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京都不案内

吉田山界隈の話

 京大農学部の並木道を出ると目の前に緑濃い山がそびえている。山といっても高さは海抜105メートル。今出川通よりまだ50~60メートル高さがある。神楽岡ともいい、東山三十六峰にも数えられる。京都は三方を山に囲まれた盆地だが、その盆地の中にいくつかの小高い丘がある。船岡山、双ヶ丘ならびがおか、そして吉田山など。
 吉田山は、三高の寮歌「紅もゆる」にも出てくる山である。道を上っていくとその歌碑があった。なかにいくつかの神社があり、茂庵もあんという喫茶店がある。かなり面白い建築で、谷川茂次郎という茶人が設計し、そのお身内が経営し、ランチも食べられる。ラタトゥイユうどんが美味しかった。窓から京都の街を見下ろして食べるのは楽しい。

高田宏さんからの電話

 夕暮れ時にここでカンパリソーダを飲んでいたら、おや、見覚えのある男性が入ってきた。綺麗な着物姿の女性に案内されて、TV撮影のようである。椎名桔平という俳優だった。
 定宿に近いので、時々登山をする。ちょうど散歩している時に高田宏さんから携帯電話に着信したことがあった。高田さんとは毎日新聞の書評委員会が一緒で仲良くなり、その後、小諸の藤村文学賞の選考委員を数年ご一緒した。京都大学の仏文科を出た後、就職口がなく、上京して『女性自身』のライターをしていて、鰐淵わにぶち晴子を膝に乗せてロケをしたことがあるとか。伊勢湾台風の後の被害を取材に濃尾のうび平野をうろうろしたこととか。「あれは凄惨だった。死体から指輪なんて切って持っていく奴がいてね」と聞いた。
 今吉田山にいますよ、というと、「そうかあ、いいなあ。懐かしいところです」と声が返ってきた。「学生時代、高橋和巳と飲んでいて、高橋は眼鏡を鴨川に落とし、川に入って探したこともあった」とも聞いた。奥様が入院中だということで、「何か手伝えることがあったらここに電話ください」とハガキに携帯番号を書いておいたので、着信したのだが、それが最初で最後の電話だった。
 高田さんはその後、間もなく肺がんで亡くなられた。一度、平安女学院大学の学長になったことがある。「梅原猛から電話がかかってきて、否も応もなく頼まれたんだよ」と言ってらしたが、北陸大聖寺だいしょうじで育った高田さんは「深田久弥きゅうや山の文化館」「石川県九谷焼美術館」などの館長も務められた。温和で寛容で明るい、得難い人材だった。

吉田山荘とキーン先生

 吉田山荘という由緒ある旅館がある。元は東伏見宮の別邸として昭和7(1932)年に立てられた。明治になってできた宮家で、当主の東伏見宮依仁親王は海軍軍人で、大将まで務めたが、大正11(1922)年になくなっているので、この別邸を建てたのはその養子の東伏見慈洽ひがしふしみじごうであろう。彼は昭和天皇の香淳皇后の弟にあたり、京都帝国大学出身で、ピアニストでもあり、青蓮院しょうれんいん門跡もんぜきを務め、103歳まで生きた。戦後、宮家の消滅とともに、料理旅館として再生、いくつかの建物が国の登録有形文化財になっており、門は西岡常一棟梁の京都における唯一の作品だという。その一角にカフェ真古館があってとても静かだ。
 たまたま京都造形芸術大学(現、京都芸術大学)の講演会で平井史朗さんという方に会って、そのうちゆっくりお話をしましょうといって、ここでコーヒーとチョコレートケーキで3時間半もおしゃべりした。

「ここはドナルド・キーン先生が京都での定宿にしておられたところです。」

 私より二つ年下で、五条烏丸でお母さんが美容院を経営。父を早く亡くし、19歳で渡米。アメリカでは苦学して31歳までいたという。その後日本に帰り、キーン先生の秘書をしていた。たくさんお話を聞いたが、又聞きは控えよう。平井さんが実際に経験されたことを、もったいないから書き留めておきたい。 

「一時はビートルズに憧れましたが、イギリスの歌手は気取っている気がして。京都に生まれたので、歴史の浅いところに行ってみたかった。
 最初にキーン先生に出会ったのは今から20年以上前かな。先生は70歳くらいでしたか。仕事を手伝ってくれといわれ、給料こそ出なかったが、生活費と住居費はキーン先生もちで、あれこれ仕事の手伝いをし、翻訳をしたりした。その翻訳料はいただけました。」

キーンさんと一緒に、世界中を旅したという。

「アメリカの大学には定年がありません。ニューヨークではコロンビア大学がハドソン川を望む素晴らしいスイートを用意してくれた。あそこに比べれば東京の西ヶ原の先生のマンションは庶民的なものだが、キーンさんは窓から望む古河邸の景色が好きだったんです。」

3・11の東北の震災後に日本に帰化されて鬼怒鳴戸キーンドナルドと名乗られましたね。

「前に日本永住権を取った時は、外務省に知り合いがいて電話一本でOKだったので、それで済むかと考えていました。しかし国籍を取って帰化するのは大変でした。実際には親の結婚証明書、離婚証明書、妹の死亡証明書などまでたくさんの書類をアメリカから取り寄せなければならず、閉口しました。役人は一貫して上から目線だった。」

さぞかしいろんな方とお会いになったんでしょうね。

「キーンさんのパーティーには、安部公房、庄司薫と中村紘子夫妻、有吉佐和子が来た。頭の回転の早い有吉さんと安部公房の掛け合いのとんち教室が楽しみだった。

キーンさんが知っているのは谷崎からで、川端、三島の文章は綺麗だと。太宰治もキーンさんが訳していますが、筆が進むと言ってました。なぜなら太宰はキーンさんと真逆なので精神的な距離が取れるからだと。何気ないエッセイにもいいものがたくさんあるとも言っていた。」

 「キーン先生をいつか森さんに会わせたいなあ」と言ってくださったが、実現しないうちにキーン先生は亡くなられた。

吉田山に借りた家

 農学部近くに借りている家にはお風呂がない、というと、京都の友人が、吉田山の中腹に家を持っている人から貸してもらえるよう、手配してくれた。近くの私立学校の要職にあった方が、郊外の家まで帰れないときに使っていたというステキな古民家。しかし前の坂が急すぎ、自転車で降りるけど上がれない。
 500メートルくらいしか違わないが、京大農学部前に滞在するのと、吉田山の中腹に滞在するのとではまったく生活圏が違う。吉田山の周りにはあまり食べるところがない。銭湯は一軒。しかし散歩すると、吉田神社の鳥居前に古いお医者さんの建物があったり、造園家重森三玲の屋敷が公開されていたりする(重森三玲庭園美術館)。見学は予約制だが、なかなか見ごたえがあった。ついでに言うと、日中戦争開戦時の総理大臣で、敗戦直後に自決した近衛文麿は京都大学の出身で学生時代、この辺りに下宿していたようだ。
 ある時、一乗寺に住む、私の婿のいとこという女性からメールが来て、一度会いましょう、ということになり、疏水べりの「サンエイドエイスケ」という、おばんざいのお店で会った。その人はフラメンコの衣装を縫いながら、京都大学の工学部を出たのに司法試験をやっていた年下の恋人を支えたらしい。爽快な人だった。そのあと「この前、オートバイで吉田山を通りかかったら、森さんと思しき人が自転車で降りてくるのを見かけましたが、必死の形相に声をかけそこないました」とメールが来た。私はさすがにここに滞在するのは難しいと感じた。お借りした家の2階からは京都市内がよく見えて素晴らしかったが。
 時々、気分を変えたくなると吉田山方面に行く。本屋のホホホ座浄土寺店、おにぎり屋「青おにぎり」 、洋館カフェ「ゴスペル」。この辺の疏水べりのアパートを見にきたこともあった。しかし前に会った婿のいとこのノブコさんは、「私も独身時代、長いこと疏水べりにいたけど、桜のときなんか、観光客で外に出られないからやめたほうがいい」という。疏水の一本南の道に「おめん」という観光客もよくくるうどん屋があるが、有名店のわりに値段はリーズナブルだ。ここも「吉田山荘」のお身内がやっていると聞いた。
 ほかにも吉田山界隈には、学生運動時代の京都府学連委員長のやっていた「白樺」というバーがあり、その当人は亡くなったのだが、その身内とか友人が週末だけバーを開くことがあると聞いた。いつか行ってみたいと思いつつ、果たせないでいる。

大文字を見る 

 私は2017年の五山の送り火をこの吉田山の中腹の古い家の2階から眺めることができた。これは茂庵を作った谷川茂次郎が吉田山の山腹に立てた借家の一つであるが、立ち退きが迫っているのだという。
 谷川は大阪で、貨物の積み下ろしに従事する沖仲仕おきなかしから身を起こし、新聞用紙の運送で財を成した。百万遍に本宅があり、大原に別荘があったが、最後はお茶と念仏踊りの世界だけに特化して、この吉田山にいくつかのお茶室と銅板葺の高級借家群を立てた。
 私を呼んでくれた人は、気功仲間の友人でとっても面白い人だ。本人は庭師だが、元ヒッピー、おじいさんは表具師だが、美術商も兼ねていて、葬式には堂本印象と福田平八郎が来てくれたという。なんだか京都にしかいそうにない人だ。 

「大文字がいつ始まったのはわからない。弘法大師の発案という説もあり、応仁の乱で犠牲になった人を悼むという説もある。戦時中は燃料が使えないので、白い着物を着た人がみんな並んで白大文字をやったこともある。」

 東向きの窓だから大の字しか見えないが、それはなんともいえない風情のある風景だった。8時ちょうどに如意ヶ嶽に大の字が点火され、その後5分おきに松ヶ崎西山東山に妙と法、西賀茂の船山に舟形、北山に左大文字、嵯峨鳥居本の曼荼羅山に鳥居形とついていく。テレビで見たのと違い、真っ赤な火だ。修験者が祈祷するらしい。永観堂の鐘の音が聞こえ、一時間くらいするとだんだん火の勢いが弱まってきた。目の前には他家の屋根さえ見えず、大文字山と自分が一体になったような感じで、しばし都会にいるのを忘れた。あの景色を一生忘れないだろう。

中村達雄さんと飲む

 私の主治医の津田篤太郎さんが京都に見えるさい、「森さんに会いたいという人がいるのですが」という。京都大学医学部で胸部外科が専門の中村達雄さん。先斗町の古民家の居酒屋で飲んだ。

「僕はもともと東京で、大学から京都に来ました。森さんの『彰義隊遺聞』(新潮社)を読んだんです。というのも、僕の先祖は青木孫次郎という三河以来の大身の旗本で、上野戦争の当日、吉原から上野に乗り込んだと祖母に聞きました。武鑑で調べたら、5000石で、麻布ニノ橋に屋敷があり、その近くの金蔵寺に代々のお墓もあったらしい。しかしその寺は関東大震災で焼けて、過去帳も残っていません。
 彰義隊士に二人の娘があり、その一人が熊本の中村家に嫁いで生まれたのが祖父で、彼は熊本の五高で、夏目漱石に英語を習ったそうです。」 

 中村さんは「目と歯だけはいい」そうで、本を読むのが無常の楽しみ、住んでいるのは神楽岡。

「さぞかし、おうちから大文字が綺麗に見えるのでしょう」と聞いたら、「とんでもない。あれは亡者が天に帰っていくのを送る火ですから、怖くて一日家に閉じこもっています」。見えないものが見える人なのかもしれない。

京都の人のつぶやき

 吉田山荘で夕食を頂いたことがある。当時、フランス語教室に通っていて、その生徒さんに吉田山荘のお嬢さんがいらっしゃったことから、年に一度の親睦会がそこで行われたのである。カフェ真古館でコーヒーと焼き菓子がふるまわれたあと、本館に移動。女将さんがお部屋の案内をしてくださった。そして、上品なお料理を楽しみながらのおしゃべり。生徒さんにバイオリニストとシャンソン歌手がいて、お二人の演奏と歌を堪能。優雅としかいいようのない夜のひとときだった。今思えば、破格の値段でお料理を出してくださっていたのだと思う。長らく「マドモアゼル」と呼ばれていた私はひょんなことから「マダム」になり、ほどなく「ママン」ともなったため、外国語学習に時間を割くのは不可能になり、教室はやめてしまった。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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