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ブリストルのコルストン像、引き倒される!(2)――博愛主義者の記憶

 2020年5月下旬から3週間余り、レイシズム(人種主義)に抗議するアメリカ発の市民運動、ブラック・ライヴズ・マター(BLM)はイギリス全土の主要都市に拡大した。そのなかで、6月7日(日)、真っ先に若者たちの手で引き倒された「レイシスト(人種差別者)」の像が、8フィート8インチ(約2m64㎝)のブロンズ像、ブリストルのコルストン像であった。あれから1年半余りが過ぎた今なお、当日の模様を記録した膨大な数の動画がネット空間を浮遊しており、倒壊の瞬間を臨場感とともに伝えてくれる。

 なぜ2020年のこの日、コルストン像は引き倒されたのか。「レイシスト」の像がなぜブリストルという地方都市に建てられただろうか。そもそも、コルストンとは何者なのか。

コルストンとは誰か

 エドワード・コルストン(1636-1721)、博愛主義者フィランソロピスト、ブリストルの商人で州長官[日本で言えばさしずめ代官]を務めるウィリアム・コルストンの長男――『国民人名辞典(DNB)』初版(1885-1900)は、コルストンの項目をこんなふうに始めている。イギリス全体を網羅する初めての人名辞典が編集された19世紀末、コルストンは「フィランソロピスト」として認識されていた。利他的な奉仕活動家、慈善家といった意味である。この辞典の編纂時期は、コルストン像の台座に刻まれた「1895年」という設置年とぴったり重なり、よってコルストンの顕彰理由もここにあると推測される。19世紀末のブリストルにおいて、コルストンは「フィランソロピスト」として記憶された人物であったのだ。

イギリスの画家ジョナサン・リチャードソン(「エルダー」と呼ばれた父の方)によるエドワード・コルストンの肖像画(1704年)。ブリストル市参事会が所有するこの絵画は、新市庁舎がオープンした1953年以来、ブリストル市長の客間にかけられていたが、ブロンズ像が引き倒されたことを受けて、2020年6月18日、取り外された。

 コルストン自身は、上記の生没年からわかるように、17世紀後半から18世紀にかけてのイギリスを生きた人間である。この時期のイギリスを特徴づけるのは、議会と国王の対立激化であり、その過程で起こった2つの政治革命だ。コルストンが物心つく1640年代にはピューリタン革命が起こった。国王チャールズ1世の処刑(1649)は、彼が13歳のとき。コルストンはこの時代の波をもろにかぶったひとりであり、教科書に書かれたこの時期の政治史のビッグイベントが、彼の人生の節目を飾っている。

 王党派だった父が議会派によってブリストルを追われると、コルストンもまたロンドンに移った。国王不在の共和国時代(1649-60)、ロンドンで教育を受け、18歳で(やはり)ロンドンで商人としての徒弟修業をした彼は、その後、スペインやイタリアといったヨーロッパ諸国とワインや布地を商う海外貿易に従事した。

 チャールズ2世が王政復古(1660)で帰国すると、コルストンの父もブリストルに戻ったが、1681年に死亡。40代半ばのコルストンは父のあとを継いで、ブリストルの政治・経済の中枢に位置する商人組織、「マーチャント・アドヴェンチャーズ」のメンバーとなった。かといって、彼自身は生まれ故郷に戻ったわけではなく、その後もロンドン近郊で暮らしたのだが、それは彼の仕事と関係している。1680年以降、コルストンは、当時西アフリカとの貿易を独占していた特許会社、「王立アフリカ会社(RAC)」のメンバー(=出資者)となり、ロンドンのRAC本部で開催される会合に毎月出席していたことが記録されている。これもまた、父の後継者という長男の宿命であった。

 王立アフリカ会社は、王政復古とともに国王とロンドン商人によって設立され、何度か組織改編されながら、1672年から98年までの20数年間にわたり、象牙や金の交易、そして何よりも奴隷貿易を独占した特許会社である。そのメンバーには、大西洋上で展開された三角貿易、すなわち奴隷貿易の利益が集中した。

大西洋上の三角貿易(井野瀬久美惠『大英帝国という経験』講談社学術文庫、2017年、149頁)

 RACの代表は王弟ジェイムズ、すなわち1685年に即位するジェイムズ2世が務めていた。本連載第1回で話したように、ジェイムズ2世は「名誉革命」へとつながる1688年に王位を追われ、それと同時にRACの代表という役職も辞任する。その結果、1689年以降は、「総督代理」が副総督とともに、RACの実質的な権限を握ることになった。コルストンはまさにこの年、1689年から2年間、RACの総督代理を務めている。彼がロンドン近郊、サリー州モートレイク(現在はグレーターロンドン特別区)に生涯の居を定めたのも同じく1689年、コルストン53歳のときであった。

 従来の統計を精査した21世紀の研究によれば、コルストンがRACを引退する1692年までに、すなわち彼がメンバーを務めた12年間に、8万4000人ほどのアフリカ人(うち子どもは約1万2000人と推定)が、自分の意志に反して奴隷として取引され、2万人近くが大西洋上の中間航路で命を失ったと算定されている。

 しかしながら、RACのメンバー、および総督代理というコルストンの役職やその間の「取引業績」に関心が集まるのは、後述するように20世紀末の話でしかない。ごく最近まで、ブリストルにおけるコルストンの記憶は、RACを引退する前後から彼がこの町に対して行った精力的な慈善活動と結びついていた。貧困層の少年たちのための学校設立、教会の修復、救貧院の設立、病院への募金、船員の夫を亡くした寡婦の救済基金――。コルストンの慈善活動は、彼が商人としての事業のいっさいから身を引く1708年以降、種類と規模を増していった。その功績ゆえであろう、1710年から3年間、70代半ばの彼はブリストル選出の国会議員(トーリー系)ともなった。もっとも、めぼしい活躍を残さぬまま、議員は一期だけで引退する。

 1721年、コルストンは、モートレイクの自宅にて、84歳で亡くなった。1720年代の平均寿命は35歳前後。階級差による生活環境の違いを考慮しても、長寿をまっとうしたことは間違いない。

ヴィクトリア時代の画家リチャード・J・ルイスによる「コルストンの死」(1844年、ブリストル市博物館所蔵)。教会の改築でコルストンの遺体が再埋葬された際、彼の臨終の場面を想像して描かれた。ベッドのそばにひざまずき、彼の手にキスする黒人女性は、「ブラック・メアリ」と呼ばれたコルストンの使用人とされる。彼女の名はコルストンの遺言状にも見えるのだが、想像上のこの絵をどう読むか――われわれの歴史的想像力を試すような一枚でもある。

何がコルストンを「地元の偉人」にしたのか?

 コルストンの慈善活動が生活基盤のないブリストルで記憶され続けたのはなぜなのか。それは、「コルストン協会」の活動によるものと思われる。

 コルストン協会は、生涯独身であったコルストンの資産を管理し、彼が生前に行ってきた慈善活動を継続するための任意団体として、彼の死の5年後、1726年に設立された。その傘下には、政治信条の異なる3つの団体――保守党系のドルフィン協会(1749年設立)、自由党系のアンカー協会(1769年設立)、そして政治的信条を問わないグレイトフル協会(1758年設立)が続々と設けられ、ブリストルの政治・経済・社会と数多くの接点が生まれた。コルストンの誕生日、11月13日(新暦)には毎年、これらの組織が一堂に会し、合同で追悼礼拝やパレード、政治討論や募金活動を行っており、「コルストン・デー」と呼ばれるこの日は、ブリストル市民に広く知られた「コメモレイション・デー(記念日)」でもあった。2020年6月の像の引き倒しを受けて同年12月末に解散するまで、コルストン協会は、現存するブリストル最古の慈善団体であることを誇ってきた。

 地元紙『ウエスタン・デイリー・プレス』の報道によれば、コルストン像の設置が提案されたのは1893年秋。翌1894年3月には、像のデザインが決定し、制作が本格始動したという記事も見える。像の除幕は1895年のコルストン・デー。台座にはこう刻まれた。

もっとも高潔にして賢明なるわが町の息子たちのひとりを記念して、ブリストル市民によって建立される。1895年。

エドワード・コルストン像の台座(2007年8月、筆者撮影)

 うん? 1895年? ここでむくむくと疑問がわいてくる。

 ヴィクトリア女王の治世末期にあたる1895年は、コルストンの生誕259年、没後174年。いずれにしても、個人の顕彰行事としては中途半端だ。コルストン協会設立の1726年を起点にしても、設立169年、というのはいささかピントがぼけている。たとえば、生誕250年(1886年)とか、没後150年(1871年)など、切りのいい年に像が設立されなかったのはなぜなのか。

 この曖昧な数字は、コルストン像の設置が、コルストンの関係者側ではなく、ブリストルという町の側から発想され、提案されたからだと考えられる。

 背景には、鉄道網の拡大や人口増加、産業発展や観光業の展開などにともない、物質的にも精神的にも、都市がそのありようを大きく変えたことがある。それは彫像という「記憶のかたち」の変化に明らかであった。それまで国王や有名な軍人に限定されていた彫像が、20世紀へと向かう世紀転換期、文化や芸術、科学、地域社会への貢献といった多様な領域で活躍した(いわゆる)「偉人」へと広がっていったのである。都市への人口集中、貧民や労働者の環境改善のために、公園や公共空間の整備が都市計画のなかに盛り込まれるようになった当時、都市には従来と異なる見せ方、異なる戦略が求められていたのである。

 すなわち、コルストン像の設置は、1870年前後から20世紀初頭にかけての時期――日本にあてはめれば、明治日本をすっぽりとおおう時期に、イギリス各地で進められた都市整備の一コマであったのだ。

 しかも、この時期のイギリスには、慈善家、フィランソロピストが「偉人」として選ばれる独自の事情があった。それは、1870年代前半に始まった大不況のもと、社会調査によって都市の深刻な貧困状況が「再発見」されつつあったからである。ロンドンのチャールズ・ブース、北部ヨークのB・S・ラウントリらの調査が明らかにした都市の貧困実態をここで詳述する余裕はない。重要なことは、調査結果という根拠にもとづく貧困の現実が、大英帝国の中核、世界の経済大国イギリスの内部に存在するという事実そのものに、イギリス人が驚愕したことである。貧困がもはや、一部の人間の問題でも、個人のモラルや努力の問題でもなく、社会そのものの問題であることは明らかであった。この認識が広まるなかで、福祉国家への転換も準備されてくるのである。

イギリスの企業家チャールズ・ブース(1840-1916)『ロンドンの民衆の労働と生活』第1巻(1889)にあるロンドン、イーストエンドの貧困マップ。最貧困者は黒で示すなど、住民の経済状況が色分けされており、貧困実態が可視化された。

 こうした19世紀末の時代状況が、コルストンを再び「時の人」にした。すでに1867年には、貧困層の少年たちの学校、コルストン・ボーイズ・スクールの敷地・建物を改装し、コンサート会場として「コルストン・ホール」がオープンしていた。それと軌を一にして、ホール周辺の道路が、コルストン・ストリート、コルストン・アヴェニューなどに改名された。1891年にはコルストン・ガールズ・スクールも創設されている。

 かくして、コルストンは、この時期のブリストルが必要としていた「フィランソロピスト」のモデル、「地元の偉人」であった。そして、こうした事情が、コルストンの履歴にある「王立アフリカ会社」の存在、その性格や問題点を隠蔽してしまっていた。

 では、コルストンが奴隷商人であり、「レイシスト」であるという記憶は、いつ、どのように想起されてくるのだろうか。

注:本エッセイは、『歴史学研究』第1012号(2021年8月)に掲載した拙稿「時評 コルストン像はなぜ引き倒されたのか――都市の記憶と彫像の未来」を大幅に加筆修正したものである。

第4回「ブリストルのコルストン像、引き倒される!(3)――レイシストの記憶へ」につづく

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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