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おかあさんのミカターー変わる子育て、変わらないこころ

きょうだいを育てる――葛藤が鍛える絆

 現代の子育てで難しい課題の一つに、「きょうだいを育てる」ということがあります。大家族が当たり前だったかつての時代と異なり、自分自身が一人っ子だったり、きょうだいがいても歳が離れていたりすると、家族の中で複数の子どもを一緒にどう扱ったらよいか、自分の育った経験からはなかなか掴めないことが多いからです。私自身も核家族の一人っ子でしたから、娘二人の子育てはとても新鮮で、教えられたことはとてもたくさんありました。

 

 まず、よかったこと(助かったこと)を挙げてみましょう。

 私がきょうだいを育ててみて実感したのは、何より、同じ親が、毎日同じリズムで、同じご飯を食べさせ、同じしつけをしても、こんなに違った風に成長するのだということでした。好き嫌いが激しい、片付けが下手、落ち着きがないなど、わが子に困った兆候が現れると、母親というものは自分の育て方が悪かったのかと自責の念に駆られたり、実際に身近な誰かからそう責められて落ち込んだりしがちです。私も例に漏れずで、長女のときは育て方の問題にとどまらず、「(お産のときの)いきみ方がまずかったから?」「お腹の中にいるときに階段で転んだせい?」と、どんどん遡って不安を膨らませていました。ところが、次女が成長してきょうだい二人の全く違う個性がはっきり顕れてくると、なんだ、親がこうなってほしいと一生懸命に育てて実現することよりも、子どもの生まれ持った素質が花開こうとする力によって実現することのほうがはるかに大きいのだ、と悟ったのです。ふりかえってみると、二人の娘は、お腹の中にいる間から胎動の大きさもテンポも、全く違っていました。

 子どもは育てたように育つのではなく、生まれたように育つ。

 そう納得できて、私は子育てに決してプラスにならない余分な罪悪感からかなり解放されたのではないかと思います。

 保育所の幼児クラスから小学校時代にかけて、保護者面談に行くと、どの担任の先生からも判で押したように言われた言葉が、長女の場合は「マイペースですね」、次女の場合は「いつも手伝ってくれて助かっています」でした。いわゆる「安心毛布」を卒業したあとのお気に入りも、長女の場合はイグアナのフィギュアにゴジラ、バルタン星人、カネゴン。次女の場合は赤ちゃん人形のメルちゃんとディズニープリンセスグッズ。長女は気になるものを見つける(思いつく)とそれに夢中になる性質で、小学6年生のときにランドセルを教室に忘れて手ぶらで楽しそうに帰ってきた逸話が残っています。次女は、自分より年少の子どもに靴をはかせたり、すぐ迷子になる長女(姉)を見つけて連れ帰ってくるような、人の世話が得意な子どもでした。

 そんな二人の特徴に対して、当時の私に思い浮かんでいたのはこんなイメージです。

 砂金の採れる浅い川にザルを持って入るとします。長女は目の粗い大きなザルを持ち、遠くにキラッと光るものを見つけるとジャブジャブと歩いて行ってざっと掬う。じゃじゃ漏れなのだけれども、ときどきでかい砂金が残る。一方の次女は、目の細かいザルを持ち、姉の後から進んでいって足下にじっと目をこらし、着実に見つけたものを掬い取っていく。結果的に採れる量は二人とも変わらないのだけれど、見つけ方やたどり着く方法が対照的に違うのです。

 「あんたたちきょうだいは、二人で組んだら最強のチームだよ」

 実際、私はよく娘たちに話したものですが、残念ながら、毎回、二人とも「うん」とは言ってくれませんでした。

 異なる個性をもつきょうだいが助け合って生きていってくれたら、というのは親として率直な願いです。しかし、どうやらそれはこちらの一方的な願望であって、娘たちにとっては最近まで「無理難題」にしか聞こえていなかったようだということが後からわかってきました。

 

 次は、難しかったこと(考えさせられたこと)です。

 この連載を書き進める途上で、たまたま三人でいるときに、「何か取り上げた方がよいテーマはある?」と尋ねてみたのですが、間髪を入れずに次女が「きょうだい葛藤のこと!」と答えたのには驚きました。彼女の記憶にしたがって、自宅にある私の古いノートPCを久しぶりに立ち上げ検索したところ、十数年前、次女が小学校高学年のころに書きためたワープロソフトの文書ファイルがたくさん出てきました。半分は創作物語、半分は日記のような呟きや心の叫びです。何と、私は自分の仕事用のPCに次女がそんな「間借り」をしていたことに、全く気づいていませんでした。使う許可は与えていましたが、彼女の名前がついたファイルに何が保存されているか開けてみたことがなかったのです。鍵もかかっていない日記帳が机の上にぽんと置いてあるようなものなのに、お気楽な(鈍感な?)母親だったんですね。

 ぜひ読んでみてと言われたのは、「ツインズフィーリング」と題された4章からなる物語で、比べられたくないきょうだいの心理が双子の主人公に置き換えて綴られていました。「一緒にいたくない、一緒にいたい」「相手をもとめたり、つきはなしたり」というきょうだい間の矛盾した気持ちと葛藤の描写には説得力があり、さらに参ったなと思ったのは、「そのとき、重要なのが親の接し方です」「振り回されないで」「子どもの言うことを尊重して優しく接してあげて」と、双子(きょうだい)を育てる親の心構えへの忠告まで書かれていたことです。

 ちょうど女子の小学校高学年は、心理学の区分では「前思春期」と名づけられ、抽象的で内省的な思考が可能になる時期です。次女も10歳から11歳にかけてのこのころ、「私はなぜこの親の子に生まれてきたのか」「なぜこの人の妹なのか」「私は死んだらどこへ行くのか」といったことをよく考えていたようでした。長女のほうは4歳上で思春期まっさかり。妹に優しくしたかと思えば、日記に「○○(次女の名前)、死ね」と書き殴っていたらしく(それも、後になって次女の訴えで知りました)、感情は両極に揺れがちでした。きょうだい葛藤が親の前でもストレートに言動に表れていた幼少期と異なり、親の見えないところで心理的応酬が繰り広げられていたのです。当時の私はそんなことには気づいておらず、あるとき二人の仲裁に入ろうとして、「ママにはきょうだいがいないから、私の気持ちがわかるはずない!」と次女に一喝されたことだけが鮮明に記憶に残っていました。

 きょうだいには、出生順や性別などにより、ある程度一般化できる特徴があります。長子は早く大きくなって欲しいという親の期待を受け「よい子」「しっかり者」の役割をとりやすく、末子はずっとかわいい子どもでいて欲しいという親の期待を受け「甘えん坊」になりやすく、中間子は上下にはさまれた自分をアピールするために「やんちゃ」や「面白い子」の位置を取りやすい、などです。性別(ジェンダー)ごとの期待というのも、まだまだ根強いものがあります。それに子どもの個性が加わり、きょうだい同士というのはいくら親が公平に育てる努力をしたとしても、お互いに羨望や怒りや、複雑な葛藤を抱くことは避けられないものなのです。

 頭ではそうわかっていても、自分の経験の中にない「きょうだいの気持ち」について、ことさら私は鈍感だったのだろうと思います。それぞれの個性を言葉にして話すことはあっても、○○ちゃんのほうがよくできる、できない、といった比較はしなかったつもりです。それなのに、長女は次女に追いかけられる悪夢を見るし、次女はどうにかして長女に勝つために同じ土俵に乗ろうとするのが不思議で、私はどうすればよいのか思案し続けていました。「(得意分野が違うのに)なんで同じことで競うの?」と、無駄とわかりつつ何度もたしなめたことを覚えています。

 

 最近になって少しずつわかってきたのは、まず、砂金採りのたとえではないですが、二人をこんなふうに限定的なイメージの枠に当てはめる言動自体が、きょうだい葛藤を助長したかもしれないということです。たとえ褒め言葉でも、ニュートラルな評価でも、繰り返しそのように語られることはある種の「レッテル貼り」の役割を果たし、子どもはその枠に自分自身を合わせていってしまう可能性をはらんでいます。私の娘たちにとっては、その枠は理不尽な押しつけと感じられ、その枠を壊す(相手の土俵でも勝てることを証明する)ことに必死にならざるを得なかったのでしょう。

 二人の息子を育てた臨床心理学者ハリエット・レーナ-は、自身の子育て経験をもとにした著書『女性が母親になるとき――あなたの人生を子どもがどう変えるか』(高石恭子訳、誠信書房、2001年)の中で、きょうだいに対するそのような「レッテルの否定的な力」について触れ、「わが子に貼ったレッテルは、遠い将来子どもたち同士の仲を裂くかもしれない」と書いています。たとえば、「世話好きな、気配りのできる子」という枠にはめて一人を見てしまうと、その子の甘えたい気持ちは見過ごされてしまう可能性がありますし、またもう一人はきょうだいでバランスを取るかのように、ますますマイペースで自分のことに熱中していく可能性を生みます。私は、歴代の担任が次女に貼るレッテル(相手の気持ちを汲み取り、配慮し、ふるまえるという褒め言葉)の否定的な側面には自覚的だったので、毎回、「頑張ってそうしているけれども、実は傷つきやすく自分も甘えたい子どもなので、気をつけてやってください」とお願いしていました。しかし、自分自身の行いの影響に対しては、思っている以上に無自覚だったのです。

 

 次に考えさせられたのは、親子にも合う合わないの相性があって、きょうだいに対してひいきはしていないつもりでも、親は無意識に異なる反応をしているのだということです。

 たとえば、これも大雑把な比較になりますが、長女はどちらかというと父親に似た性格で次女は母親(私)に似ています。私も目の細かいザルで砂金を掬うタイプで、次女の行動や思考はある程度予想がつき、理解しやすいのです。一方、私にとって長女はしばしば想像を超えた動きを見せるので、驚きの連続です。「へぇ!」「なんで?」「まさか!」という私の反応は、次女にとっては自分に対する無関心とも思える薄い反応と比較して、「称賛」のように映っていたのかもしれません。きょうだいの子育てでは定番の、「私と○○とどっちが好き?」という問いに対しても、私は心から「どっちも同じだけ好きよ」と答えていましたが、小学生の次女が納得することは決してありませんでした。どちらに対しても、相性が悪いと思ったことは一度もないのですが、それでも子どもの側からすれば私の反応には明らかな差があり、きょうだい葛藤を増幅させていた可能性があると気づきました。

 かりに、相性が合わない子どもがきょうだいの中にいた場合は、自分の無意識的な反応の傾向について、さらに自覚的になる努力が必要ではないかと思います。

 これは母親に限らず、父親もそうですが、一般的に言って、自分が認めたくないと感じている特徴を受け継いだわが子に対しては、否定的な気持ちを抱きやすいものです。相性が悪いと感じるとき、しばしばこのような構造が隠れています。たとえば自分が幼い頃、慎重な性格で気が弱く、人前で言いたいことをはっきり言えないために親から「ダメな子」扱いされてきたとすると、同じような様子を見せるわが子に対しては、無性に腹が立ってはねつけたり、反対に不憫に感じて庇い過ぎるということが起こります。きょうだいの一方がそのような扱いを受け、他方がそうでなかったり、さらには理想化されているような場合には、きょうだいそれぞれが傷つき、お互いに嫉妬したり疎遠になってしまうことがあるのです。ほかにもありがちなのは、夫婦間に抑圧された否定的な感情があるとき、相手と似た個性をもつ子どもに知らず知らずそれを向けてしまうことです。

 もしあなたがきょうだいを育てていて、子ども同士が常に攻撃し合ったり、お互いの心に深い溝ができているように感じられたら、子どもたちを何とか仲良くさせようと躍起になる前に、まず自分の心を覗いてみることが先決です。わが子に複雑な感情を抱くこと自体は、誰しも避けることはできません。問題は、無意識的であり続けることの弊害です。

 

 最後に、もう一つこれまでの子育てを通して考えさせられたのは、きょうだいの年齢差やさまざまな外的要因によって、きょうだい葛藤には短期間では解決できない部分が加わってくるということです。

 私の娘たちの年齢差は、4歳です。4歳差というのは微妙な間隔で、世話する・される関係にもなり切らず、同年代として群れるにはちょっと遠いようでした。次女が生まれたとき、もうすぐ4歳の長女はすでに「わたし」という確固たる意識をもっていて、周囲の大人の関心が急に自分から離れたのを敏感に感じ取り、「わたしなんか、うまれてこなかったらよかった」と訴えるほどショックを受けていました。次女が小学校に上がる頃には長女は前思春期のさなかにあり、幼い妹には関心がなく、次女が高学年になると長女は思春期のさなかで、同性のきょうだい葛藤がピークに達し、次女が思春期のさなかのときは、長女はもうそこを抜けて大学生になり家を出るというふうに、単に興味関心が異なるからではない発達的なタイミングのかみ合わなさがあったのです。また、そこに中学受験、高校留学、大学受験、といったそれぞれの大きなライフイベントも挟まり、そのときどきで、私が娘たちに向けるエネルギーの配分も必然的に変わりました。

 長いスパンで見てみると、そういった複雑な要因が絡まり合った結果、娘たち二人の人生はシーソーのように交代で上がったり下がったりの波を描いてきたように感じます。次女が上り調子のときは長女が自己否定的になり、長女が「わが世の春」を迎えると次女が自信を失い低空飛行が続く、といった具合です。娘たちの成長期を通して、私はこのシーソー現象がなぜ止められないのか、とくに下がった方をどうやって上げたらよいのか、思案をしたり「もっと自分に自信をもとうよ」と言葉で説得したりして、結局うまくいかないことを繰り返してきました。「最強のチームだよ」と言われるのと同様、当時の娘たちにとっては、親が安心したいための勝手なお説教にしか聞こえていなかったのでしょう。

 娘が二人とも20歳を超えて大人になり、互いに離れて暮らすようになった今では、以前よりずっと相手を客観的に受け止め、認め合える関係になっていることがわかります。私がここから得た教訓は、長い一生の間には誰しも浮き沈みの波はあり、子育てにおいても、親はもっと大きな周期でわが子のそれをおおらかに眺めることが大事だということです。きょうだい葛藤は避けられないものであり、親の力で無くそうとしても無駄だということです(もちろん、いろいろな要素がたまたまうまくかみ合って、葛藤が少なく仲の良いきょうだいというのもあるでしょうけれども)。

 それよりも役に立つのは、わが子たちがどのようなきょうだい葛藤を抱えながら育っているのか、自分の未解決の問題がどのようにそこに影響を及ぼしているのかを考え続けることではないでしょうか。きょうだいを育てることは、親と子の、そして子ども同士の間に交わされる情緒的関係のバリエーションを増やし、やっかいだけれども豊かな経験を得るチャンスになります。葛藤を抱え続けることにより、鍛えられて強くなる絆があるのです。

 

 ネイビーのシンプルなランドセルを選んだ長女と、ピンクでかわいいウサギ模様のついたランドセルを選んだ次女(洋服も絶対に姉のお下がりは受け付けませんでした)は、今ではメイクの情報を交換したり、相手の洋服を着てお洒落の幅を広げてみたりする仲になっています。10年前には全く想像できなかったことでした。今後も、それぞれのライフイベントの訪れるタイミングによっては、シーソーが大きく傾く時期があるかもしれません。それも含めて、10年後はどうなっているのか見届けてみたいなと思っています。

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著者略歴

  1. 高石 恭子

    甲南大学文学部教授、学生相談室専任カウンセラー。専門は臨床心理学。乳幼児期から青年期の親子関係の研究や、子育て支援の研究を行う。著書に『臨床心理士の子育て相談』(人文書院、2010年)、『自我体験とは何か』(創元社、2020年)、編著に『子別れのための子育て』(平凡社、2012年)、『学生相談と発達障害』(学苑社、2012年)、『働くママと子どもの〈ほどよい距離〉のとり方』(柘植書房新社、2016年)などがある。

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