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京都不案内

田中ふき子さんに聞く(1)

 出雲の百姓と自称する佐藤忠吉さんを取材した本(『自主独立農民という仕事――佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々』バジリコ、2007年)の出版記念会で、すてきな女性にあった。西陣の商家から嫁いで60年、京都の綾部で農業をされている田中ふき子さんだ。「私は兄に農家に嫁げと言われてね。豚のお産もしましたわ。手を奥に突っ込んで何匹も出るまで。肩まで突っ込んで」という。いつでも来てね、という言葉に甘え、2013年の秋、京都駅から山陰本線に乗った。
 駅まで迎えに来てくれた娘のみほさんが土地のことを教えてくれた。

「近くを流れている川は由良川です。江戸時代は九鬼くき氏1万石の城下町でしたが、維新になって波多野鶴吉(1858-1918)が伝統産業である蚕糸で郡をよくしていこう、と作ったのが製糸会社の「郡是ぐんぜ」(現在のグンゼ株式会社)。女工でなく工女と呼んで大事にし、学校を作って教育をすすめ、この辺ではグンゼに勤めるのは、嫁入り道具とされた時代がありました。」

 綾部はもともと漢部あやべという絹織物を伝えた帰化人の住んだ土地だ。また出口なお(1837-1918)が大本おおもと教を開いた土地でもある。
 行った先は広い農園だった。ふき子さんは現役の農婦だ。

「4、5日前でしたけど、ブドウを取ろうと思ったら、3匹の黄色いスズメバチが止まっていました。無事でよかった。あれは怖いです。そろそろと後ずさりせんといけません。」

 脚立に上がって柿の枝の剪定もする。

「あとひと月で86ですよ。近くの人は「よう60年農家をやらはりましたなあ」と最敬礼してくれるんです。私はとにかく向上心の塊で、怠け者は私と一緒にいると辛いんですよね。記憶が悪くなったというけど、人並みになったのかなと思って。」

 ふき子さんは生態、民族、情報学者として幅広く活躍された梅棹うめさお忠夫さん(1920-2010)の妹である。梅棹さんにも『行為と妄想――わたしの履歴書』(中公文庫、2002年)という自伝があるが、女性家族の目から見た梅棹家のことを語ってもらった。

「梅棹の家は父で三代目です。「“売り家”と唐様で書く三代目」(初代が築き上げた財産を道楽・遊芸によって食いつぶした三代目は、家を売り払う際にも道楽者らしい唐様のしゃれた字で張り紙を書く、という川柳)というのがありますなあ。あれですねん。滋賀県の琵琶湖の北側の菅浦すがのうらというところに、うちのご先祖さんは天皇を守ってはった。梅組水軍といって、竹生島ちくぶじまの陰に隠れて大津からくる船を襲ったりする。梅組の水夫長で、竿を自由に操るので、梅棹という名字をつけはった。
 ひいおじいさんが宮大工、儀助さんっていわはったかな。その人が幕末に京都に出てきた。そして西陣の浄福寺を建てはった。年取って目が悪くなって屋根に上がれなくなったので、晩年、手仕事で、桐の下駄をつくったんです。いろんな色をつけて売ったらよう売れてね。明治より後のことやろな。うちに来てた人が「おじいさんのつくった下駄はこんなんどっせ」と持ってきて見せてくれた。
 菅浦出身の人には約束があって、故郷から来た若者は必ず世話して手に職をつけさせて故郷に返すというんです。うちは二代目からは下駄屋です。下駄と鼻緒は別々に買うからね。組み合わせを楽しむんです。その色とりどりの鼻緒が漆塗りの箱に入って、それが10段くらいの棚に入っていました。うちは下駄には不自由しなかったですよ。
 二代目の菊之助さんは40そこそこで死なはったようですが、奥さんのふささんは嵯峨野さがの(京都市の西部)の出身で、61か2まで、私が3歳の頃までは生きてはった。
 その長男が三代目で、私の父の菊次郎。下駄屋と小間物屋を中心に西陣で4軒くらいやらはったんとちゃうか。お風呂屋さんの権利も持ってはった。父方のきょうだいは、おきくさん、おゑいさん、ひとりスペイン風邪で死なはった男の子がいた。一番下の千代子さんは30いくつまで独り者で、お裁縫の先生をしていたから、うちの着物はみんな千代子さんが縫いました。千代子さんが婿を取って、南側の下駄屋の方を父が、北隣の小間物屋の方をお千代さんが経営しました。
 母はヱイ(えい)といって六地蔵(宇治市)の小畑という家ですね。お豆腐屋さんもしてはった。15も年が違いますが、母はずば抜けて賢かった。」 

―お家のあった場所は正確にはどこですか。

「本籍地は上京区千本通中立売なかだちうり上がる東石橋町33番地やなかったかしら。(私がうまれたのは)昭和2年の10月1日です。京都駅へ行くちんちん電車が通っていた千本通の角ですからね。琵琶湖から出てきはったときからそこらしいですよ。すとんと長い鰻の寝床。坪庭もあって、いわゆる「御所焼け」(嘉永7〔1854〕年に起こった大火で、内裏が炎上し、西は千本、北は今出川、南は下立売まで焼失した)に残った家と言われてました。ふき抜けになっていて、天窓があって、もともと織り屋さんでしたんでしょう。いま、その家はないんです。伯母が最後までいましたが。西陣で、機織りする家は表通りでなく、裏の方です。友達の家に行くとガチーンガチーンと織ってましたよ。大きな声でしゃべらないと聞こえません。」

―何人兄弟の何番目ですか?

 「うちは8人兄弟ですね。この世に出たんは6人です。私が生まれたのが10月1日で、その3日前が5歳の兄の葬式だった。母が、「あんたほど苦しい思いで産んだ子はおへん」と言いました。
 長兄が梅棹忠夫で、私の世話をよく焼いてくれました。6人ともみんな上の学校にやってもらいました。家の近所に5、6軒借家もあったし、等持院の方にも借家を建ててました。」 

―小学校はどこに通ったんでしょう。

「学校は正親せいしん小学校。そのあたりを正親町おうぎまちと言いました。私のときは3クラスでイロハでしたね。イ組は女の子、ロ組は男女組で上の学校に行く組。すぐ隣が聚楽第じゅらくていの聚楽小学校。お母さんが賃機を織って暮らしているうちもあったし。
 ひと組が53人くらいでしたね。先生は忠夫兄を卒業させ、次の豊さんも2年教わった先生で、梅棹の妹が来るというので、待ちかねていたらしいです。私はあんまり遊ばん子でした。上がり口に鞄を置いていて、読みたい本を選んで、押し入れに入って本を読んでいました。小さいときから遠視でしたね。でも今も白内障はないんです。」

―お父さんはどんな方ですか。

「私が初めてできた女の子なので、父はかわいがってくれました。「お前が男やったらなあ」と何度聞かされたことでしょう。誕生日も全部やってくれました。その時は魚寅さんという料理屋にうなぎの入っただし巻き卵を食べに行きました。こんな大きな蓋物に焼いてくれるんです。女の子だけ3人連れて行って、「今日はふき子の誕生日だからおあがり」といって。今もしてはるのかな。もう千本通もすっかり変わりました。
 夜はお父さんが「おい、ふき子行こ」といって、西側にある米谷さんという呉服屋へ行って、浴衣の生地を選んでくれるんです。妹2人はだいたいお揃いか、私のお古ですね。洋服は千本の一条の西角に武田さんていう大きな店がありました。よそ行きは河原町二条の石川という子供服専門の店で買いました。
 外出する時、「おい、行くぞ」と父が声をかけたら、お母さんは「はい」と答えて、着物、襦袢じゅばん、みんな揃えてささっと着替えて、日本手ぬぐいに財布を挟んで。父は財布の中身なんか見たこともあらしまへん。父は趣味と社会奉仕の一生で、お寺の和尚さんが中尉で戦争に行った時は父が後を守って、お経も上手でしたよ。毎日のように、上七軒かみしちけん(西陣にある花街)の芸者さんが、呼び出しに来ましたね。なにせ母とは15違いますから。」

―そうすると、忠夫さん、豊さん、ふき子さん、妹さんお二人と弟さん。

「きょうだいの中で忠夫兄と一番仲良しでした。教科書の名前も書いてくれたし。兄は小さいときから整頓は好きな人でしたね。使うた鉛筆をきれいに削って箱に大きな順番に並べてね、「使うたものは元に戻す」。「はさみ貸して」というと「元に戻せよ」といって貸してくれました。整理魔というあだ名でした。名刺でもはがき一枚でもみんなその場で整理する。だから目が悪くなってからも40冊ほど書きました(梅棹忠夫さんは1986年に視力を失ったが、口述筆記によって本を書きつづけた)。それは3人いらした秘書さんたちのおかげでもあるんですけど。
 とにかく、男の一番上は大事にされましたよ。(京都)府立一中に入った時に離れの勉強部屋を建ててもろうて。三高に入った時にはライカを買ってもらった。
 お兄さんは小学校の5年生で検定を受けて、飛び級で京都一中に行き、そこも一級飛び級で三高にはいりました。帰ってきて「お父さん、三高いうところは面白いところやで。僕のこと見て、こんなボンと一緒に勉強するのかといわはった人がいるで」と笑ってました。その人は何回も受けて20すぎてやっと入った。
 マント着て朴歯ほおばの下駄を履いて行ってはったよ。兄が三高時代に登山を始めたのは、父が大峰山の講中こうじゅう(信仰者の集まり)の元締めだったからですね。兄は山に行くとオートミールにお湯をかけて食べるので、これは便利だというので、父も真似して朝はオートミールを食べていました。」

―私が四手井綱英しでい つなひで先生(1911-2009、森林生態学者)の聞き書き(『森の人――四手井綱英の九十年』晶文社、2001年)を書いた時に、梅棹先生が読んでくださって、パーティーでお会いした時、「あんた、いいもん書きはりましたね」と褒めてくださいました。

「山の仲間でもある今西錦司きんじさん(1902-1992、生物学者・探検家)、四手井さんは親戚です。兄は今西先生の一番弟子です。今西先生は飲むと面白くてね。あごが長いでしょう。だから飲むと、みんなで「ロング・ロング・アゴー」を歌って、先生も一緒に歌いはるんです。
 今西先生は食い道楽で、土倉さんという大金持ちと料亭で、お前の鮎の方が大きい、とかいって喧嘩をしはったと聞いてます。
 今西家には何度も遊びに行きました。奥さんが画家の鹿子木孟郎かのこぎ たけしろう(1874-1941)のお嬢さんで、園子さん。天真爛漫な人でしたよ。女学校の話なんか、口をまんまるにして、「まあ」「まあ」となんでも驚いてくれるんです。お子さんたちとも遊びました。庭がものすごく広い。そこにテント張ってお泊まりしたりしてね。下鴨の中川原町やったかな。
 今西先生が、「ふき子さん、本が好きなんやってなあ。僕とこにあるわ」と。伊佐町というところが今西先生の生まれはったところです。「そこに置いてあるから、おばさんにいってもらってこい」といって(くれて)。」 

―下のお兄さんはどんな方ですか?

「次兄の豊さんは商業学校ですし、あの人、勉強はいやだったんやろな。すごく面白い兄ですね。もててもてて。優しすぎてよく騙されはったね。先斗町ぽんとちょうに好きな人がいはったようですよ。あの人は西陣の麒麟児といわれたけど、騙されないように私が目を光らせていました。」

―下駄屋さんはいつまでですか。

「忠夫兄は下駄屋を継ぐのは嫌や、と。それで母が下駄屋をやめて本屋をしました。忠夫兄が肩入れして、店の設計も兄がして、仕入れのアドバイスもして。兄の友達がみんな買いにきましたから、よう売れましたよ。母の誕生日がクリスマスイブなんです。それでその日2時間だけ店を閉めてね。母のお誕生日して、そして夜の8時からまた店を開けました。店の人もたくさんいましたから。
 父は52で亡くなりました。父は母より15も上でしたから、その父が75まで生きるといわれて、「生きるのいやや」といわはったとき、母がすかさず、「そんならその余分の25年を私におくれやす」と。欲深いと思いましたが。その時は、母はまだ30くらいだったんですね。」

―ふき子さんは府立第一高女(京都府立第一高等女学校)って、京都の女学校でいちばん難しいでしょ。

「昭和15年に入学です。創立は明治何年やろな、ものすごく古い学校なんですね(前身となった「新英学級及女紅場」は1872〔明治5〕年設立、「府立第一高女」への改称は1904〔明治37〕年)。それで小学校の先生も「府一でビリになるより、府二で一番になった方がええ」といってましたが、兄が「絶対、府一に行け」と。滑ったら来年行けばいいと。あるいは華頂、京都女子大、同志社女子など私立を受けるんですね。府一は勉強も大変でしたが、高級官吏や京都の教授、実業家の娘などがいて、京都弁をしゃべらはりません。法衣屋の娘と私くらいしか、「かんにんえ」とか「うち」とかいわないですね。
 私はものすごう小さかったので、どうにか大きくなりたかった。それでお母さんにテニスのラケットを買ってくださいと頼んだのに、「そうどすか」でおしまい。催促したら、「ねえやについて行ってもらいますさかい、それで買うてお帰りやす」と。ラケットが5円でしたから、府立高女の1ヶ月の月謝と同じでしたね。運動場の一番端っこに二面コートがありまして、そこで5年テニスをやってたら、30センチ伸びました。背の小さい人同士、仲良くしてました。」 

―お兄さんともどこか行きました?

「あの頃、一人では大丸も映画館も行っちゃいけなかった。洋画はたいてい兄と見ましたね。うちの周りには千本座、長久座、西陣シネマ、千本の上長者町かみちょうじゃまち辺りにもひとつありましたね。吉良竜夫きら たつおさん(1919-2011、生態学者)や中尾佐助さん(1916-1993、植物学者)はまるでお兄さんみたいでしたよ。兄は三高から帰ると必ず着物に着替えるんです。袖畳みにして押し入れにしまってあるのを出して着ようとしたら、帯が見つからない。母屋の方に「お母さん、あての帯どこにありますねん」といったので吉良さん、男がそんなことをいうのかとびっくりなさって。吉良さんは大阪の四條畷しじょうなわてのお寺の住職の家で、お父さんもお母さんも学校の先生をしておられました。いつも来るときにお寺の境内の甘くておいしいスモモを持ってきてくれて。」

―梅棹忠夫先生は兵隊に行かなかったんですか。

「お兄さんの友達はみんな学徒出陣で行かはりました。兄は華奢な体ですが丈夫だったし、第一乙で戦車兵になるはずだった。(でも)あの人は大学院特別研究生というので徴兵の2年猶予をもらって、草原の社会を調べに中国の内モンゴルにあった西北研究所に行きました。自分の研究のほかに軍の目的もあったと思います。司馬遼太郎さん(1923-1996)は3つ下で、戦車隊に配属されて、満州までいかれましたよ。
 兄は23の時に、17歳くらいのいとこの淳子さんと結婚しました。あの人は神戸のお嬢様ですから家事はできません。玉ねぎの皮をむいて泣いてはった。でもそういう純真なところが兄は気に入ったんでしょう。兄嫁も後から蒙古に行かはりましたよ。」

―うちの母がふき子さんより二つ下の昭和4(1929)年生まれで、女学校の2年生からはずっと勤労動員で勉強なんかしなかったって。

「私は勤労動員で、琵琶湖の予科練の人が乗る、通称「赤とんぼ」いう練習機の翼をつくってました。女学生がつくった翼で飛んでいるんですから危ないですよ。私たちはそれでも戦争からは守られていたと思いますね。女学校の校長先生がリベラリストで、英語も「やりたいやつはやれ」といってやらせてくれたし、「軍需工場にこの子らをやれん」といって機械を運び込んで、学校のなかでつくりました。航空の専門家が指導に来てね。かんな研ぐのを上手になって、苗木の接ぎ木をするのも全部自分で研いでいましたね。「あんたらお嫁さんに行かはったら、なんにもできんでも、かんな研ぎだけは上手やなあ、と言われるようになるで」と先生がいってたけど、本当にそうなりました。」

 お話はどこまでも続く。

京都の人のつぶやき

 私は西陣に住んでいる。ふき子さんが生まれ育ったという千本通中立売は生活圏だ。ちんちん電車が走っていた千本通を、機織りの音がガチーンガチーンと響き、映画館がいくつもあったという西陣の賑わいを、いま想像するのは難しい。ふき子さんが通っていた当時3クラスあったという正親小学校は、現在1学年1クラスに。隣の聚楽小学校は他3校と統廃合されて西陣中央小学校となり、聚楽小学校の校舎は京都インターナショナルスクールとして利用されている。
 ふだんはめったに目にすることになくなった西陣織。どこに行ったら出会えるのか。ひとつは、西陣織会館。堀川今出川の南西に建っている。着物ショーや制作実演を見たり、手織体験やきもの体験ができる。もっとも、コロナ禍のため、今はガランとしており、着物ショーも休演中。以前は観光バスがよくやってきて、とりわけ春節の頃は中国からの観光客でにぎわっていた。もうひとつは、浄福寺通上立売上るにある「手織ミュージアム 織成舘」。着物の展示がメインだが、隣にある帯を作っている手織工場を見学できる。天井高くまであるジャカードと呼ばれる織機、無数に取り付けられたカラフルな糸は圧巻だ。ひとつの帯を仕上げるのに数か月かかることもあると聞いて、気が遠くなった。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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