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京都不案内

京都の居酒屋で聞く話

 永澄憲史さんという元京都新聞の記者がいる。昨年退職されたが、私にはいい飲み仲間である。三重の津の出身で、京都に行くと誘ってくださるようになった。最初に連れて行ってもらったのは千本中立売にある憧れの「神馬」。そこに朝日新聞の記者時代に知り合って、のちに同志社大学で教えた加藤千洋さんとも何度か飲みに行ったりした。
 居酒屋はやはりカウンターに限る。はも、加茂なすのシギ焼き、赤だしの味噌汁など、京都らしいものを頼んで5000円くらい。おかみさんはキリッとした方で、「ようおいでやす」と迎えてくれる。「ようしてくれはらしません」を真似してみるが、口が回らない。「おかげさんでたいそうもうけさせていただいております」と冗談も出る。「梅棹先生はこの近くの人でっしゃろ。一人で見えて静かに飲んではりましたわ」。2度目、12月に行った時には、ご主人を亡くされ、気落ちしておられた。この時は、鯖寿司、鯨ベーコン、白子などをいただいた。閉店は9時半でさっぱりしたお店だ。
 その次は鴨川べりの赤提灯「赤垣屋」に。ここは昔からの赤提灯で、お手頃だ。京都大学関係者も多くて、工学研究者の松久寛さんや社会学者の伊藤公雄さんと行くと、みんな「よっ」とかいって挨拶してる。同窓会みたい。

 京阪三条の伝説の「伏見」の閉店にも間に合った。高山彦九郎の銅像前で待ち合わせてお店へ。ガラガラ声の女将、多津子さんが大きなトレイの上に小さなつまみをこまごまと乗せて回っている。白子、鹿肉、ウニ、湯葉のチーズ巻き上げ、カレイの刺身。これ、あんた食べなさい、と強引なのが面白い。再開発でこんないいお店がなくなるなんて憎らしい。
 三条木屋町の「めなみ」もおいしいし、居酒屋評論家の太田和彦さんには、司馬遼太郎も通ったという先斗町の「ますだ」のカウンターにも座らせてもらった。太田さんの居酒屋心得。1、自前の板付で飲む。2、女将の和服は必ず褒める。3、芋系のつまみは食べない。4、宗教と政治の話は「んだかなあ、おらあ」と言ってとぼける。何度かご一緒したが、太田さんは気の毒な話には「おいたわしや」、ほっこりする話には「いい話だなあ」と相槌を打つ。それにしても「ますだ」、私にとっては立派すぎる舞台だった。 

稲垣真美さんを囲む会

 そのうちに、四条の牛鍋屋で作家の稲垣真美さんを囲む会があるというので、誘われていった。稲垣さんの本は何冊も読んでいた。『日本の名酒』(新潮選書、1984年)など酒の本、筑摩書房版『定本・尾崎翠全集』(1998年)の編集解説も、山川弥千枝の作品集『定本・薔薇は生きている』の解説も。灯台社を描いた『兵役を拒否した日本人――灯台社の戦時下抵抗』(岩波新書、1972年)も良かった。なにしろ1926年生まれ、大先輩である。
 お会いすると気さくな方だった。 

「人生のうち20年が京都、70年が東京。この会のために来るんですよ。おいしいものが食べられるから。永澄さんが必ず名店に連れて行ってくれるし。のぞみの自由席に乗るんです。富士山が見えるとなんとなく気持ちがいいなあ。」

 聞きっぱなしにするのはもったいないようなお話なので書き留めておく。

京都で育って

「僕は京都生まれですが、親父稲垣真我は尾張の出身。父は小学校出る前に京都に来たのかな。寺の小僧に入ったんです。姉さんが一足先に尼になっていてね。それから宗教大学(今の大正大学)、さらにオクスフォードのディスデビスという有名なサンスクリットの教授のもとで学んで、浄土宗の仏教学者になった。釜山で開教師だったこともあります。」

――佛教大学学長も務められていますね。

「僕が生まれたのは深泥池みどろがいけのそばの富田病院ですが、それから京都の南の八幡町といってエジソンが電球のフィラメントに使った竹の産地に3歳までいた。それからは上京区(現在は北区)の加茂玄以町の上賀茂神社に近い賀茂川べりに、中学を出るまで育ちました。名物の焼餅が懐かしい。大正15(1926)年の早生まれ、「花、鳩、まめ」の大正教科書の最後の世代です。遠足と言ったら比叡・愛宕の山歩き、一番面白くないのが天皇の御陵にお参りすることでした。
 子どもの頃、野球の選手になりたいと思ったこともある。逓信省ていしんしょうの役人だった叔父が甲子園の切符があるから来いというのでね、部下の人と大阪からサイドカーに乗って行ったんですよ。実に爽快でね。熊本工業と中京商業の準々決勝のなの。熊工のセンターが後藤、川上がピッチャーで、キャッチャーは吉原。それに甲子園のアイスコーヒーやカレーライスがうまかった。ウスターソースをかけるとトラの縞模様になる。
 中学2年のとき西宮球場に遠足で行くというので嬉しくてね。阪急の選手は慶応出身が多くてちょっとかっこいいんだ。顔にクリーム塗ってたりね。なんとなくハイカラで。電車の乗り心地もいいでしょ。そして絶対優勝しないで2位。関西には独特のハイカラな文化がありますな。夏になると浜寺に海水浴に行き、秋には箕面みのおに紅葉を見に行くとか。新聞までロックガーデンの記事を載せたり、のんびりしているのね。」

――お母様はどんな方ですか。

「母は日本女子大に入ったんですがつまらないのでやめて、東洋大学が最初に男女共学にした第一回卒業生です。作家の野溝七生子と一緒です。治安維持法で獄中の河上肇を敬愛して、僕にも牢屋に入れられるようにならなくちゃが口ぐせでした。
 僕は京都の一中ですが、小学校時代から恋もして、文弱でもありました。文芸誌に投稿もした。村山槐多かいたは僕の先輩。絵描きであるが、詩もとてもいい。絵も何かを物語っている。あれ持ってフランスに行ったら、フランスの絵描きがどんなに喜んだことか。梅原龍三郎や安井曾太郎は向こうから持ってきた絵。槐多のはまったくオリジナル。天才だよ。あんなに早く死んで悔しいよ。まあ、あんだけ生活が荒れてたら、結核にもなりますよ。あんなに無茶やったら。モテる要素があってもモテなくなるよ。」

――ホームレスみたいで、根津の銭湯は出入禁止になったそうです。槐多は大正8(1919)年にスペイン風邪で亡くなってます。

武田泰淳の思い出

「三高に行かないで東京の一高に行きました。一高を受けたときは武田泰淳さんの家に泊まった。あの人のお父さんは本郷の寺(のちに目黒の長泉院)の住職で、大島泰信という仏教学者。お母さんは両国の回向院の娘なんだよ。チャキチャキの江戸っ子で気持ちのいい人だった。泰淳さんは旧制浦和高校のときに、すでに治安維持法違反で捕まっていた。出会ったのは『司馬遷』を書き上げたときでしたよ。小説やるんなら若いうちだな。彼も兵隊から帰ってすぐに作家になった。その人が戦争中にどう生きたかで僕は評価する。その点「たけたい」を尊敬してますね。もっと評価されていいと思う。戦後になってからならだれでも何とでも言えるんだもの。」

学生時代の思い出

――あの頃は一高と三高がよく野球やボートの対抗戦をやったようですね。

「昭和10年代前半までですね。ボートはやっぱり一高が強い、一高はライトブルー、三高はネイビーブルー。まるでオクスフォードとケンブリッジのレースだね。仙台の二高は柔道が強かった。京都で一高=三高戦をやるときは、四條大橋を挟んで三高が東のレストラン菊水に陣取って、一高は西の矢尾政(洋食レストラン、現在は北京料理の東華菜館)。あの四條の橋の上で一高三高の応援団が立ち回りするのが見ものでしたなあ。」

 「僕は一高に入って、寮を出てからは、本郷区駒込の蓬莱町、神明町、西片町、それから千駄木――大学でギリシャ哲学を教わった斎藤忍随さんも近くのお寺におられたし、劇作家の木下順二さんは向ヶ丘、みんな懐かしいところです。忘れられません。
 一高で僕ら文系は第三外国語までやりましたね。音楽学をしたかったので文乙、第一はドイツ語で、第二が英語、第三がフランス語。川口篤さんのドーデェの『月曜物語』を思い出して、今も勉強しています。」

戦争末期の入隊

「僕は学徒出陣なんて認めなかったのですが、一高でも軍事教練はあったので、できるだけ避けた。東京が空襲の最中なのに、富士山麓で軍事訓練なんかやらされてねえ。さすがに教官も生徒たちを家に返した。田町まで来たら向こうの空がローズ色。横浜の空襲で。その橙々がかった桃色の空が押し寄せてくる下を、田町から本郷まで歩いて帰りました。深川などはとっくに全滅。駒場の一高は少し焼けただけですみましたが――。
 徴兵検査は兵隊が足りないんで、20歳から繰り上げで19歳になりました。昭和20年1月に徴兵検査を受けたんですよ。「新兵で入るなら蜂須賀正氏はちすかまさうじ侯爵の親戚の蜂須賀少将にと親父が言うんで、知っていた蜂須賀年子さんのところへ行ったら、「紹介状書いてあげるけど、昨日、枢密院議長の原嘉道さんに会ったら、戦争はもう終わった、と言ってたわよ。だから兵隊に行っても死なないですむのよ」と。昭和20年7月末のことです。8月に入って最後の最後8月10日に本籍地に近い深草の連隊に入りました。」

——じゃあ、東京から京都までわざわざ来たんですね。

「入隊しましたら、全員、朝の8時に御所に向かって反対方向の小山の向こう側に連れて行かれて、休めと。当時、新型爆弾が御所に落ちると噂になっていたんですよ。軍隊というところは兵隊を建て前として消耗させてはいけないんですね。そして4日後に終戦。
 東京にどうにか帰ってみると一高は繰り上げ卒業。目黒に借りていた家が焼けても別に気分は暗くならなかったね。戦災でやられたのと、震災でやられるのは違う。戦争だとこっちも気が張って身構えている。小磯国昭は戦争を止めるために1944年に首相になったのに、全然無能だった。レイテで決戦なんて言ってた。それで鈴木の貫太郎さんが、どうにかやめさせた。それでも為政者の中に、まだ人口減らしが足りなかったと言ったのがいたと聞いて、憤慨しましたね。300万人以上の国民が戦死したり、戦災死したのに――。」

文筆業へ

——いつからスポーツ志望が文筆に変わったんですか?

「僕は元々文弱の徒で大学院までは行っても学問を続ける気はなかったな。いよいよ文筆に頼るしかない、とわかったとき、やっぱりそれしかなかったんだと、文学少年と先生たちにも認められていた中学時代を思い出しました。以後、東大大学院を出てから10年、岩波映画の助監督もやったし、脚本も書いたし、そうこうして昭和40年に僕の書いた小説「苦を紡ぐ女」が、直木賞の候補になった。芥川賞の枠がいっぱいで、直木賞に回され、選考委員の源氏鶏太さんが「これは芥川賞向きですね」と言っておしまい。その後、新潮社や講談社の仕事をするようになり、一晩で原稿を30枚書いて6万円もらってたとき、京大を出て早くに工学部の教授になっていた旧友の給料が同額とかで、ボヤかれたこともありましたが。それから、思わぬお酒やワインの仕事が加わりましたが、やはり書くことが天職です。」

京都というところ

——井上章一さんの『京都ぎらい』(朝日新書、2015年)がベストセラーになっていますが。

「京都は狭いんですよ。だから視野も狭くなる。彼が言うように、昔(昭和3年ごろまで)は京都市も上京区と下京区しかなかった。相国寺界隈には京大の文学部の先生が多かった。その次が北白川あたり。向日町なんて昔は筍を取るところ。山科も宇治と一緒の市外地だった。でも京都の人が京都の悪口言ってどうするの。京都でも一流はもっとうまくやって、とっくに東京に進出しているよ。鳩居堂でも虎屋でも。近江商人も江戸時代から西川みたいに江戸に出てるよ。批判するなら京都のもっと大きなもの、裏千家とかを相手にしてほしいね。」

と言いながら「ほな、もうちょっと肉持って来い」と声をかける。健啖だし、お酒も強い。

「今度は宮川町にしよう。鴨川のしもには、団栗どんぐり橋とかいうのがある。渡ると祇園へ行く川っぷちはかしこくも織田作さんが三高生の時に童貞を落とさはったところやから」と、こんな具合に話は盛り上がった。
 酒の席の話だが、もったいなくて宿に帰るとメモしておいた。やっぱりその時代を生きた体験は重い。その雰囲気を伝える言葉が消えるのは残念だから。
 夏には先斗町の川床、「百錬」というお店で、鴨川の風に吹かれながらお話を聞いた。店の主人、バッキー井上さんという方も、京都では有名な漬物屋(錦・高倉屋)さんで、エッセイストなのだという。
「よし、もう一軒行こう」と稲垣さんは馴染みの祇園のお茶屋さんへ向かう。髪を結い上げた女将の優雅で落ち着いたこと、来てくれた17歳の舞妓さんの綺麗で賢いこと。夜はしんとして、どこまでも続くようであった。

京都の人のつぶやき

 今回は稲垣真美さんの語りが大部分を占める。事実関係に間違いがないかどうか、事前にご本人にも確認していただくことにした。原稿をお送りすると、3日もしないうちに朱入れ原稿と丁寧な説明書きが送られてきた。95歳にしてこの仕事の速さ! さらに「京都に行く用事がありますから、そちらに伺います」との電話があり、実際に来社された。「僕はね、そこの洛北高校(京都一中)の出身ですから、この辺はよく存じております。洛北高校は去年150周年だったんですが、コロナで記念式典は延期になりまして。今年は開催するそうですよ。生きてて歩けるのは僕くらいのもので」。そして、あらたに創刊される予定の『新新思潮』という文芸雑誌について楽しくお話しされて、帰っていかれた。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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