世界思想社のwebマガジン

MENU

京都不案内

子規の京都

 正岡子規の評伝『子規の音』(新潮社)を私が上梓したのは2017年の4月である。あれから3年以上が過ぎ、新潮文庫に収まってしまった。この評伝は様々な書評をいただいたが、一番嬉しかったのは講談社の『子規全集』(1975~1978年)の編集者から、「こんなに全集を活用してくださってありがとう。今まで出た子規関連本で私の好きな4冊に入ります」と寒川鼠骨さむかわそこつ柴田宵曲しばたしょうきょくなどの本とともにあげてくださったことである。

 正岡子規は慶応3(1867)年の9月に愛媛の松山で生まれた。父は久松松平家の御馬廻加番おうままわりかばん(警備の補助をする職務)という下級武士であったが、子規が4歳の時に亡くなってしまう。
 子規は子供の頃から好奇心が強く、一つのことに熱中して飽きなかった。母方の祖父、儒者の大原観山がこの子に期待して、四書五経を教えた。漢文は河東碧梧桐かわひがしへきごとうの父、静渓せいけいに教わった。小学生の時から回覧雑誌を出し、折しもの自由民権の波に影響されて演説にも気を入れた。松山の大街道の寄席にも行った。そんなふうに、あらゆる文化を自分から積極的に吸収した。
 母方の叔父の加藤拓川たくせんの手引きで15歳で上京し、子規を見込んだ陸羯南くがかつなんの世話を受け、一年足らず勉強して、東京大学予備門(のちの第一高等中学校)に入学できた。それから34歳で結核に倒れるまでの子規のいちばんの楽しみは、食べることと旅をすることだった。なあんだ、私と同じじゃないか。
 森鷗外は10歳で上京してから一度も故郷津和野に帰っていないが、子規の方は、松山に母八重と妹の律を残してきたので、学校が夏休みになると故郷に帰った。その頃の夏休みは二ヶ月もあって、子規は東海道線を用いたり、時には中山道を通ったり、途中下車したりして、あちこち見て歩いた。

 子規が初めて京都に行ったのは、明治20(1887)年の夏かもしれない。まず松山に帰り、そこから東京に戻る際に京都で遊んだ。明治21年は帰省しなかったが、明治22年の冬には正月に帰省する際に京都に寄り、三十三間堂を見に行っている。
 三十三間堂を私は高校の時に訪ねたが、30年ほど経って、もう一度行ってみた。圧巻だった。国宝級の仏があれほどずらりと並んだ様子は見たことがない。その時は文化財修復の宇佐美松鶴堂の仏師に案内してもらったのだが、その50がらみの人は言った。「最初に修復に関わったのがこの仏様です。そして毎年、修復して、また最初の仏様を直す順番になりました」。これを聞いて私は気が遠くなった。一生を三十三間堂専属で文化財のメインテナンスに捧げておられるのである。

 興味深いのは、明治25(1892)年夏、親友、夏目漱石と一緒に京都に行ったことである。これについては漱石に「京に着ける夕」という随筆がある。
 江戸の草分け地主の末裔で、末っ子のため里子や養子に出されて親に可愛がられなかった漱石と、父亡き後の長男として母と妹に大事にされた子規とは境遇があまりに違う。漱石は、子規をある意味、傍若無人な田舎者と思ったかもしれないし、子規はこの都会育ちの友達が米を食いながら、早稲田田んぼに揺れる稲穂がなんの植物かわからないのに驚いている。でも、共に寄席好きなこともあって気は合った。これほど拮抗する知性の持ち主が親友になった例は珍しい。
 漱石は家族に肺結核が多かったので、子規が10代で最初に喀血した時も、看病したり、医者に容体を聞きに行ったりしている。さらに夏休みになるとすぐに帰省してなかなか帰らない子規のために、成績や試験の合否を知らせてもいる。

「始めて京都に来たのは十五、六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出た時、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。」

 ぜんざいは関西のもので、江戸っ子の漱石には珍しいものだった。しかし食べてはいない。店の赤い大提灯を見ただけだが、京都=ぜんざい、がインプットされた。これは明治40年の冬に京都を訪れた漱石が、数年前に亡くなった親友を偲ぶ文章になっている。

 それにしても、学生の二人が当時は柊屋に泊まれたのであろうか。俵屋、炭屋と並ぶ京都最高級の宿である柊屋に、若い子規や漱石が泊まったならば私も一度泊まってみたいと思ったが、宿代は今は高い時で9万円くらい。断念するほかはなかった。

「子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多いところを歩行いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。」

 夏蜜柑を食べながら、二人は狭い街に出る。漱石が「何だ」と聞くと、子規は「妓楼だ」と答える。両側の家々は門並(何とも江戸っ子漱石らしい言葉だが)一尺ばかりの穴を戸に開けて、中から女が「もしもし」と呼びかける。穴から手が出て制服を捕まえられたら大変だ、と漱石は一間幅、すなわち1.8メートルもない小路の真ん中あたりをそろそろと「不偏不党」に練っていく。この時、漱石は25歳だが、遊郭を知らなかった。「子規は笑っていた」というから、子規の方がよほど、世慣れていたのであろう。場所は円山のようだ。
 この時は多分冷やかしだ。そして二人は、夏の夜の月に浮かれて、清水堂のあたりも徘徊した。その後、「子規は血を嘔いて新聞屋となる。余は尻を端折って西国へ出奔する」。これは結核になって先行きが短いのを覚悟した子規が、大学に見切りをつけて日本新聞社に入社したこと、大学院を終えた漱石が28歳で旧制松山中学の教師になったことである。「物騒の極、子規はとうとう骨になった」と15年後、明治末の寒い京都、糺の森あたりの寺に滞在して子規を懐かしむ。 

 子規が4度目に京都を訪ねたのは、同じ明治25年の11月9日。この時も、柊屋に泊まっている。弟分の高浜虚子が京都の第三高等中学校(のちの第三高等学校)に入って聖護院あたりに下宿しているのを激励した。翌年には河東碧梧桐も同校に入学。しかしこの二人にはかわいそうな結末が待っていた。第三高等学校は大学への昇格を視野に入れ、本科・予科を廃止したため、在学生は離散する。そして、二人は仙台の第二高等学校に振り分けられたのだが、温暖な松山育ちの二人は、仙台の寒さに耐えかねた。さらに、東北弁がさっぱりわからなかった。それで揃って学業はやめてしまうのである。
 この時の京都で子規は、産寧坂に天田愚庵あまだぐあんを訪ねている。子規より一回り上の天田愚庵は幼名を久五郎といい、福島の磐城平いわきたいら藩の藩士の子。この藩も奥羽越列藩同盟に参加した負け組である。戊辰戦争のどさくさに、親きょうだいと生き別れになった。明治4(1871)年に単身上京、ニコライ神学校に入ったり、西南戦争に巻き込まれたり、清水次郎長に預けられたり、江崎礼二門下の写真師になったりした。これもみんな親きょうだいを探すためである。首尾を得ず、滴水てきすい禅師のもとで参禅し、産寧坂に愚庵なる庵を結んだ。山田風太郎さんは「行方不明の両親を探して全国行脚した天田愚庵のことを考えるとかわいそうで涙が出る」と私に言った。風太郎さん自身、早くに父母を亡くしているので、同情は深い。
 愚庵は司法省法学校にいたことがあり、その時、子規の叔父の加藤拓川、陸羯南と同期だった。子規が愚庵を訪ねたときの一句。

紅葉ちる和尚の留守のいろり哉

 その後、虚子とともに嵐山を訪ね、大悲閣まで川を遡った。
 私はここは知らなかったし、現地踏査をしなかった。『子規の音』が出た後、版元の新潮社の『週刊新潮』に「私の京都」というグラビアがあるので、気になって連れて行ってもらった。
 4週分を1回で取材するので、自分の得意の古い建築からウィリアム・メレル・ヴォーリズの駒井邸『暗い時代の人々』(亜紀書房)の中からフランソア喫茶室を、そして『子規の音』の中から子規の訪れた大悲閣と子規が天田愚庵のところへ土産に持っていった柚子味噌の店「八百三」を選び、2017年の6月に訪ねた。

 嵐山の渡月橋から船に乗って保津川を遡る。よくあることだが、明治の頃、大変、観光地として栄えたところも、今は閑散としている場合もある。平底船の遊覧船に乗ると、約1キロ。途中に、船を居酒屋にした店が見えた。風流なことである。また近くに星野リゾートができたためか、そこの迎えの黒い船が見えた。大悲閣は嵐山千光寺といい、黄檗宗の単立の寺である。船着場から石段を200段のぼる。これが大変、すでに肺結核を患っていた子規は息を切らせはしなかっただろうか。
 この寺はもともと13世紀の後嵯峨天皇の祈祷寺だったようで、そのころは嵯峨釈迦堂のあたりにあり、当時は鎌倉建長寺の末寺だった。その後一時衰微したが、江戸時代の慶長19(1614)年、角倉了以すみのくらりょういが、嵯峨の千光寺の千手観音を本尊として、嵐山上流の現在地に寺を建立した。知られるように、角倉了以は豪商にして貿易商でもあったが、一方土木事業家として大堰川の開削でも知られ、その時の犠牲者の菩提をとむらおうと、ここに移り住んだが、まもなく亡くなっている。またしても衰微した寺を、江戸時代の末期になって、黄檗宗の僧侶と角倉家の子孫が再興した。明治維新の後、廃寺になるところだったが、美術史家・岡倉天心が復興に協力したという。
 頂上のお堂からの眺めは絶景だった 

 八百三は姉小路通東洞院西にあり、享保12(1727)年から続く店。嵯峨の水尾の柚子を用い、精進料理に欠かせないゆず味噌を考案したのは初代の八幡屋三四郎という人。生麩の田楽、ふろふき大根、賀茂茄子の田楽などに合うが、中にはパンにジャムの代わりにつける人もいるそうな。きれいなゆずの形の陶器に入っていた。私はついでに東京ではあまり手に入らない赤味噌も買った。
 建物は幕末の文久年間に建てられた京町家で、入るとひんやりする。下は土間ではなく石畳だ。姉小路界隈は古い建物が多く残るところで、帰りがけにふと見たら、かつて漱石や子規の泊まった柊屋の女将さんが客を送って外に出てこられたところだった。

 さて子規はこの後、神戸に、母と妹を迎えに行き、京都に戻って東山、知恩院、高台寺、清水寺などを案内している。八重と律にとってはもちろん初めての京都であり、一回きりの体験であった。母娘にとっては、子規の病気の看病に入る前の心躍る体験ではなかったか。
 この時、子規は57円40銭もの旅費を使い、この豪遊は郷里の叔父大原恒徳を怒らせている。大原は、現在の伊予銀行につながる第五十二国立銀行の経営に関わった銀行家であり、子規の郷里における後ろ盾だが、この旅費は今でいえば、一万倍の57万円をはるかに超えるだろう。そして母と妹を東京に移転させた子規はいよいよ、陸羯南を社長とする日本新聞社に出社するが、その時の月給はたった15円であった。

京都の人のつぶやき

 松山よりは西のF市で育ち、京都の大学に進学した。新幹線で帰れば数時間、乗り換えもないのだが、そこはお金がなくて暇と体力はたっぷりある学生のこと、子規のようにいろいろなルートで帰省した。
 ある夏休みには青春18きっぷを使い、備前焼を見て倉敷に一泊、美術館を見て広島で一泊、また美術館を見て宮島に行った。そこでさすがに疲れてもう在来線に乗るのは嫌になったので、広島駅ビルでお好み焼きを食べて後は新幹線で帰った。そのときに買った安物の備前焼の一輪挿しは今でも持っている。
 子規の故郷、松山に寄ったこともある。夜行フェリーで大阪から松山へ、道後温泉に浸かり、子規記念博物館を見てまた夜行フェリーで九州に渡った。そのときは強行軍で松山城までは行けなかったのだが、数年前、別の用件があって再訪した。立派な石垣に感心しつつ登城し、城壁の鉄砲狭間から下を覗くと無防備な観光客のみなさんが丸見えで、成程これは狙い放題だなとまた感心した。それにしても松山はお城も温泉も文化もあって、ひともみな親切だった。四国にはお遍路さんへのお接待が根付いているせいか、こちらがびっくりするくらい親切なひとが多い。
 子規の頃は、神戸に家族を迎えに行ったことからすると神戸港まで船、後は東京まで汽車だったのだろうか。京都に頻繁に寄っていたのもうなずける。今では飛行機が松山羽田間に一日何便も飛んでおり、そんなルートをとる人も少ないだろう。暇と体力がなくなった私も、もはや空路でしか帰省しない。(編集担当Y)

 

バックナンバー

著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

閉じる