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京都不案内

京料理屋の大忠にて――酒席の雑学

大忠のこと

 ある金曜日の晩、左京区吉田本町にある大忠という京料理屋さんに行った。「縮小社会研究会」の松久寛さんが贔屓にしている店だ。定宿からも1、2分と近く、夏はハモとか、秋は松茸とか、その季節らしいおいしい料理を出してくれる。野菜の切り方などが凝っていて美しい。

「森さんも、京都に来るときは必ず教えてくださいよ。たまには大忠に行ってあげないと、潰れると困るから」と松久さんは冗談を言う。お店のある横町は京都大学に面しているので、以前はよく大学の先生が来たり、会議の弁当を届けることもあったらしい。ご主人に話を聞いてみた。

「うちは先祖が滋賀の虎姫とらひめというところで時々漁師をやったり、農業をやったりしてるような家でしたな。先祖は松本忠左衛門、その次の祖父さんが6人兄弟の6番目で、しょうがないから京都に出てきて、最初は魚屋をやりながら自己流で家庭料理みたいなものを出していた。その次、父親の忠次は海軍の船のコックだったから、舞鶴あたりで修行したんとちゃうやろか。1日乗るのが遅れたら、その船が撃沈されて死んでいたはずや。
 4代目の僕たちの名前は祖父さんが付けた。もう忠はいいやということで、僕は哲学の哲に夫の哲夫、隣に京大の哲学(文学部)があるからかな。弟は鶴田浩二が流行った頃だから浩二。最初やってた店は川端荒神口あたりなんやけど、大正時代にこの辺が売りに出ていて越してきました。
 その頃は生けすなんてないし、魚は丸のままでなく、魚屋に片身を持って来いっていうくらいでよかった。海のそばでないからほんまに採れたての生魚は入らない。
 父親は料理組合の理事とかをやってたんやけど、そういうのが鬱陶しかった。私はとにかく家から出たくてしょうがない。勝浦の越之湯という温泉旅館に就職して、3年程そこにいたんですわ。その後、鳥居本の方の、清滝トンネルの向こうにある料亭に勤めて戻ってきました。
 昔はこの辺に畑があって、吉田胡瓜とか田中唐辛子とか鹿ヶ谷かぼちゃっていうのもあった。ここは扇状地だから、土はいい。北白川の方まで行くと田んぼがあってカエルが鳴いていた。」 

へえ、という話である。今でも白川通の裏通りには畑がある。
 同席した社会学者の伊藤公雄さんが、「そういえば京大のイタリア文学の教授だったニーノ・ペテルノッリさんとそのお母さんも大忠に来たことがある。今ボローニャにいるはずだが、お母さんの方はもうとっくにこの世にはいないだろう」と言い出した。
 え、私はニーノさんにボローニャで会ったことがありますよ。井上ひさしさんの『ボローニャ紀行』に出てこられる人でしょう。私設の日本会館みたいなのを開いておられました。
 伊藤さんはイタリアのミラノ大学に留学し、現地ではイタリア・ファシズムやグラムシの研究をしていたが、日本に帰ってから「男性学」という新しい研究分野を開いた。イタリア時代に須賀敦子さんと親しかったと聞いてまたびっくり。
 伊藤さんは京都大学と大阪大学両方の名誉教授なのだそうだ。

「10年以上務めると名誉教授という称号がつく。僕は阪大に17年、京大に12年務めたのでね。」

 松久さんは京都大学工学部の名誉教授だ。「以前なら赤い絨毯を敷いた名誉教授室があったそうだけど、今は退職した人はできるだけ来るなという雰囲気で、気軽に寄れなくなったよ」という。

松久さん、大忠の御主人、伊藤さん

鈴鹿家の話

 京都の古いことを知っている方はいるかしら?という私の問いに、松久さんが「うちの娘のお姑さんが、大忠さんの隣の鈴鹿家の人やで。ちょっと電話してみるね」と電話をかけてくれた。
 鈴鹿家は、吉田神社の社家である。吉田神社の神職は吉田家であり、一族には吉田兼好などもいるが、その家老をやってる家だとのこと。突然の電話で呼び出されて迷惑だろうに、ご夫妻で大忠に来てくださった。奥さんが話してくださる。

「吉田神社は859年に平安京の守りのために建てられた神社で、この辺の土地は全部、鴨川まで持っていたらしいです。鈴鹿家は数系統あり、わが家は中臣金連の系統です。うちは本家ではなくて、祖父の時代の分家なんです。今の家は大正の終わりくらいに建ちました。
 すぐそこに今出川まで斜めに通じている道がありますでしょ。あれは志賀街道といって、かつては野辺送りの道だったんです。京都大学が明治になって、その道を塞ぐように居座ってしまったんです。
 実は、家にあった今昔物語集の写本を京都大学に寄贈しました。今、図書館にあるはずだけども、唯一京大が持っている国宝。国内にたくさん写本はあるが、エックス線とかで調べると、なかでも一番古いということがわかったんです。花押とか虫食い、紙の質から科学的に年代が分かるそうで、現存する一番古い写本ということになっています。寄付した人でもめったに見られないのだけど、一度だけ展示されているのを見に行ったら、家にあった時よりずっときれいになっていました。」 

『今昔物語集(鈴鹿本)』(京都大学附属図書館所蔵)部分を加工
京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)

 旦那さんは京都市内の出身だという。

「京都市というのはもともと秀吉の御土居のうちで、上京区、中京区と下京区のことで、左京区や右京区は含まれてなかったんです」。

 京都駅から見ると右側が左京区なんですね。 

「御所から見て左という意味です。昔は出町柳を越すと山賊が出るという話もありました。出町柳にはその名の通り、昔は立派な柳が生えていましたよ」。

 すぐそこに作庭家の重森三玲の旧居が公開されていますね。あれは江戸時代に建った別の鈴鹿家が持っている家を気に入って、戦後まで住んでいたと聞きました。主屋が享保で、書院は寛政年間のものだそうです。 

「あの方は松尾大社の神社の庭など作っていますね」。

 日米開戦時の首相で、終戦時に自決された近衛文麿さんは東京の麹町で生まれたそうですが、京都大学に入ったころ、下宿がなかなか決まらないので、鈴鹿家に住んでいたと聞きました。

「それは知りません。」

 京都の料亭といえば…と、伊藤さんが面白いエピソードを教えてくれる。

「下鴨神社に隣接した石村亭せきそんていというのが谷崎潤一郎がいた所。昭和24年から31年まで最も長く住んだ。あの人はグルメで、東京に引き上げてからも、京都の屋敷の女中さんが下鴨茶寮で京料理を作らせて、それを京都駅まで届ける。それを特急つばめの車掌さんが東京駅まで預かって、東京駅に谷崎家の女中さんが取りに来たって話がある。」

西部講堂と学生運動

 鷲田清一さんの『京都の平熱』(講談社、2007年)には、大文字焼きの時に、京大の学生たちが登って点を増やして「犬」にしようとして大騒ぎになったという話が書いてあったけども。
 「大文字を大文字焼きと言わんといてくれやす。あれは亡くなった方がお盆で帰ってこられるのを送る送り火。若草山の山焼きとは違うんやから」と鈴鹿さんのご主人。すみません、と私。
 伊藤さんが補足してくれる。 

「学生たちが8月16日に点をつけようとしたというのは本当のこと。それを聞いただけで、「送り火の会」の人たちはカンカンに怒った。2020年8月にも、誰かが懐中電灯で「大」の字を照らした事件があって、これもまたみんなの怒りを買ったと」。

 伊藤さんは埼玉の熊谷高校の出身で、京都に憧れて京大に入ったけど、学生運動でほとんど授業には出なかった。計画段階では、吉田山も京大の校内に含むはずだったらしい。もしそうなっていたら、吉田山に立てこもって山岳ゲリラ戦になっていたかも。
 そこから西部講堂の話になり、伊藤さんの話が続く。

「森さん、西部講堂の歴史を書いたら面白いのに。あそこを占拠して百万遍カルチェラタンとかいって、市電を止めた事件があった。時計台の一階に京大の資料館があるから行ってみれば。学生たちの占拠事件の映像も平気で見せているよ」。 

 そういえば土本典昭のドキュメンタリー映画『パルチザン前史』を見ました。1968年、まだ市電が通っていて、その敷石を剥がして学生が投げたりしている。リーダーの滝田修という人の言うことはさっぱりわからなかった。あのとき武闘訓練をしていた京大の時計台前の広場には、この前行ったらクジャクがいましたよ。

「西部講堂は1937(昭和12)年に、今の上皇が生まれたときにお祝いで作ったものと聞いてます。1972年に屋根に三つ星が描かれたのは、テルアビブで死んだ2人と訓練中に亡くなった1人を含む3人の日本赤軍を表しています。
 西部講堂は京都府学連の委員長だった高瀬泰司さん(タイちゃん)がずっと管理に関わっていて、祇園でKi-Yan Stuzioをやっている木村英輝さんなんかが、週一回、西部講堂でコンサートをやっていた。これは日本でも相当早い時期。
 それで1971年にジュリーやショーケンらがピッグ(PYG)というバンド組んだ時も西部講堂でコンサートをやったことがある。タイガースの解散の後やね。麿赤兒まろあかじ大駱駝艦だいらくだかんがあそこで踊ったこともある。元頭脳警察のパンタさんと一緒に西部講堂を訪問した時の記事が朝日新聞に掲載されたこともあったなぁ。
 タイちゃんが、亡くなってもう20年以上。その20回忌を西部講堂でやったよ。」

 この辺で鈴鹿さんご夫妻は帰られた。翌日夫婦で山に登るとのこと。ときには福井の方まで行って魚釣りなんかもすると聞き、「ええのんつれたら持ってきておくれやす。そんな大きくなくてかまへんから」と大忠のご主人が言っていた。京都の近所づきあいを見る思いがした。
 その前に常連客が一人帰っていかれた。おだやかな紳士をお見受けした。この方、吉田山の麓にいる住む岡田さんという何代も続く漢方の名医だそうだ。
 大忠のご主人がこんなエピソードを話してくれた。

「コロナでうちとこもあかんかと思いましたわ。何十人も予約を受けてサツマイモを10キロ注文したらキャンセルになってしもて。さすがにこたえました。そしたら岡田さんが、うちの看護婦さん五、六人に弁当を作ってくれんかと、注文してくれるようになって。毎日サツマイモだけじゃなくてエビなんかも入れたら、看護婦さんがこんな高級なものが入っている弁当見たことないとか言ったそうで。ありがたいことです」。

 よしなしごとを話しているうちに、夜は更ける。
 お会計はまるきり高くなかった。鈴鹿さんにお会いして緊張したので、わたしはすっかり酔いが回ってしまった。 

京都の人のつぶやき

 社会学の本を多く出していることもあり、伊藤公雄先生には長年にわたり大変お世話になっている。社会学を学ぶ人にとって基本的な文献をガイドする「社会学ベーシックス」シリーズ(全10巻+別巻1)では井上俊先生と共に編者を務めてくださった。牟田和恵先生と共編の『ジェンダーで学ぶ社会学』はロングセラーで、全訂新版もおかげさまで版を重ねている。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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