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日本の「空気」――ウスビ・サコのコミュニケーション論

「空気を読む」を読む【後編】

前編では、日本の「空気」と「空間」や、不便を愛する日本について語りました。後編では、いよいよ「空気」とは何か、に迫っていきましょう。 

《前編の内容》

アイデンティティ・クライシス

ひきこもる「空気」

「空気」と「空間」

「体験」と「経験」のハーモニー

勇気ある日本の不便

《後編の内容》

日本庭園のからくり

八百万やおよろずの「間」

町内会のソクラテス

日本の空調管理

ダイバーシティは足元から

共生社会のメッセンジャーズ

「なんでやねん」という哲学 

 

 ▶【前編】は、こちらからお読みいただけます 

 

日本庭園のからくり

日本には、手間のかかる文化がたくさんありますが、その代表例が日本庭園でしょう。

日本庭園は、自然をミニマライズしてつくり出す人工空間です。かつて授業として、作庭家の小川勝章さん(「植治」次期12代)と、京都の庭を、数年にわたってめぐったことがありました。

彼は、庭が「純粋な自然」ではなく、「人工的な自然」であることを教えてくれました。どれだけ自然をとり入れても、どこまでも人工空間なのです。そして、その自然と人工との調和を保つために、自然への果てしない理解と尽きせぬリスペクトが求められます。

また庭は、一度つくったら終わり、というわけにはいきません。絶えず環境の影響を受け続けるため、気の遠くなるメンテナンスが欠かせません。また、どんな客であっても何らかの気づきや楽しみを見いだせるよう、慎ましい工夫が随所に施されています。

そういった手間や気づかいによって洗練された庭は、自然も、人間も、すんなりと入っていける居場所となります。うっとうしいライティングや、ごてごてしたデコレーションは必要ありません。一見、何も施されていないように見えたとしても、奥ゆかしい仕掛けにあふれているのです。

その仕掛けの慎ましさや奥ゆかしさこそ、本来の「空気」の正体でしょう。庭を見ていると、空気を醸し出すために、きめ細やかな配慮と徹底した努力が重ねられていることを実感します。

前編で紹介した文化人類学者のエドワード・ホールも、日本庭園に施された仕掛けに注目しています。彼は、日本の「間」という概念を分析するなかで、それが庭に集約されていると指摘しました。庭は、全身の感覚をフル動員させて、におい、温度、湿度、光、影、色などを感じとらせる空間なのだといいます。 

 ルネッサンスとバロックの画家の単一 シングル・ポイント 遠近法に対して、日本の庭は多くの視点から眺められるように設計してある。設計者は庭の鑑賞者をあちらこちらに立止まらせる。たとえば池の真中の石に足場を与えて、丁度よい瞬間に目をあげて思いがけない見通しを見つけるようにするのである。

(エドワード・ホール『かくれた次元』みすず書房、1970年)

 

庭は、人を導いて、何かを自力で発見させる文化装置です。あくまで、そのきっかけをあたえてくれるにすぎません。

「奥ゆかしい」とは、「奥に行きたい」、つまり、「奥に行ってまで知りたい」という好奇心を芽生えさせる状態を指す言葉です。「空気」をまとった日本の文化は、「知りたい」という衝動を人工的につくり出す仕掛けにあふれています。日本はまさに、「経験」のきっかけに満ちた宝庫なのです。

八百万 やおよろず の「間」

そういった仕掛けは、「間」によって成り立っています。

西洋の空間では、作者や所有者の個性を、いかに完璧なかたちで表現するかがめざされているふしがあります。客に見せたい最高の瞬間を演出するために、変化は好まず、ときには外部空間から遮断します。プリセットしたものを、意図どおりに客に感じさせるインスタレーション(据え付けの設備)なのです。

一方、日本の空間には、作者・所有者の個性や意図を隠す美学があるようです。「間」は、あくまで裏方としてのチューナー(調律装置)にすぎません。むしろ、客のほうが主役となって自分を投影できたり、偶然に入ってくる自然現象が活かされたりすることが好まれます。

建築家の磯崎新は、「間」が、「空間」と「時間」とが未分化状態の概念であることを指摘しています。近代になってこのふたつの西欧的概念が輸入されたとき、エンプティネス +間=空間 スペース クロノス +間=時間 タイム 、と翻訳されたのだそうです(『建築における「日本的なもの」』新潮社、2003年)。

「間」について外国人に説明しようとしても、難航します。「間」は、不要な余白だと思われてしまうのです。しかし、日本人はその「余白」にこそ、意味や風情を見いだします。例えば、ちょっとしたすき間から光が差し込んできたり、雨音が響いたり、風が通り抜けたりすることが、空間を豊かにします。落語や能でも、時間的な「間」が想像をかき立てる余地となり、笑いや涙を誘います。

また、磯崎新は「間」とはサンスクリット語の経典にあるギャップ、つまり、事物に内在している根源的な差異であり、じつは、日本語によっても説明できていない、ともいっています(前掲書)。

「間」が生み出す場は、図面や数値にしたり、要素に還元したりできるものではありません。それは、空間や時間、人、物、文化、自然など、森羅万象が調和したスペクトラム(連続体)なのです。「間」は、精神と身体、抽象と具体、自と他、あるいは、ハイコンテクストとローコンテクストといった、差異をつなぐメディア(媒介)なのです。

「間」は、コミュニケーションを生む磁気を帯びています。それ自体は主役ではなく、目に見えません。だからこそ、誰もが誘い込まれる憩いの場が生み出されるのです。一見、無色透明でありながらも、人びとがそれぞれの色を反映できる文化を、日本は古くから育んできました。

「花見」も、自然のサイクルを利用しながら交流を生み出す場として考えると、「間」の文化の一種といえるでしょう(第6回 日本の暮らしと季節感)。また、日本社会のなかであらゆる宗教が混然一体となっているのも、「無宗教」という文化が、「間」と同じ性質をもっているからではないでしょうか(第3回 「無宗教」という宗教)。

まるで日本の神々がそこら中にあふれているかのように、「間」は、日本のいたるところに施されてきました。私は、こういった包容力をもつ「間」の文化に、ひとつの社会モデルとなる可能性を感じています。

町内会のソクラテス

「賑やかでよろしいね」というご近所の方の言葉に気をよくし、引き続き自宅でパーティーをくりかえしていたら、警察に通報されてしまったことがありました(第1回 「空気を読む」)。

その方は、私に言葉の裏の意味が伝わっていると思ったのでしょう。日本のコミュニケーション・スタイルを理解していなかった私に非があることは、間違いありません。当時の私には、あまりにも経験が足りていませんでした。

そんな私ですが、その後、町内会の組長を務めるチャンスをいただいたことがあります。町内会費を徴収したり、祭りの運営に参加したり、クレーム対応をしたりと、それなりに負担の大きい仕事です。とくに、当時の私たちの組には、外国人など、さまざまなバックグランドをもつ方々がいましたので、調整が大変なこともありました。

町内会の自治は、対話のチャンスに満ちていました。祭りなどは、コミュニケーションなくして実施できません。特別なイベントだけではありません。組長をしていると、「あの家の犬の鳴き声、どうにかしてくださいよ!」などと、ありとあらゆる不満が寄せられます。

「空気」の読めなさを自覚していた私は、ソクラテスのようにダイアローグ(対話)を心がけました。

古代ギリシアの哲学者・ソクラテスは、徹底的に対話を重視した人です。彼は、知らない人だろうと誰かれかまわず議論をふっかけ、その場でしか生まれないコミュニケーションによって、理解を深めようとしました。私は、「空気」を読めるようになるには、対話のなかで経験を積むしかないと考えたのです。

私は日々、近所の声を聴き続け、疑問が出てきたら何度でも質問をくりかえし、一緒に考えました。また、気軽に話してもらえるよう、オープンであろうと努めました。もちろん、摩擦が起きることもありましたが、それを解消する術は、さらなる対話以外にありませんでした。

数年後、すでに組長の仕事も別の人にバトンタッチしたころに、家族と一緒に外国から来て、一時滞在されていた方から感謝されました。彼は当初、「町内会費なんか払って、私になんのメリットがあるんですか!?」と反発していました。

しかし、一旦自分の国に戻って、日本の町内会のつながりのありがたさを遠くから噛みしめたのだそうです。仕事の都合でふたたび数年間、日本で生活をすることになり、わざわざ感謝の気持ちを伝えにきてくれました。その後は、地域コミュニティを積極的に活用し、区役所が支援するコミュニティ・カフェなどにも参加していたようです。

日本の空調管理

対話は、相手のことを知らなければ知らないほど、効果的です。

知らない人との出会いは、無限の問いを生みだします。知らないからこそ、次々と疑問がわき、対話が生まれ、理解が深まり、知識も増えます。「知らへん」といって避けるのではなく、だからこそ、そこに見どころを探していく姿勢が、コミュニティを豊かにするのです。

コミュニケーションは、自然発生するものではありません。意志と努力で、人為的につくりあげるものです。このめんどうな営みをとおしてしか、私たちは共生できません。

「空気」は、換気しなければ、よどみます。「空気」は、凝り固まったルールでも、一方的な圧力でもありません。わかり合うために、お互いに寄りそって分かち合う、共生の知恵です。そして、コミュニケーションのたびにメタモルフォーゼ(変化)する、無常な居場所なのです。

ダイバーシティは足元から

日本人のみなさんが、もしも、外国人に手を差しのべたいと思ってくださるのなら、お願いがあります。

それは、足元の文化と、身近な異文化を見つめてほしい、というものです。

もしかすると、お茶の世界には、閉鎖的なイメージがあるかもしれません。しかし、裏千家の千玄室さん(第15代・千宗室)は、まさにあの「グローバル人材」(最終回【前編】 アイデンティティ・クライシス)と呼ぶべき人です。

彼は大正生まれで、若いころにハワイに留学していた経験があるそうです。それもあってか、これまで世界各国を飛び回り、精力的に活動してこられました。例えば、「茶道留学制度」を設けて何十か国もの国々から修道生を受け入れたり、「裏千家インターナショナル・アソシエーション(UIA)」を設立して国際交流を促したりしてきました。

その彼が、「日本人が真の国際人になるには日本の文化を知らねばならない」ということを強調しています。

代々続く家元という、一見すると強固なモノフレームになりそうな環境にもかかわらず、玄室さんがマルチフレームを獲得できたのは、足元のベーシックフレームを深く見つめ続けたからでしょう。

自国の文化をしっかりと見定めたうえで、身のまわりにある異文化から理解していくことが、肝心です。さもなければ、社会学者のリチャード・セネットが指摘するように、自信のなさの裏がえしから、排他的になりかねません(最終回【前編】ひきこもる「空気」)。

玄室さんは以前、「日本のお茶は韓国がルーツ」と言っていました。自国の文化を極め、揺るがぬアイデンティティを確立したからこそ、他の文化を冷静に直視できるようになるのです。

必ずしも、一足飛びに留学する必要などありません。まずは足元の文化に目を凝らしてみると、じつは、たくさんの異文化がそばにあることに気がつくはずです。なぜなら、文化は、核を保ちつつも、常に時代の変化とともに異文化と溶け合ってきた、結晶だからです(第8回 妄想する観光地)。

共生社会のメッセンジャーズ

外国人に手を差しのべることができるのは、日本人だけではありません。

今や、たくさんの外国人がお茶の先生を担う時代です。お茶にかぎらず、武道でも、漫画でも、外国人の話を聞くなかで、「えっ? こっちより詳しいやん……!」という経験をしたことが、一度くらいはあるのではないでしょうか。さまざまな分野で、日本の文化継承・発信に外国人も貢献しているのです。

もはや、日本文化を伝えたり、伝えられたりするのに、日本人も外国人もありません。何も知らない外国人がやってきた場合は、日本で経験を積んだ外国人が間に立ったほうが、うまくいくことだってあるでしょう。

日本は今、壁のなかに閉じこもり、「空気」の読み合いに神経をすり減らすのか、扉を開いて新鮮な「空気」をとり入れ、共生社会を楽しむのか、という岐路に立っています。

「なんでやねん」という哲学

最近、私がイベントで「なんでやねん」と発言すると、「出たー!」「待ってました!」というリアクションをとられることが多くなりました。

――いや、待ってましたって、なんでやねん。

「なんでやねん」は、単なるギャグではありません。哲学なのです。

ツッコミを入れるためには、ある現象に対して疑問をもつ必要があります。そして、「問い」を立てるためには、現象の背景にある構造を分析しなければなりません。ツッコミとは、自分の頭で考える、クリエイティブな営みなのです。

私の「なんでやねん」を期待する人の背後には、一種のステレオタイプが潜んでいるのかもしれません。「外国人が日本を斬る」というパターンは、昔からよくメディアで用いられてきた手法です。

もちろん、外国人だからこそ語れることがあるのも事実でしょう。疑問や気づきを共有したり、提案したりすることは、私のひとつの使命だとも思っています。この連載も、その一環です。

しかし、それがエンターテインメントとして消費された途端、お決まりの型に陥ります。「なんでやねん」というフレーズだけがうわすべりし、もともとの「問い」は、笑いのなかに埋もれ、忘れ去られてしまうのです。

私の「なんでやねん」を待っている人がいるとしたら、伝えたいことがあります。

次は、あなたの番です。世界と未来は、待ち望んでいます。

 

  

 あなたから生まれる、「なんでやねん」を。

  

  

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著者略歴

  1. ウスビ サコ

    京都精華大学学長。
    マリ共和国で生まれ、中国の北京語言大学、東南大学を経て1991年に来日。京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士後期課程終了。博士(工学)。2001年より京都精華大学の教員。
    専門分野は建築計画(住宅計画、居住空間計画)。「空間人類学」をテーマに、学生とともに京都のまちを調査し、マリの集合居住のライフスタイルを探るなど、国や地域によって異なる環境やコミュニティと空間のリアルな関係を研究。暮らしの身近な視点から、多様な価値観を認めあう社会のありかたを提唱している。バンバラ語、英語、フランス語、中国語、関西弁が話せる。

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