よりずっと大きかった。視聴者の多くが、イギリスが誇る諸文化の背後に、自分たちがずっと忘れていた記憶――奴隷貿易、奴隷制度がある(かもしれないこと)に気づきはじめたのである。
ブリストルの場合、「知られざる物語」の問いはそっくりそのまま、コルストンにあてはまる。彼の慈善活動の資金はどこから来ていたのだろうか。かくして、BBCドラマ、人気ドキュメンタリー番組が刺激となり、「奴隷商人コルストン」の記憶は、20世紀末以降、地元ブリストルのみならず、広くイギリス全土に知られるようになっていった。
21世紀に入ると、奴隷商人から「レイシスト」へとコルストンのイメージを傾けるイベントが二つ続いた。
ひとつは、2001年8月31日に開幕した国連主催の会議、「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」、通称「ダーバン会議」である。この会議は、それまで公然と語ることが半ばタブー視されてきた近代欧米諸国の負の遺産、奴隷貿易、奴隷制度、そして植民地主義を真っ向からとりあげ、現代につながる諸問題の原点として可視化した。奴隷貿易、奴隷制度を「人道に反する罪」と明確に規定したこの会議は、会期終了直後に「9.11」、アメリカ同時多発テロがなければ、もっと大きく取り上げられていたことだろう。
もうひとつは、2007年、奴隷貿易廃止法の成立から200年目の節目で行われた数々の顕彰行事である。イギリス全体として、「過去を熟考し、未来を見つめる」を合言葉に大々的なキャンペーンが張られ、各地で自分たちの町が奴隷貿易とどう関わっていたかの問い直しが進められた。リヴァプールは奴隷貿易の中心であった町の過去を公式に謝罪し、湾岸地域の再開発にこの「負の過去」を組み込んだ都市戦略に打って出て、2004年には「海商都市」として世界遺産に登録された。ブリストルでも市民レベルの意見交換が行われたが、リヴァプールのような公式謝罪には至らず、町の形が大きく変わることもなかった。コルストン像に目立った変化はなかったが、「フィランソロピストか、レイシストか」の論争はイギリスじゅうの耳目を集めた。
マージーサイド海事博物館(2012年8月、筆者撮影)。リヴァプールの国際奴隷博物館は、2007年8月23日、マージーサイド海事博物館の4階に開館した。8月23日は、ユネスコにより「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」に制定されている。1791年のこの日、フランス領サン・ドマング島で起きた奴隷反乱が契機となって、1804年、初の黒人共和国ハイチが誕生した。
マージーサイド海事博物館の外壁に設置された国際奴隷博物館のパネル(2012年8月、筆者撮影)
国際奴隷博物館開館時の幟(2007年8月、筆者撮影)。「覚えておこう、われわれは解放されたわけではなく、われわれが闘ったということを」とある。「WE」の使い方に注意したい。
2016年5月の総選挙で、ヨーロッパの都市として初めて、ジャマイカ系のマーヴィン・リースが市長となったとき、この拮抗状態にも決着がつくかに思われた。実際、アフリカ系、カリブ系住民との対話を重視するリース市長のもと、2017年には、コルストンと奴隷貿易との関係を示す「第二銘板」を台座の隣に設置する提案がされている。コルストンがRACと深く関わっていた時期の実態、たとえば本連載第3回で紹介した具体的な奴隷数を記述することで、台座に謳われた「フィランソロピストの記憶」とのバランスを図ろうとしたのだろう。ところが関係者間の調整がうまくいかず、リース市長の最終了承も得られず、結局2019年春、第二銘板の設置は見送られた。銘板の作成と併行して、コルストン像の撤去を求める署名活動も起こったが、これも市民の賛成多数とはならなかった。
なぜコルストン像は引き倒されたのか――グローバルな記憶へ!
では、「フィランソロピスト」と「レイシスト」の拮抗状態を大きく後者に傾け、2020年6月7日、コルストン像を引き倒したものとは何だったのか。2021年3月に出された警察関係の報告書には、「像の引き倒しは全く予測不可能だった」との記載があるが、ならば、想定外の出来事を引き起こしたのは、若者たちの勢い、もののはずみ、だったのか。
引き倒される前後の流れをふりかえると、この想定外の事態には、イギリスで2020年3月下旬から続いていた、新型コロナウイルス感染拡大によるロックダウン(都市封鎖)が、思いのほか大きく関わっていたように思われる。
すでに述べたように、ジョージ・フロイド事件に端を発したイギリスでの反レイシズム運動は、ロックダウン中の2020年5月28日(日)、ロンドンのアメリカ大使館前で始まった。2回目の週末が近づいた6月5日(金)、抗議運動のさらなる拡大が予想されたため、ハンコック保健相は定例の記者会見で反レイシズム抗議運動に言及し、「気持ちはわかる」としつつも、「6人以上の集会の禁止」を明言した。
にもかかわらず、保健相の要請の翌6月6日(土)、イギリス主要都市の道路や公共空間は、BLMに賛同する若者たちで埋めつくされた。その様子をロンドンの議会前広場で取材した日本人記者は、若者らに「コロナ感染拡大は抗議集会参加の妨げにならなかったか」という質問を投げかけた(TBS NEWS「人種差別抗議デモ in the UK 続編」)。前日の「6人以上の集会の禁止」を受けてのものだろうが、取材に応じた数名の若者はいずれも、即座に「ノー」と答え、感染リスクよりも「ここに実際にいること」の意味、それによって示される連帯こそが重要だと、異口同音に語った。
若者たちは、違法とされた大規模な集会やデモを企画するにあたり、参加者にマスク着用や消毒を促し、無料でマスクや消毒液を提供し、(現実味はあまりないものの)ソーシャル・ディスタンシングを守ることを含めて、抗議参加者に規律正しい行動を呼びかけていた。実際にはロンドンの首相官邸前などで警官とのこぜりあいがあり、逮捕者が出たものの、どの都市でも沿道に警官の姿は少なかったとメディアは伝える。若者たちが「6人以上の集会の禁止」に反していることは確かであったが、各都市の当局も警察関係者も、コロナ禍を意識して、人と人との接触、すなわち「暴力」発生の可能性をできるかぎり避けようと、介入を控えたと思われる。
それゆえに、「COVID-19よりひどいウイルス、それが人種差別だ」と訴える抗議参加者の怒りの矛先は、人ではなくモノに――それも、フロイド事件直後のアメリカで起きたような、暴徒化したデモ参加者による略奪とは異なるモノ、その損失を嘆く人が少ないモノに向かった。それが、公共空間を彩る歴史的な彫像や記念碑であったのだ。
6月7日、ブリストルに集まったデモ参加者の目線は、
コルストンの記憶のゆくえ
コルストン像引き倒しの衝撃と余韻のなかで加速化したのは、ブリストルという町から「コルストンの記憶」を消す作業だった。コルストン・ストリートやコルストン・アヴェニューはヴィクトリア時代以前の名前に戻され、コルストン・タワーは「ブリストル・ビーコン」と改名された。キャロル・ドレイクの出身校コルストン・ガールズ・スクールは、2020年11月に「モンピエール・ハイスクール」という新しい校名への変更を発表した。
ただし、コルストンの名前は消えても、「フィランソロピスト」と「レイシスト」という彼の過去は、いずれも消滅したわけではない。過去は「過ぎ去る」と書くが、けっしてそうではないことをわれわれは知っている。
リース市長は、コルストン像引き倒しを含めて過去と向き合うための対話が必要だと強調し、2020年9月、奴隷貿易と関わるこの町の記念碑や場所のすべてを検討する委員会をたちあげた。ここでようやく、歴史家の出番である。「われら、ブリストル歴史委員会(We Are Bristol History Commission)」という奇妙な名称の委員会(設置期間3年)では、現在月に一度のペースで議論が進行中である。
一方、海中投棄の4日後に回収され、腐食防止など最小限の処置が施されたコルストン像は、引き倒し1年目となる2021年6月7日から、ブリストル市立博物館のひとつ、港湾倉庫を改造したM Shed博物館(“M Shed”は倉庫の識別方法に由来)で展示が始まった。「コルストン像――次は何?」という刺激的なタイトルは、さまざまな想像をかき立てる。コルストン像の居場所は果たして博物館なのか。彼に対する評価のように、人びとの価値観や感情が100年前、200年前とは180度変わったとき、100年前、200年前に作られたモノに対してわれわれはどう向き合えばいいのか。
「次は何?」というコルストン像の展示から1か月ほどのち、2021年7月下旬に飛び込んできたのは、開発過剰を理由に、リヴァプールの世界遺産登録を抹消した、というニュースだった。ブリストルは、この事例から過去への向き合い方をどう学び、都市の未来を拓こうとするのだろうか。「われら、ブリストル歴史委員会」から目が離せない。
*本エッセイは、井野瀬久美惠「コルストン像はなぜ引き倒されたのか――都市の記憶と銅像の未来」(『歴史学研究』第1012号、2021年8月)、ならびに井野瀬久美惠「コロナ禍のなか、過去をたぐり寄せる――コルストン像引き倒しのタイミング再考」(『学術の動向』2021年12月号)を大幅に加筆・修正している。