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美しいってなんだろう?

美しき「人」

 ぼくはあせっていた。どんなに足をバタバタさせ、手で水をかこうとしても、いっこうに前へ進めない。波にからだが引っ張られ、陸はどんどん離れていく。砂浜にねころぶ人影が米つぶのよう。だれもこちらには気がついていない。あせればあせるほど、塩辛い海水が口にはいってきてむせてしまう。足先にぞわぞわと海そうがさわる。冷たい水とともに海の底にひきずりこまれそうだ。
 もうだめかもしれない。半分あきらめかかったそのとき、うしろからガバッと抱きかかえられた。

「大丈夫、おちついて」

 耳元で声がこだまする。ふり返ると白人のお兄さんの顔がすぐ後ろ、自分の肩の上にみえる。毛むくじゃらの太い腕がぐいぐいとぼくのからだをひっぱって、足が立つ浅瀬まで運んでくれた。
 十一歳、インドの最南端ちかくコヴァラムビーチでの出来事である。両親からはなれ、ひとり海で遊んでいるうちに沖に流され、どうにもならなくなったのだ。
 ふらふらになって浜にあがり、いま起きたことを母に話しているうちに、もしあのまま波に飲まれていたらどうなっていただろう、と想像して恐ろしくなった。助けてくれたお兄さんは、いつの間にかどこかへいってしまって、名前もわからない。ちゃんとお礼をいうこともできなかった。 

 

 大都会バンガロールで暮らしていたころ、市場にいくつもりが、うっかりちがう行き先のバスに乗ってしまったことがあった。バスが止まってから降りればいいのに、あわてて、ピョーンと降車口からとび降りた。インド映画の主人公みたいに華麗に着地するつもりだったが、実際はぶざまに足がもつれ、雪だるまのようにごろごろんと転がって、道路の縁石の角で頭をしたたかに打った。いたたたた、と頭をおさえたら、ぬるりという感触。手のひらをみたら血で真っ赤だ。傷口をハンカチでおさえ、道ばたに座りこんだ。
 しばらくして、出血が落ち着いてきたので、気を取り直して市場にむかった。
 人ごみでごったがえすシティーマーケットの細い通路をふらふら歩き、買い物をしていると、後から声をかけられた。

「おじさん! 血がでてるよ!」

 小学生くらいの男の子が、まるで化け物でも見たかのような表情で、ぼくの後頭部を指さしている。歩いているうちに、ふたたび血があふれだしたのだろう。頭から首、肩をつたって流れた血は、Tシャツにまっ赤な染みを広げていた。

「病院にいったほうがいいよ」

 男の子は近くにある無料の病院まで道案内をしてくれた。ドクターはぼくの頭の様子をみるとたいした説明もなく、消毒液をふりかけて、ザクザク傷口を縫い合わせた。
 男の子はぼくを病院に送り届けると何事もなかったように、さっと市場の方へきびすをかえし歩いていった。 

 

 母方の祖父は若いころ、戦争で兵隊にとられて、いろんな戦地を転々とした。満州ではこんなかわったものを食べた、便所の穴をのぞいたら豚が顔を出して待ちかまえていた……祖父は自分の体験を、おさないぼくにおもしろおかしく語ってみせた。

「ガムを山ほどかんで、気球ほどおおきい風船をふくらませ、そのまま空に飛んでいってしまった人がいたんだ」

 なかにはつくり話もたくさん混ざっていたが、特攻隊を命じられたときの話は心につよく残った。
 特攻隊とは、飛行機に兵士を乗せて敵機に激突させる、人間爆弾のようなものだ。とうぜん、乗っている人は助からない。戦争がいやでしかたなかった祖父は、自分の命がこんなことでついえてしまうのかとなげいたが、上官からの命令にそむくことはできなかった。
 死を覚悟した特攻の日、親しくしていた飛行機の整備士がまわりにわからないようにそっと耳うちした。

「こっそり燃料をすくなくしておいた。敵のところにいく前に墜落するから、うまくいったら助かるかもしれない」

 飛行機は出撃したものの、途中でずるずると失速して、糸のきれた凧のように地上に落ちた。祖父は大怪我を負ったが、なんとか一命をとりとめ、入院しているうちに戦争が終わった。
 ホラ話好きで反戦家だった祖父のことなので、うそかまことか真相はわからないが、

「あの整備士さんがいなかったら、おれもお前もいまここにいなかったんだよ」

という言葉は、どうにもつくり話には思えなかった。



 

 宇宙の果てには、太陽系を包みこむほどおおきなブラックホールがある。その先を進むと、ぼくらとそっくりだけど、ほんのすこしだけ違う、別の宇宙がいくつも存在するという。女性のからだを持って暮らすぼくがいたり、指先がタコの足になっていたり、猫と人間がいれかわったり、ゆかいな地球があるのだろう。ぼくがコヴァラムビーチでおぼれ死んでしまった世界や、おじいちゃんが特攻隊で戦死した世界もあって、そこでは矢萩多聞という人間がいないことなんて、だれも気に止めないだろう。
 物心がついたころから、ぼくらは自分のからだを通してこの世界を見ている。だが、すべてのことを自分が選んで、決めて、歩んできたとはおもわない。まわりの人のちょっとした行動や言葉、たまたまの連続で、ぼくたちは出会ったり別れたり、死んだり生きたりしてしまう。そんなところで、絵を描き、本をつくり、ご飯を食べ、眠っている。 

 夜、布団にはいって、まぶたを閉じると、その日に会った人たちの声が聞こえてくる。嬉しかった言葉も、悲しかった言葉も、どうでもいい言葉もごったまぜ。だれかがラジオのチューナーをでたらめに動かしているのか、てんでバラバラにとんでくる。
 他人に会わなかった日は、自分の声が聞こえることもある。たくさんの人に会った日はとてもにぎやかで、ワアワアうるさくて寝つけない。
 だが、しばらく待っていると、ひとつひとつの声は、合唱のように重なりあって響いてくる。駅のベンチで、雑とうに耳をかたむけながら、ゴロンと寝転んでいるみたい。合唱は夜空の星のままたき。それが心地よくて、いつの間にか眠ってしまう。おさないころから変わらないぼくの子守唄だ。
 友だちや、命の恩人、気になる人だけじゃない。通りすがりの、なんでもない人たちが、きまぐれな聖歌隊となって歌をうたい、毎夜ぼくを寝かしつけてくれる。



 

 二十歳のとき、インドではじめて眼鏡をつくった。
 できたてホヤホヤの眼鏡をつけ、お店から通りに出た瞬間、わあ、と声がもれた。
 いままでぼんやりとしかみえていなかった風景が、たしかなかたちと色をもって、目のなかに飛びこんでくる。道路を歩く人の顔、服のシワや汚れ。女性の髪が風になびき、ジャスミンの白い花びらがハラハラと落ちる。街路樹の木の葉の一枚一枚が細かくふるえ、陽の光に葉脈がすけている。屋台の塩豆売りの鍋のなかには、ちいさな黒ひよこ豆たちがうずまいて踊り、カランとさじを打ちつけるたびに、炭から火の粉がちらちらと舞いあがる。
 オートリクシャーの後部座席からみえる風景は、つぎめのない映画のようだ。追い越し、追い抜かれる車やバイク、バス、トラック、人や動物の姿が右から左へ流れゆくのを観ながらウトウト眠るのが好きだった。
 町の風景は、目の真ん中に見えるものよりも、目のはしっこからすぐに消え去ってしまうもののほうが断然おもしろい。明日には忘れてしまうような人こそ、記憶にとどめておきたい。いま曲がらなかった路地の片隅に、こっそり宇宙の秘密が隠されているんじゃないか。どうして、ぼくには前を見るふたつの目玉しかないんだろう、とうらめしくさえ思った。

 二〇〇一年、かつて暮らしていたインドの田舎の村を訪れた。
 十代のとき、毎日ひまだったぼくはその村をあてもなく散歩し、いろんな人たちと会った。カメラを持って歩くこともあり、きまぐれに何人かの村人の写真を撮ったが、プリントを渡すことはなく、それっきりになっていた。いつかこの写真を本人に届けたい、と思っていたのだ。
 十代の自分が歩いていた散歩の道のりを思い出しながらたどって、この人知っている? と、村人たちに写真を見せる。
 なんだなんだと、すぐに人だかりができる。

「こいつはあそこの家の息子じゃないか」

「いやいや、ちがうよ」

 手が四方八方からのびてきて、写真はあちこちに回される。ひまでおせっかいな人があらわれて、

「おれにまかしておけ」

と人探しに協力してくれる。

 タマリンドの林で豚を放牧していた少年はひげをたくわえ立派な青年になっていたし、ゆで落花生を食べさせてくれた農家のおじいさんは亡くなっていたが、タイムカプセルのようにふいに届けられた写真を、だれもが喜んでくれた。
 河をわたり、畑をまたぎ、いくつかの集落を訪ね歩くうちに、手元の写真は一枚、また一枚となくなり、おしまいに一枚の写真だけが残った。
 夕日に染まる村の市場。人が行き交う通りの真ん中で、女の子が水がめを腰に抱え、ふりかえるようにしてこちらを見つめている。年のころは当時のぼくと同じ一七歳くらいかか。色あせたピンクのブラウス姿がいかにもあかぬけない村娘という感じ。なんてことのないスナップ写真だが、その物うげな眼差しと、夕暮れにただよう切ない空気が、胸にきゅんと迫ってきて、おもわずカメラのシャッターを切ったことをよく覚えている。
 しかし、だれに聞いても彼女の居所だけがはっきりしない。あっちこっちをたらい回しにされ、歩きに歩いて、ついに村はずれまで来てしまった。
 国道の三叉路にポツンと建つほったて小屋のチャーイ屋にはいって腰をおろす。棒のよう重くなった足を伸ばしながら、甘いチャーイを飲む。これだけ探して見つからないんだから、この一杯を飲んだら、あきらめて帰ろう。
 そう思って、おかみさんを呼び、お金を払おうと顔を見上げ、はっとした。あの写真の目だ。すっかり大きくなって、サリー姿にショールで頭をおおっていたが、その目だけは変わっていなかった。
 もしかして、これってあなたですか? 写真を差し出すと、相手もびっくり大騒ぎ。なんと偶然はいったこの店の若いおかみさんが、最後の写真の少女だったのだ。

 「いまもカメラもっているの?」

と聞かれたので、かばんのなかのデジカメを取り出して見せると、ぜひ撮ってほしいものがあるという。
 店の奥、うす暗い小部屋から抱えてきたのはまだ生後数ヶ月ほどの赤ん坊だった。ぬきたての大根のように、店のテーブルにゴロンと寝かされた赤子。どこからともなく集まってきた親戚や野次馬の男たち。そして、立派な母となった彼女。みんなで写真を撮った。
 写真のお礼にと、熱々のチャパティとじゃがいもの煮こみが運ばれてきた。染みる味だ。食後には熱いチャーイがもう一杯。
 むずがり泣き出した赤ん坊をなだめながら、なれた手つきでチャーイをいれる彼女の姿をみて、美しいなあ、とほれぼれした。ぼくが村を離れ、あたらしい街でのほほんと暮らしているうちに、少女は結婚し、チャーイ屋のおかみさんとなり、子を産み、育てていたんだ。
 身も心もお腹もいっぱいになって、別れを告げる。すっかり日は落ち、夜道は暗かったが、足取りは軽く、気持ちは妙に晴れ晴れとしていた。いつの日か、もし自分に子どもができたら、一緒にこの店に来てチャーイを飲もう、今日の写真はそのときに渡そう。そう心に決めた。



 

 美しい人ってなんだろう? 言葉を縮めれば「美人」とも読めるが、顔がかわいいとか、スタイルがきれいとか、立ち居ふるまいがかっこいい「美人」と、「だれかを美しいとおもうこと」はだいぶ違う気がする。
 若くても年寄りでも、男でも女でも、そのどちらでもない人でも、人間をみて「美しい」と感じる瞬間がたびたびある。その人そのものの美しさだけではない。その人と、その場所で、ぼくの心がともにそろって、糸が針穴をすっと通るときのように、美がすべてのものを貫き通すのだ。
 そんな美しさに出会うにはどうしたらいいか。てがかりになりそうな材料やレシピについて、これまで何度も考えてみたが、いっこうに答えは出てこない。

 小学四年生のとき、ぼくは担任の先生がいやで、ほぼ一年間学校に行かなかった。五年生にあがると先生が変わり、ふたたび学校へ行くようになったが、ほかの子とおなじように時間通りに通学することは難しかった。
 毎日ひとつの場所に通うことを一年近くやらなかった子どもにとって、登校はまわりが思っているより重労働なのだ。朝はなかなかエンジンがかからないし、家を出ても片道三十分の道のりを一時間くらいかけてゆっくり歩いていく。早く行きたいとおもいながらも、学校にたどりつくのは二時間目か三時間目になってしまう。
 ある日のこと。いつものように遅い登校で、他の教室からもれる授業の声を聞きながら、だれもいない廊下をびくびく歩き、自分の学級の前に来る。どのタイミングで教室にはいったらいいか。心臓がドキドキして口からとび出しそうになる。
 後ろのとびらをそーっとあけて、忍者のようにこっそり自分の席に座って、一時間目からいたような顔していると、ぼくの姿を見つけた先生が声をかけた。
 怒られる! とおもい反射的に身をすくめたが、そうではなかった。
 先生は遅刻したことを責めなかった。登校するのは何時間目からでもいい。給食だけ食べて帰ったってかまわない。そのかわり、教室にはいるときは、ちゃんとおはよう、と声をかけあおう。はじまりのスイッチをそこで一緒に押そう。もし一日をコソコソはじめたら、その日がおわるまでコソコソした心のまますごすことになる。だから、遅刻しても胸をはって教室に入ってきなさい、と言われた。
 学校に行けないことは恥ずかしい、行けても授業についていけない、と思っていたぼくには、この言葉がなによりも救いになった。このときはじめて、ぼくはここにいてもいいんだ、と思うことができた。

 それから十数年後、大人になって、当時の先生とクラスメイト何人かとお酒を飲んだとき、

「じつはいままで秘密にしてきたんだけど……」

と先生はもうひとつの話を教えてくれた。
 毎日遅刻して登校するぼくのことは、子どもたちのなかでも慣れっこになっていたが、授業中、校庭を横切って校舎に向かうぼくの姿がみえると、きまって窓ぎわの子が声をあげた。

「先生、タモンが来たよ!」

「またあいつ遅刻だー」

 ほかの子たちも、気になって窓から外を見てさわぎたてる。先生は、黒板に文字を書くチョークの手を止めて、みんなに言ったそうだ。

「いいか、みんな。タモンがはいってきても、遅刻だとか、遅すぎるとか言っちゃダメだぞ。あいつはきっとこっそり教室に入ってこようとするだろうから、気が付かないふりして前向いているんだ。タモンが席に座ったらおれが声をかける。笑ったりするなよ」

 よくよく考えたら、いくらこっそり入ってこようとしたって、とびらが動けば侵入者に気がつくもんだ。そんなことになっているとはつゆ知らず、シメシメうまく忍びこめたと思っていた自分がちょっと恥ずかしい。まさかクラスメイト全員がそんなふうに、ぼくのために演じてくれていたなんて! 
 子どもたちにとっては、たんなるごっこ遊びのようなことだったのかもしれない。だが、このやさしいお芝居のおかげで、ぼくは教室にはいることができた。あのとき、だれもぼくのことを責めなかった、さげすまなかった。だから、そこに座っていれた。ぼくが校庭を歩いているときに、教室で起きていたこと。先生とクラスメイトとの会話。十数年のときを経て、その美しい光景がありありと目に浮かび、涙がにじんだ。



 

 「この世は神さまがつくったお芝居だ」

という考え方がインドにはある。
 お芝居の台本にはどんな物事も正しいこと、悪いことにわけて書かれていない。神さまはだれも罰さないし、救わない。人間はそれぞれの役割を演じているだけ。うまくいかないこともたくさんある。目の前のことに悩み、ちょっとした言葉にクヨクヨする。だが、ときにはその芝居を美しいと感じ、楽しめるのもまた人間なのだ。
 はてしない宇宙のなかで、星の数ほどの人が、それぞれの役を演じている姿を想像する。いのちのままに働き暮らし、だれかを傷つけ、だれかに救われ、出会いと別れをくりかえし、太陽は沈み、夜が来る。
 眠る前、暗闇のなかでこんなにも心が休まるのは、彼らの歌を聞いていられるからだ。その声はやむことがなく、ずっとずっとつづいていく。 

娘つたのつぶやき

忘れられない3人のこと

 キコキコキコ。わたしは三輪車に乗っていた。ピューロロロロロ、ピューロロロロ。トンビが鳴いている。ザーザーザー。川に水が流れている。キーコ、キーコ。気持ちがいいな。
 あれは、だれだろう。四角い顔、茶色のチェックの服、こげ茶色のカバン。なんか眼鏡をしているけど、まちがいなくとらさんだ。
 あっ、でも、ママにも教えてあげないと。わたしは、遠くに立っているママに目をやる。

「ママーッ」

 ちいさな足を力いっぱい動かす。キコキコキコキコ。

「なあに?」

 ママがこっちをむいた。ママの動きがおそくってもどかしい。

「ねえ、ママ来てよ」

 わたしは、さっきとらさんがいた方にふり返る。

「あれ?」

 さっき見たとらさんは、消えていた。旅しているから、もう行っちゃったのかな。わたしは、さみしくなった。

「いま、とらさんがいたんだよ」

と、なんどもママに話した。
 4才のころ、近くの高野川でおこったことである。
 あのころから、わたしは「男はつらいよ」にはまっていて、主人公の車寅次郎の大ファンだった。自分の目の前にとらさんがあらわれたものだから、どんなにうれしかったか。次回の映画はわたしがヒロインかも!? とおもった。
 いまとなっては、なぜ自分は、とらさんでななく、ママの方へ行ってしまったのかわからない。ひどく後悔している。もし、とらさんの方へ行っていたら、いっぱいおしゃべりできたかもしれないのに……。

 フィンランドへいったとき、わたしはサンタさんに会った。このときのことは、あまり覚えてはいない。
 町を歩いていたら、夏なのに、クリスマスのシールがショーウィンドウにはってある店があった。ショーウィンドウのまわりは、雪のように白く、なかをのぞきこむと、でっぷりとした白ひげのおじいさんがすわっていた。
 多聞とママは、おじいさんと、英語で話していたけど、わたしには話していることがまったくわからなかった。おじいさんから名刺をもらって、はじめて、その人がサンタクロースということがわかった。うれしくて、みんなで写真をとった。
 サンタさんは白い半そでに白い半ズボンという服そうだった。そのときまで、わたしはサンタさんって赤いフワフワの服を着ているイメージがあったけど、夏なんだし、こんな服も着るよね、と心のなかでつぶやいた。
 わたしは、ちいさいときはめちゃめちゃサンタさんのことを信じていたけど、もしも、このとき会っていなかったら、しんじていなかったかもしれない。
 サンタはいるんだ。そのしょうこに、わたしの家にはフィンランドでもらった名刺と、今年1月ごろにとどいた手紙がある。わたしはサンタさんにもう一度会いたいと思っている。だけど、コロナがあったり、家族4人で旅のお金が高かったりでいつ行けるかわからない。でも、コロナでもなんでも、年に一回は家へ来てくれるのだから、それで満足だ。

 アヌーシュカにはじめて会ったのは、2019年の6月、南インドのバンガロールだ。
 わたしたちの家は、スルタンパリヤという町の、車が走る通りから、細い路地にはいった先に建っている。アパートメントの5階で、階だんでのぼるのが大変でエレベーターにのって、のぼりおりしていた。日本のエレベーターとはちがって、手で戸を開け閉めして、乗ったりおりたりする。
 家の近くには、ラダさん、アマルナートさんという、やさしい夫婦が住んでいて、お世話になっていた。ラダさんたちが住むアパートの1階には、ムラリさんという陽気な友だちが住んでいて、おくさんと、二人の娘とくらしていた。
 そのころ、わたしは、多聞の友だちのスラニー京子さんに、カードゲームの「ウノ」をもらい、はまって、もし負けると自分が勝つまでやりつづけた。
 ムラリさん家の姉妹とも、ウノをよくやって遊んでいた。ほかにも、かくれんぼをしたり、ベッドではねたり、言葉がわからないからスマホを通しておしゃべりしたりした。
 ある日、わたしは、いつものようにムラリさんの家へ、ウノを持って出かけたら、見なれない少女が二人、ソファにすわっていた。

「だあれ?」

「おむかいのお家のアヌーシュカと、アディヤだよ」

 このとき、わたしとアヌーシュカと、アディアははじめて会った。
 はずかしがり屋のわたしは、さいしょ、ママのうしろにかくれていたが、遊ぶうちに仲よくなっていった。
 アヌーシュカは、バドミントンが上手で、いつもバドミントンを持って、アディヤとお父さんと一緒にわたしの家まで来てくれた。バドミントンなんてしたことのなかったわたしは、ぜんぜん打ち返せなくってなげいたけれど、アディヤがつかっている、持ち手の短いラケットをつかうと、打ち返すことがすこしできるようになった。
 わたしが日本に帰る日が近づくと、アヌーシュカが手紙をくれた。それは、手書きのドラえもんと、バイバイという英語の文字。スマホで調べて、見よう見まねで書いたのだろう。手紙には、

「また来てね あなたがいないとさびしいです バイバイ アヌーシュカ」

と日本語で書いてあった。

「サンキュー」

とつぶやきながら、つぎバンガロールに来れるのはいつかなと考えていた。
 2019年11月、ふたたびバンガロールをおとずれると、みんなはあたたかくむかえてくれた。わたしのバドミントンのうでは、あいかわらずだったけど、わたしが学校で覚えた「パプリカ」を一緒におどったし、「アルプスいちまんじゃく」のようなインドの遊びも教えてくれた。帰るときには、高級なチョコレートと、金色のガネーシャをくれた。しかけのある手紙もくれた。
 アヌーシュカとアディヤのことは、一生忘れないと思う。なぜって、バンガロールにいる友だちだから!

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著者略歴

  1. 矢萩 多聞

    画家・装丁家。1980年横浜生まれ。9歳から毎年インド・ネパールを旅し、中学1年生で学校を辞め、ペン画を描きはじめる。1995年から南インドと日本を半年ごとに往復し個展を開催。2002年から本をデザインする仕事をはじめ、現在までに500冊を超える本を手がける。2012年、事務所兼自宅を京都に移転。著書に『偶然の装丁家』(晶文社)、『たもんのインドだもん』(ミシマ社)、共著に『タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる』(玄光社)、『本を贈る』(三輪舎)がある。http://tamon.in

  2. つた

    2011年横浜生まれ、京都育ち。小学校は昨年から永遠の春休みにはいり、風のふくまま気の向くままフリースクールとプールと図書館に通っている。本があれば、どんな長い時間でも退屈しない本の虫。好きな映画は「男はつらいよ」。いつの日か車寅次郎と再会することを夢見ている。矢萩多聞の娘。

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