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過去につながり、今を問え!

今の時代、歴史家の仕事って何だろう?

 ここ数年、「歴史家の仕事って何だろう?」と自問することが多くなった。

 インターネット検索が常識となった今、過去の出来事の概要、登場人物の紹介、後世の評価などは、キーワードを一つか二つ入れれば、「何か」出てくる。たいていの場合、「ふうん、そうなんだ」と、出てきた内容に満足してしまい、「それ以上」、あるいは「その先」に関心を持つことはなかなかに難しいように思われる。よって、出来事そのものを研究する歴史家に出番はなかなか回ってこない。同業者の間でも、「歴史の話が歴史家に聞かれなくなったねえ」という声が年々増えてきた気がする。そういえば、過去を探るドキュメンタリー番組でも、歴史家ではなく、他分野の学者や別の世界――アーティストやスポーツ選手、評論家、俳優やタレントといった方々の出演が多いのは、気のせいばかりでもなさそうだ。

 歴史家は「過去と現在との対話」が得意である。というか、この対話を仕事としている。「現在」という時空は突然ふって湧いてきたわけではなく、ゆえに、世界で起こっていることの多くは、(現在との時間的・空間的な距離や距離感がどうあれ)「過去」と関係している。だから、「まずは歴史家に相談してみれば…」と思うのだが、なぜか歴史家には聞かれない。

「なぜ歴史家に聞かなかったのか」と、アガサ・クリスティの推理小説タイトルをもじってつぶやいても、答えはすぐには返ってこない。ネット検索にかければ膨大な「答え」が出てくるからか? ならば、デジタル時代における「歴史家の仕事」って何なのだろう?

すれ違う「私の想定」と「学生たちの前提」                   

 まずは簡単な自己紹介からはじめよう。

 私の専門はイギリス近代史。時代でいえば、18世紀後半の経済成長(教科書で言うところの産業革命)から第一次世界大戦(1914〜1918)の間が、私の主たる関心時期である。この時期のイギリスは、モノづくりの技術力、貿易や金融を通じた経済力、そして島国の拡大・展開に不可欠の海軍力を駆使して、「大英帝国」へとその姿を大きく変えた。この変化のなかで、現在「イギリス的」だと思われている事柄――動物愛護とか英国式庭園(イングリッシュ・ガーデン)とか、サッカーやラグビー、バドミントンといったスポーツのルール化とか、君主制とかロイヤルファミリーとか、われわれが知るイギリスの歴史や文化、伝統の多くが創られ、創り直されてきた。目では見づらいこの時空間を強く意識して、人やモノ、情報や知識のネットワークもまた、結び、結び直され、今に至っている。

 

井野瀬久美惠『女たちの大英帝国』講談社現代新書、1998年

井野瀬久美惠『植民地経験のゆくえ――アリス・グリーンのサロンと世紀転換期の大英帝国』人文書院、2004年

井野瀬久美惠『大英帝国という経験』講談社学術文庫、2017年

 そんなイギリス近代史を語る主たる場は、大学院博士課程を終えた1989年以来、一貫して大学の講義室である。最初の職場も今の職場も、私の所属は歴史学系ではなく(いわゆる)英文学系であり、よって学生は、「歴史好き」ではなく「英語好き」が多い。歴史的事実や出来事の経過をガチガチ伝えるのではなく、起こったある出来事が(たとえば)同時代の人びとの心にどう届いた(あるいは届かなかった)のか、後世の物書きがその「昔の出来事」にどのように心揺さぶられたのかなどをユルユル感じてもらう授業を試みてきた。学生たちの質問や反応を見ていると、このユルユルがじわっと染みたようで、「おー、通じてる!」とうれしくなることが何度もあった。その反応自体は、今もさほど変わっていない(と思う)。

 ところが、である。いつのころからだろうか、「私の想定」と「学生たちの前提」とのギャップが御しがたくのしかかるようになった。
 私は、学生たちが大学入学以前に学んだ内容、つまり「学生たちの前提」が、私の講義を聴いてひっくり返って目を丸くする(!)、あるいは、教科書で書かれていたこととは違う見方があることを知って(これまた)目から鱗が落ちる、といった状況に、大学で歴史を講義する面白さがあると思っていた。言い換えれば、「初めて知る面白さ」ではなく、「見方が変わる面白さ」にこそ、大学で学ぶ意味や意義があると確信的に考えてきた。特に歴史学は、人類学や社会学などと違って、小学校、中学校、高校でも学んできているので、学生たちも「まったく新しい何か」を講義に望んでいるわけではないだろう。その意味でも、「学生たちの前提」は私の講義の要、でもあった。

 ところが、である。授業アンケートなどからわかったことは、学生たちには「前提」などなかった、ということだ。私の授業を肯定的に評価する学生たちは、「知らなかったことを知った」「先生の情熱が伝わった」「パワーポイント(PPT)の視覚資料が面白かった」などとは書いてくれても、「高校までに学んだことと違っていてびっくりした」といった、私が想定する回答はしてくれない。えー、なんで?「学生たちの前提」はどこにいってしまったのだろうか?

 授業が面白ければいいじゃない、という声もあろう。だが、問題はそれほど単純ではない。

 2006年秋、進学実績をあげるために、学習指導要領では必履修であっても、大学入試と直接関係のない科目や教科を生徒に履修させていなかった高校がかなりあることが発覚した。単位不足で卒業できない可能性のある生徒たちの数は41都道府県、8万人を大きく超えると、2006年10月下旬の新聞各紙は大きく報道した。その多くが進学校であったという。特に世界史では、全国の1割ほどの高校で未履修問題が起こっており、世に言う「世界史未履修問題」は、歴史教育の世界に大きな衝撃をもって受けとめられた。私もこのとき、「世界史を取っていなかったので」という学生たちの言葉が嘘でも冗談でもなかったことを知った。「世界史未履修問題」の余韻についてはまた別の機会に話そう。

 問題は、その後も、「世界史」は高等学校の必履修科目であり続けていること、それなのに、「ぼく/わたし、世界史を取っていなかったので」と答える学生が依然として減らないこと、にある。しかも、「世界史を取っていなかった」と語る彼らの表情に屈託はない。

 「想定」と「前提」の狭間で、複雑な思いに駆られる私…。                 

複雑怪奇な「名誉革命」を問う

 具体的な例をあげてみよう。

 ある日の教室。講義テーマは、「連合王国」とは何か。「連合王国」という枠組みで考えると、いわゆる「イギリス史」という「一国史」はどのように見え方を変えるか、それを考えてもらう講義である。

 FIFAワールドカップに4つのナショナルチーム(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)が参加する「イギリス」という国の不思議を理解するには、「連合(United)」の意味が欠かせない。特にスコットランドの独立性の強さ、「連合」への疑義は、スコットランド独立の賛否を問う2014年の住民投票、2016年の欧州連合(EU)からの離脱を問う国民投票、そして、2021年5月のスコットランド議会選挙などの結果が示す通りである。

 彼らの独立性のルーツがどこにあるのかを考えたとき、いくつかの出来事に突き当たる。そのひとつが、17世紀後半、イングランドを中心とする従来の歴史で「名誉革命」と呼ばれてきた出来事(1688〜89)である。中世以来続いてきた国王と議会の対立関係に決着をつけ、「国王より議会が優先する」ことを決め、現在につづくイギリス議会政治をもたらした――そして、明治日本が範としたという意味で、現代日本にもつながる――大きな出来事である。

 ごくごく簡単にその前後の流れを追うと、こんなふうになる。

 当時、イングランドとスコットランドは、それぞれが独立したプロテスタントの王国ながら、同じ国王を戴いていた。イングランド王国の女王、テューダー王家のエリザベス1世が生涯独身で、子どもがいなかったため、彼女の父方の血統を遡ってプロテスタントの後継者を探り、スコットランド王国の国王、ステュアート家のジェイムズ6世が、エリザベス1世の死(1603)とともに、イングランド国王にもなったからだ(イングランド国王としては1世)。17世紀前半、イングランドでは、ピューリタン革命とよばれる内乱のなかで、ジェイムズ1世の後を継いだチャールズ1世が処刑され、その後10年余り、イングランドは、前代未聞、空前絶後の、国王のいない「共和国」となった。

 

※□で囲っているのは王位継承者

 1660年、王制が復活し、処刑されたチャールズ1世の長男、チャールズ2世が王位に就いた。君主制→共和制→君主制というめまぐるしい体制の変化に加えて、首都ロンドンでは、疫病ペストが1年半ほど大流行し(1665-66)、パン屋のかまどから燃え広がった大火(1666)でシティの8割余りが焼け落ちるという災難が重なった。

 その復興を含めて、1660年代半ば以降、20年余り続く不安定な政治・社会状況から「名誉革命」という大きな出来事に至る道のり、その「革命性」とは何かを簡潔に説明することは、この時期の専門家でもなかなかに難しい。説明するのが難しいのだから、理解することはもっと難しい。この不安定な時期を乗り越えるなかで、保守党、自由党というその後の2大政党制へとつながる2つの党派(トーリー党とホイッグ党)が生まれ、議会という場自体を鍛えていくことにもなるのだが、スポーツ競技ならずとも、鍛えられるプロセスは鍛えた結果以上に見づらいものである。

 ゆえに、高校世界史の教科書の多くは、「名誉革命」をこんなふうに説明している。

 チャールズ2世のあとを継いだ弟ジェイムズ2世がカトリックと絶対王政の復活を図ったため、イングランド議会は、党派を超えて協力し、議会と国民の権利を受け入れることと引き換えに、ジェイムズ2世の娘メアリ(のちの2世)と、その夫オランダ総督ウィレム(のちのウィリアム3世)の即位を認めた。

 カトリックvsプロテスタント(イギリス国教会)、絶対王政vs議会主義、というわかりやすい対立構図に落とし込んでいるのだが、このこと自体、説明が難しい複雑怪奇な事情や事実の多くを捨象し、話を端折っているからにほかならない。「わかりやすい」ということには、単純な図式化のための「取捨選択」が必ずつきまとう。そもそも、イングランドの国王にオランダ人、つまり外国人が就くって、どういうこと? そんなところから、「国王とは何か」「外国人とは誰か」「国民とは何か」といった問いを深める「過去と現在の対話」も始まるのだが、それもまた別の機会に考えよう。

 いずれにせよ、この時期のイングランドにおける政治と宗教、宗教と王位継承、王権と議会などの関係とその問題点を議論することは、ここ日本ではとても難しい。だからこそ、「名誉革命」については、「複雑な事情や事態が単純化されていること」自体を知ることが重要なのである。

名誉革命はほんとうに「名誉」だったのか?

 ポイントは、この革命につけられた「名誉Glorious」という言葉にある。

 この出来事が「名誉革命」と呼ばれる理由は、ジェイムズ2世の廃位、ウィレム(英語名ウィリアム)夫妻の即位というかたちで、絶対王政(この言葉の危うさはあるのだが、ここでは触れない)から議会主義への移行が「無血」で行われたことにある、と説明されている。高校の世界史の講義でそう学んだはず――これが、私の想定する「学生たちの前提」でもある。

 しかしながら、この「前提」は間違っている。名誉革命という出来事を、イングランドではなく、連合王国という文脈に置き直せば、それが「無血」ではなく、ゆえに「名誉」という言葉に値しないことがすぐにわかるからだ。そこでは多くの血が流されており、その記憶が今なお、さまざまな場で生きている。1690年7月のアイルランド、ボイン川の戦いしかり。1692年2月のスコットランド北部、山深きハイランド地方の南西部、グレンコー渓谷におけるマキーアン一族に対する虐殺しかり。名誉革命後の政治・宗教・君主体制を批判し、ジェイムズ2世(スコットランド国王としては7世)の男系子孫(イングランドの女王となったメアリ2世の異母弟ジェイムズ)を支持する人びと、すなわちジャコバイトたちは、ハイランドを舞台に、18世紀半ばまで、半世紀余りの間、名誉革命体制を揺さぶり続けた。

ジェイムズ・ハミルトン「グレンコーの虐殺」(1883-86年)
1692年2月、スコットランド北部のグレンコー渓谷で起こった殺戮では、雪深き急峻な山に逃れた村人の多くも凍死したと伝えられる。虐殺から200年近くのち、19世紀末に描かれたこの絵は、その後も長らく、この出来事のイメージとして広く流布された。

デヴィッド・モーリエ「カロデンの戦い」(1746年頃)
カロデンの戦い(カロデン・ムアの戦いともいう)はジャコバイト最後の戦いといわれる。向かって左、抵抗するジャコバイトたちが着用するタータンに注目。彼らを鎮圧した連合王国政府は、報復としてその着用を法律で禁じた。

 かくして、「名誉革命はほんとうに名誉だったのか」と問えば、自分の知る「イギリス史」がいかに「イングランド中心史」であったかにも気づかされるだろう。そして、それはイギリスだけの話なのかと問えば、似たようなことが自分たちの身近で起こっていないか、今という時代を批判的に考えることにもつながるだろう。非常に複雑で理解に苦しむ「名誉革命」なる歴史的事件を問う意味はここ――すなわち、これまで疑問を持たずに使っている言葉や用語によって、実は見えなくなっているものや存在があるかもしれないと、考えることにこそある。

 そのためには、「疑問を持たずに使っている」という共通項が必要である。ところが、なんと、「学生たちの前提」に「名誉革命」という言葉はないのである!「どこかでこの言葉に出会わなかった?」としつこく問う私に、10年ほど前ならば少なからず恥ずかしそうなそぶりを見せた学生たちも、今では「それが何か問題でも?」といった、不思議そうな表情を浮かべるだけだ。

 いや、「何か問題でも?」と思う以前に、学生たちは、各自スマホで「イギリス 名誉革命」とネット検索するだろう。その検索結果をまとめれば、学生たちはそれなりのレポートを書くことができる。いや、書けてしまう。私の心をザワつかせているのは、この理不尽さ、なのかもしれない。

 だが、問題は、「名誉革命」を知らない学生にあるわけではない。つまるところ、問題は、歴史を研究する私、教える私、にこそある。            

なぜ琉球は日本から独立しないのか?

 問題は私にある。それを強く意識したのは、数年前、柄谷行人さんが書いた『琉球独立論』(松島泰勝著、バジリコ、2014年)の書評冒頭を読んだときだったかもしれない。

 本書は「琉球独立」を提唱するものである。たとえば、スコットランドがイギリスからの独立を求めて住民投票を行ったことに驚いた日本人が多かっただろう。なぜスコットランドが独立を望むのか、私にもよく事情が理解できない。しかし、むしろそれ以上に理解しがたいのは、琉球が日本から独立しないでいることである。(朝日新聞、2014年9月21日)

 そうなのだ!「スコットランドの過去」は、スコットランドの人びととだけ、つながっているわけではない。それは、スコットランドから遠く離れた日本に暮らす私たちとも、どこか「陸続き」なのである。「なぜ琉球は日本から独立しないのか」という問いは、名誉革命体制に反対したスコットランド、とりわけハイランド地方を拠点とするジャコバイトたちとどうつながっているのだろうか。その答えは、いくらネット検索をしても出てこないだろう。

 しかもこの場合、学生たちが知っている(と私が想定すべき)「前提」は、「高校時代に取っていなかった」世界史の出来事ではなく、沖縄、かつての琉球王国に関わることである。そして、沖縄の過去を考えるヒントは、私たちの周囲にたくさんある。もし沖縄で起きていること、たとえば米軍基地問題を知らなかった場合、そして学生が「それが何か問題でも?」などという表情を浮かべたならば、即座に私は言うだろう。「うん、問題でしょ、それは」と…。

 ここで、改めてはたと気づいた。イギリス史の講義において、「学生たちの前提」として私が想定すべきは、イギリスで起きた歴史的事実や出来事だけではないのである。

 デジタル時代の今、歴史家の仕事って何だろう。この問いは、現代世界とどんなふうにつながり、私を、そして私が対話を試みる学生たちを、どこに連れていってくれるのだろうか。この問いの先を、ゆっくり少しずつ、具体的に綴ってみたい。

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著者略歴

  1. 井野瀬 久美惠

    1958年愛知県生まれ。甲南大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻単位取得退学。博士(文学)。第23期(2014-2017)日本学術会議副会長。大英帝国を中心に、(日本を含む)「帝国だった過去」とわれわれが生きる今という時空間との関係を多方向から問う研究をつづけている。主な著書に『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日新聞社、1990)、『子どもたちの大英帝国』(中公新書、1992)、『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998)、『黒人王、白人王に謁見す』(山川出版社、2002)、『植民地経験のゆくえ』(人文書院、2004、女性史青山なを賞受賞)、『大英帝国という経験』(講談社、2007;講談社学術文庫、2017)、『イギリス文化史』(編著、昭和堂、2010)、『「近代」とは何か』(かもがわ出版、2023)など。

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