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京都不案内

磯田多佳と茶屋大友のこと

 前回取り上げた「かにかくに碑」の建っている場所には、もともと「大友だいとも」という有名な祇園のお茶屋があった。妓楼である。その建物は戦争中の建物疎開で壊されたらしい。大友の女主人を磯田多佳たかといい、教養人で尾崎紅葉、浅井忠、夏目漱石、谷崎潤一郎、吉井勇とも親交があったという。
 そういえば、私の京都の定宿から北西に自転車を走らせると、京都工芸繊維大学という国立大学があり、そこの松隈洋さんの建築史の授業をたまに潜りで聞きに行く。松隈さんは大学内にある美術工芸資料館の仕事も多く、それも見せていただいた。1階には大学ゆかりの教授たちのコーナーもあって、そこに草創期の洋画家、浅井忠が正岡子規を描いた絵があった。「子規居士弄丹青図」という題で、根岸の子規の家の縁側と、その向こうに横たわる正岡子規を描いているが、そういえば、浅井忠も元は根岸にいて、子規と交友があった。

花の絵を我に残して山の井の浅井の君はスエズ行くらん

 浅井は佐倉藩士の子で、1856(安政3)年に銀座の木挽こびき町の藩邸で生まれる。維新の後、佐倉(現在の千葉県佐倉市)に帰り、城下町から将門という郊外に移住して家を建てた。出京して工部美術学校でイタリア人フォンタネージに油絵を学び、彼の帰国後、明治美術会の旗頭となった。しかし時期が悪く、その頃は岡倉天心とフェノロサが西洋画排斥に熱心であり、また華族ゆえに早い留学機会に恵まれ、フランスから帰国した黒田清輝が白馬会を率いて外光派と賞賛を浴びたのに比べ、浅井や小山正太郎らは旧派、ヤニ派と呼ばれ、劣勢にあった。
 浅井忠は日清戦争に従軍した頃、陸羯南くがかつなんの紹介で正岡子規に会う。その頃は上根岸に住んでいた。浅井は中村不折ふせつを子規に引き合わせ、彼によって子規は写生論を確立し、洋画に目を見開かされる。浅井はようやく東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授になったが、派閥や政治の嫌いな浅井にとっては居心地が悪かった。
 1900(明治33)年にフランスに留学。帰国後は東京ではなく、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の教授となり、京都に住んだ。洋行の帰りに買い求めた図案のポスターも今、大学の美術工芸資料館のコレクションとなっている。浅井は洋画だけでなく、日本画や図案にも興味をもち、国立学校の教授をしながら、聖護院洋画研究所を創立して民間でも教えた。

 磯田多佳はこの浅井に絵を習っている。1879(明治12)年生まれで、6歳の頃より三代目井上八千代(片山春子)に踊りを習い、10代から祇園で芸妓として出た後、23歳で母の実家「大友」を継いだ。芸者としては踊る立方たちかたではなく、三味線を弾く地方じかたを務めたが、声は良かった。ひとまわりほど年上の姉は一力茶屋の女将さだである。一度は青年実業家に落籍されたが、相手はほどなく亡くなり、祇園に舞い戻った多佳は1903(明治36)年ごろ、京都高等工芸学校の開校に合わせて京都に来た浅井に出会った。
 浅井は磯田多佳の一中節いっちゅうぶし河東節かとうぶしを聞きたがった。一方、多佳はこの洒脱でやさしい芸術家に惹かれた。浅井忠は、芸妓、踊り子、女中に大変モテたと伝わる。もともと浅井は酒も飲まず、色ごとにも関心がなかったので、多佳とも心を許した友同士が感興をともにしただけであろう。浅井は彼女に、「私が作る陶器を売る店をやらないか」と持ちかけ、多佳はこれに応じて九雲堂という陶器店を大友の近くに開きさえした。これは浅井がヨーロッパで、アーティストたちが自分の作品を売る店を持っていたことに刺激されたものである。開店から3ヶ月後、浅井忠は痔疾からリュウマチ、心臓病を併発し、1907(明治40)年12月16日に51歳で没する。多佳は落胆したが、それからも上田敏や湯浅半月、厨川白村くりやがわはくそん、横山大観とも、会合や席画の風流を楽しんでいる。
 まだ多佳は30歳、芸妓を勤めてもいい年だが、化粧もせず、縞の地味な着物を着て、白川に張り出した3畳間で、三味線を弾いたり、和歌を作ったりして自由に生きていた。

 さて、漱石である。彼は生涯に4回、京都に遊んだ。
 最初は、第9回で述べたように、帝国大学文科大学2年生の夏休み、子規と一緒で、7月7日から10日まで、泊まったのは柊屋。その後、岡山から子規のいる松山を訪ね、また帰りにも京都に寄っている。
 2回目は明治40年3月。その前年、京都帝国大学文科大学学長、狩野亨吉こうきちに英文科教師として招かれた。この時、漱石は千駄木にいて、「前後左右の耄碌もうろくどもと戦う」という決意をしていた。それで「僕も京都に行きたい。行きたいが是は大学の先生になって行きたいのではない。遊びに行きたいのである」と教職を断っている。幸田露伴も確か、一年くらい、京都大学で教えたことがあったが、この人も大学にいるより、在野の自由な身分を好んだ。
 それで念願叶って、翌年3月の終わりに京都へ行ったのだが、その時は寒さで震えた。狩野亨吉の家は、京大に近い下鴨にあったが、今のように地下鉄やバスもなく、七条にあった京都駅から人力車で延々北上したようなので、さぞ寒かっただろう。この時、漱石は40歳。しかし狩野も菅虎雄もよく15日近くアテンドしたものと思う。4月10日までの間に、詩仙堂、銀閣寺、真如堂、金戒光明寺、永観堂、南禅寺、平安神宮、相国寺、京都御所、建仁寺、北野天満宮、金閣寺、大徳寺、上賀茂神社などなど、体調不良なのに京都中の神社仏閣、そして博物館を見て歩いている。間に大阪や奈良にも中抜けして遊んだ。
 この中で面白いのは4月7日に、頼山陽の山紫水明処さんしすいめいしょを訪ねている。前回書いたように、吉井勇も歌に詠んだ場所だ。ここは鴨川べりの神宮丸太町の近くで、申し込みをすれば見せてもらえるらしい。近くには三本木という花街があった。木戸孝允を訪ねた芸者幾松がいたのはここである。陸奥宗光夫人亮子と並んで、幾松の美しさが称えられるが、二人とも芸者であった。
 4月10日には、高浜虚子が奈良に行く途中に寄って、三条小橋の西にあった万屋(萬家という説も)に泊まったので、一緒に行って入浴している。三条小橋は「サンコバ」の名で今も親しまれているが、もう万屋はない。この近くには坂本龍馬がいたところもあれば、新選組が勤皇の志士たちを襲った池田屋跡が居酒屋「池田屋 はなの舞」になっていたりする。夕食の後、漱石たちは祇園甲部歌舞練場に行って都をどりを見た。これは1872(明治5年)の京都博覧会の余興として一力茶屋の主人が井上八千代とともに作り上げたものという。
 この夜、一力で、漱石は千賀菊と玉喜久という13歳の舞妓と雑魚寝した。絶対手を出さないという決まりだから、何事もなかったと思われる。
 この時、浅井忠はまだ京都にいたはずで、漱石は彼に会わなかったのだろうか。浅井を漱石に紹介したのは子規であり、1905〜1906(明治38~39)年ごろ、浅井は漱石の『吾輩は猫である』に中村不折とともに、挿絵をつけている。

 さて、漱石の3回目の訪問。1909(明治42)年10月半ば、友人の中村是公よしことに誘われた漱石は満州に行き、帰りに京都で紅葉を見ようと立ち寄った。この時、前回、虚子が泊まった三条小橋の万屋に泊まったが、あまり待遇が良くないので、機嫌を損ねて早々に東京に帰っている。
 ところでこの万屋、磯田多佳のパトロンとも愛人とも言われる岡本橘仙きつせんという風流人はここの息子なのである。久保田米遷べいせんに絵を習い、京都で青年画家たちの雑誌を出したようだが、これは3号で終わった。10ほども年上の岡本との関係も、旦那と妾のように噂するものがあったが、多佳は一切気にかけなかった。

 1915(大正4)年3月、最後の訪問では、漱石は1ヶ月ほども京都にいた。神経衰弱にかかったのを心配し、鏡子夫人が京都在住の画家、津田青楓に、夫の転地保養を依頼したのらしい。その時は木屋町三条上ルにあった北大嘉きたのだいかという宿に泊まった。3月20日、夕食に磯田多佳を呼び、11時まで話している。漱石が「才力ともに語るにたる女」と感じたのであろう。3月22日にも、寂しいので、遊びに来てくれと磯田多佳を呼び出し、鴨ロースや鯛の子などをいそいそと注文して、多佳を待った。一方、漱石ほどの国民的作家になれば、会いたい人は京都にも多かったのであろう。大阪の実業家、加賀正太郎が会いたがっていると、磯田多佳は間を取りもった。これは漱石にとっては喜ばしいことだったのかどうかわからない。
 翌々日、漱石は磯田多佳と北野天満宮に梅を見に行く約束をしたつもりで、電話をかけたら、他のお客と前日から遠出をしていた。茶屋の女将が客商売なのは当然である。しかし、漱石は女友達にすっぽかされたような気がして気分を害し、一人で人力車に乗り京都帝室博物館(現在の京都国立博物館)、伏見稲荷まで行ってみたものの、帰りに洋食を食べて腹具合が悪くなる。
 もう、東京へ帰る、と駄々をこねたが、多佳がとりなして、東京の鏡子夫人を電報で呼び、しばらく京都で静養することになる。この時も、駆けつけた鏡子が芝居見物に行こうとすると、「お前は何しに来たんだ」と漱石は激怒している。しかし鏡子にしてみれば、夫は勝手に満州だの京都だので遊んでいるが、子持ちの妻にすれば京都に行けるなんて滅多にないチャンスだからと東山や銀閣寺を見物している。漱石には妻があり、磯田多佳にも愛人のような人がいて、この二人は恋愛関係ではないが、漱石が多佳に、特別の愛着を持っていたのは確かなようだ。
 まだゴタゴタがあって、帰京した漱石に多佳が約束した『硝子戸の中』がまだ送られてこない、という手紙を送ると、漱石は「お前は僕を北野の天神様へ連れて行くといって、その日、断りなしに宇治へ遊びに行ってしまったじゃないか」と蒸し返している。こういうあたり、漱石は幼児のようでもあり、神経衰弱が高じていたのかもしれない。親切で話の面白い人、と見込んだ「おたかさん」が、やっぱり表も裏もある玄人だと思って幻滅したのかもしれない。
 京都生まれの水川隆夫氏は『漱石の京都』(平凡社、2001年)の中で、漱石の方は約束したと思い込み、多佳の方は「ほな、行けたら行きましょうなあ」くらいのつもりではなかったのかと言っている。竹を割ったようなのが身上の江戸っ子漱石と、何事もはんなりと、本音を言わずにことを収める京女、磯田多佳にはカルチャーギャップがあったのではないか。

 夏目漱石は京都を訪ねた翌1916(大正5)年の暮れに亡くなった。磯田多佳はさらに30年以上長生きして、1945(昭和20)年の5月15日、戦争中に66歳で亡くなった。戦争が済んで翌年の5月、多佳を偲ぶ追善法要が行われ、そこには谷崎潤一郎夫妻も出席した模様である。
 谷崎は1912(明治45)年に初めて磯田多佳と会った。川べりの大友の風流な造り、暗い廊下に香る伽羅きゃらの香などに吸引されたこともあるだろう。日本橋生まれの青年谷崎が、上方文化に魅了されるきっかけで、大正の震災後には江戸情緒の失われた東京を捨てて、関西に移り住む。考えてみれば、芝生まれの吉井勇の「枕のしたを水のながるる」という歌も、この磯田多佳の水上の三畳間を詠んだものらしい。
 もう一人、麹町生まれの長田幹彦ながたみきひこも磯田多佳に親しみ、「祇園」「鴨川情話」などを書いた。このように東男たちが、京都で同じ女性のもとに草鞋を脱いだのはなかなか面白い。多くが磯田多佳の、叡智に輝く黒い瞳に言及している。男に色を売って生きていく祇園の中で、一人磯田多佳は色は売らない、知と真情で勝負しよう、と思ったのではないか。

*以上、水川隆夫『漱石の京都』(平凡社、2001年)、杉田博明『祇園の女——文芸芸妓磯田多佳』(中公文庫、2001年)を参考にした。

京都の人のつぶやき

 磯田多佳と夏目漱石の行き違いのきっかけとなった北野天満宮は言わずと知れた菅原道真公を祀る学問の神様。受験シーズンが近くなると合格祈願の絵馬がたくさん掛かる。修学旅行生向けの祈祷プランもあるようだ。境内には牛の像がいくつもあり、丑年の今年はさぞ参拝客が多かろうと、この正月は天神さんに行かなかった。例年は、家から歩いて詣でている。西陣織が盛んだったころ大層栄えたという上七軒を通っていくと東門に至る。正月は境内に長五郎餅が茶店を出していて、長五郎餅と煎茶のセットが400円で頂ける。これがふんわりとしてとてもおいしい。本殿は非常に混雑しているので並ぶのは諦め、脇から賽銭をえいやと投げ、隅っこで手を合わせている。
 梅園も有名だが入ったことはない。いつでも行けると思うと、なかなか有料のゾーンには足が向かわないものである。第3回で紹介されていた史跡「御土居」も含めて、季節が良くなったら行ってみようかと思う。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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