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美しいってなんだろう?

美しき「墓」

 いやに北風のつよい、寒い日だった。
 母とふたりで、駅から家へむかって歩いていると、国道沿いのペットショップの前にみなれない金あみの箱がおいてあった。ちかよってなかをのぞくと、何匹もの子猫がうごめいているのが見える。箱にはダンボール板が雑にはりつけてあって、まっくろいマーカーで、こう書いてある。

「飼い主 探しています ご自由におもちください」

 あみのあいだから鼻先を出しゴロゴロのどを鳴らす子、ほかの猫たちとじゃれあう子、そっぽむいて寒そうに丸まっている子……、白や黒やブチやまだら、いろんなもようの猫がおしあいへしあい、おもちゃ箱をひっくりかえしたかのようににぎやかだ。
 なかでも、高く高く背をのばして、けなげにミーミー鳴いている猫がいた。頭のてっぺんからしっぽの先までまっくろ。しっぽは長くスラリとして、目はマスカットのようにあざやかな緑色だ。

「この子はシャム猫の血が混ざってるのかもね」

と母が言った。
 まるで魔女が連れている猫みたい。ぼくは箱の前にしゃがみこんだ。
 そのころ、ぼくは松谷みよ子の本「ねこによろしく」を夢中で読んでいて、いつの日か猫と暮らせたらどんなにすてきだろう、と空想していた。
 寒さもわすれ、どのくらいその前に座っていただろう。ぼくはこの猫を飼いたいとだだをこねて、ペットショップを立ちさろうとしなかった。

「かわいいけどねぇ、いきものは大変だから……」

 はじめはこまった顔をしていた母も、子猫のむじゃきな声にほだされたのか、最後には折れた。ちょうどその月の中ごろには、ぼくの誕生日があったので、なんやかんや理由をつけて、この猫をバースデー・プレゼントということにしてもらった。
 ひろげた両手にのってしまうほどちいさな子猫は、キャットフードの空き箱にいれられ、わが家にやってきた。名前は帰り道にすぐおもいついた。黒猫の「ヤマト」だ。
 忘れもしない、小学生一年生、七歳の冬のことである。



 

 ぼくが産まれる前、両親は新潟県の佐渡ヶ島にいた。
 天井は穴ぼこだらけ、畳にかれ葉がつもり、床下から竹の子が生えているボロ屋をタダ同然で借り、自分たちで直して、二年ほど暮らしていたそうだ。
 そこで二人は近所の家から子猫をゆずりうけ、「ポチ」という犬みたいな名まえをつけ飼っていた。
 父は猫よりも犬が好き。白土三平の忍者漫画を読んで育ち、子どものときは本気で忍者になれると信じていたから、ポチは忍犬ならぬ、忍猫として育てられた。ホントかウソか、庭にサーカスのような木の台や輪っかをこしらえて、日々忍びの技をしこんでいたという。 

 ぼくが産まれることがわかると、両親は佐渡ヶ島の家をひきはらい、横浜に戻ってきた。だから、ぼくには佐渡ヶ島の記憶はない。ポチのことも写真でしか知らない。ぼくが一歳になる前にポチは捨てられてしまったのだ。
 当時、ちまたではオウム病という鳥を介した伝染病が流行っていた。ポチは毎日外で遊び、鳥やネズミを何匹も捕まえて、その死体を縁側に並べてみせるワイルドな猫である。オウム病以外にも、わるい病気を赤ん坊にうつさないとはかぎらない。
 ちょっと目をはなしたすき、ぼくの胸の上にポチがちょこんとのっかって、顔をペロペロとなめていたり、丸まって昼寝をしていたりしたことが何度もあった。母は、いつか赤子の息がつまって死んでしまうのではないか、とひやひやしたという。
 父はポチを山に捨てにいったときの悲しい気持ちを、たびたび思い出しては語った。

「山猫みたいなポチのことだから、きっと山でもなんとかひとりで生きていけるだろう」

 そう自分に言い聞かせながら、山においてけぼりにしたことをいつまでも悔やんでいた。
 ポチのことをさかいに、二人はもう猫を飼うのをやめようと決めた。
 だから、ぼくと母が黒猫のヤマトを家に持ち帰ってきたとき、父はあまり喜んではいなかった。
 だが、子猫のかわいらしさは格別だ。一日がたち、一週間がたてば、情がうつり、ヤマトはすっかりわが家になじんだ。父は、

「もしかすると、ポチの生まれ変わりかもしれない」

と芸をしこもうとしていた。
 ぼくは、あとはくもの巣でつくったコップとにじいろのジュースさえあれば、『ねこによろしく』のおばけちゃんの家とおなじだなあ、とふわふわ考え、ヤマトを主人公にした「ねこがいっぱい」という絵本を描いた。ぼくにとって、ヤマトは最初の相棒であり、妹であり、子どもだった。



 

 一年ほど後。何人かの友だち家族と遊園地に遊びにいき、家に帰ってきたら、ヤマトが子猫を生んでいた。まさかお腹に子どもがいるとはおもわなかったから、みなびっくりした。
 こたつのなかに、目のあいていないモグラみたいな生きものが四匹。からだはヤマトと同じくまっくろで見わけがつかなかったが、しっぽのかたちはどれもちがっていた。大根みたいなしっぽの子はヤオヤ、あるのかないのかわからないほど短いしっぽの子はプチトマト、太くて長いしっぽの子はトマト、などと名前をつけた。

 翌年、ヤマトはさらに五匹の子を産み、わが家の猫は合計十匹になった。人間より猫の数が多くなると、彼らはがぜん大きな顔をする。夜行性の猫たちは、ぼくらが寝る時間になると、ギンギンに元気になり、カーテンによじのぼり、押し入れやタンスに飛びのり、上へ下への大さわぎをはじめる。毎夜くりかえされる猫の大運動会に、人間たちはみな寝不足になった。
 月々のキャットフード代だってばかにならない。

「猫のご飯代をかせぐために働いているみたい」

と母はなげいた。
 大きな地震があったとき、落ちてきたマンガにあたって死んだのが一匹。親戚や知り合いにゆずったのが四匹。最終的には五匹に落ち着いたが、これ以上増えたらまずい、ということは算数が苦手なぼくにもよくわかった。
 ヤマト一匹から十匹まで増えたのだ。残り四匹がヤマトのように、子どもをばかばか産んだら、四十匹になってしまうかもしれない。六畳二間台所トイレのちいさなアパートの部屋に家族四人と四十匹の猫。人間らは片身をせまくして、大量の猫たちがところせましと、とぐろをまいている姿を想像してぞっとした。 

 母はつめに火をともすような思いでお金をため、猫たちを一匹、また一匹と動物病院に連れて行った。これ以上子どもが増えないように「避妊手術」というものをしてもらうのだという。
 避妊手術がすむと、春が来るたびにがなりたてられていたサカリ声も大人しくなり、夜の運動会もなくなって、家族はようやく安眠を手にした。
 しかし、かわりに妙なことが起きた。
 手術をすませたヤマトの娘のヤオヤが、弟や妹たちにおっぱいをあげはじめたのだ。ヤマトは、なぜか二回目に産んだ子猫たちにあまり興味をしめさなかった。そこでヤオヤが母親代わりとなり子猫たちの面倒をみるようになった。
 それだけではない。深夜になると悲しそうな声で鳴き、台所のふきんをくわえ、家の中をあてもなくさまよっていた。
 その姿をみて、母は「ああ」といった。

「きっと、子どもを呼んでいるんだわ」

 避妊手術でお腹をあけたとき、赤ん坊が何匹もいたそうだ。まだ産まれる準備ができていなかったため、子猫たちはみな死んでしまった。
 あまりにもかわいそうで、母はこのことをぼくにしらせなかった。だが、ヤオヤは夜ごと自分の子どもの幻をみて、ふきんをくわえ、その姿を探していたのだ。
 ヤオヤは人間なんて信用しないぞ、というような目つきで、人にこびることなく気ままに生きた。自分の欲望を見せず、ほかの猫と群れることなく、いつもひとりでいた。ぼくはほかの猫たちとおなじように好きだったが、ヤオヤはぼくをどう思っていたかはわからない。

 五匹のなかには、スズメと呼ばれた変わった猫がいた。
 彼女はヤマトの最初の子で、しっぽが短く、生まれたときはプチトマトと名付けられていたはずだ。
 しかし、病弱で大きく育たず、一年もしないうちに原因不明の病気になった。関節が痛み、発作がおきるとめちゃくちゃに転げ回って苦しんだ。
 日に日に弱っていく様子をみて、ある日、祖父がマタタビを買ってきた。マタタビは猫の麻薬みたいなもので、たくさんあげると毒だが、すこしずつあげたら薬になるそうだ。毎日耳かき一杯のマタタビ粉をなめさせること数週間。体調は上向き、寝たきりだったプチトマトは、チョンチョンとちいさくはねて歩けるようになった。その姿が地面でエサを探すスズメのようだったから、家族からスズメちゃんと呼ばれるようになった。
 スズメは具合がよくなったあとも、ほかの猫のように活発には動けなかったが、とてもやさしい性格の持ち主だった。
 ぼくが叱られたり、ケンカしたりして泣いていると、そっと横にきて顔をのぞきこみ、なぐさめるようにして、ペロペロと顔をなめた。猫の舌は犬のそれとはまったく違い、紙やすりみたいにザラザラで、なめられても心地いいものじゃないけれど、その気持ちがうれしかった。
 一年間ほど学校にいかなかった小学四年生のとき、先のみえない不登校の生活にくじけなかったのは、毎日のように遊びに来てくれる同級生たちと、猫のスズメのはげましのおかげだとおもう。
 スズメはときどき発作をおこしながら、十二年ほど生きて、ある日、なんのまえぶれもなく姿を消した。好物のかつおぶしやのりの缶をカンカン鳴らして、何日も近所を探して歩いたが、ついに見つけられなかった。ふだんから外に遊びにいくような猫ではなかったので、きっと自分の死期をさとって旅立ったのかもしれない。




 「インドに行っているとき、猫はどうしているんですか?」

とだれかに聞かれると、いつも母は

「五匹もいるとたいしたもので、自分たちで掃除機かけたり、ご飯つくっているんですよ」とよくわからない冗談で返していた。

 もちろん、そんなことはなく、ぼくらが不在のときは、兄が猫たちの面倒をみていた。兄はかたくなに「海外には行きたくない」という人で、自動的に猫のお守役となった。
 猫のほうも心得たもので、出発前、荷造りをしていると、自分も連れて行けといわんばかりに、トランクに入ってみたり、いやがらせにバックパックにおしっこをひっかけたりした。それでも、不在中は五匹の猫の集団として、のんびり気ままにやっていたようだ。
 人知れず旅立ってしまったスズメ以外は、猫たちはみな二十年以上生きた。ヤマトはやせ細り、歯が抜け、黒猫なのに白い毛のほうが多くなったが、最後までしぶとく生きた。猫の二十歳は人間ならば九六歳を超える計算になる。いずれも大往生だ。

 ヤオヤは年老いて、あごの下に大きなコブができ、動物病院でみてもらった。これは悪性のがんで、ほっておけばコブが広がり、数ヶ月後には何も食べられなくなって死んでしまう。手術でとることもできるが、若くないからからだがもたないだろう。手術でとったとしても、ふたたびコブができることもある。とりあえず、かまなくても食べれる栄養ゼリーを出しますので、今後どうするかは、ご家族で考えてみてください、と言われた。
 その夜、みんなでどうするか話し合った。ヤオヤの生き死には自然にまかせよう。そう思う一方、ぼくの心のなかには「自然ってナンダ?」という疑問がうず巻いていた。
 はたして、ヤオヤの一生で、自然だったことなんてあるのだろうか。ときどき外で遊ぶことはあっても、だいたいは家のなかですごし、キャットフードを食べ、人間がつくったトイレで用を足し、鳥やネズミを狩ることもなく、老いて病気になった。避妊手術をしたことや、子猫を死なせてしまったことをとっても、自然という言葉とはほど遠いように思えた。
 かといって、山猫のように、山や森で生まれ育ったら、二十年も生きなかっただろう。ならば、長生きをするということ自体が不自然なのか。生きものとして、人間はどうかかわっていくべきだったのか。自問自答で頭のなかがぐるぐる回った。
 老いた猫たちをいまから自然に帰すことはできないが、残りわずかな時間をともに過ごし、どんなに辛くても、生きものとして死ぬ自由をしずかに見守ろう。答えらしい答えは見つからないけれど、それだけを心に決めた。猫たちはヤオヤのあと、一年に一匹ずつ死んでいった。
 ふしぎなことだが、どの猫も死期が近くなるとぼくのベッドにやってきて、そこを最後の寝床にした。東側の窓に面していて、日当たりが良かったせいかもしれない。
 ものが食べられなくなって、布団ごしに感じる重みが日に日に軽くなる。水が飲めなくなって、スポイトで水をあげる。風船がゆっくりしぼむようにちいさくなって、ある朝、ふいに息を引き取る。それはまるで儀式みたいな、特別な時間だった。
 はじめは、ぼくが猫を看取っているつもりでいたが、ほんとうのところは、猫の方がぼくに寄りそってくれていたのかもしれない。




 二十歳のころ。中国の大学に留学中の知り合いからメールがきた。「骨つぼ」というテーマで卒業論文を書いているので、アンケートに答えてほしい、ということだった。メールにはいくつかの質問とともに、こんな問いが書いてあった。

「あなたにとって理想の骨つぼとはなんですか?」

 ぼくは子どものころから、もし自分が死んだら、骨はお墓にいれるのではなく、海や山など自然にかえれる場所にまいてほしい、と思っていた。ずっとあとになって、骨つぼにはいっていても、最終的には水みたいになって地面に染み込んでいくという話を聞いて、なーんだと思ったが、どちらにしても、あの狭いところに自分が閉じこめられることを想像すると、まだ死んでもないのに息がつまった。
 だから、骨つぼはどんなデザインであれ、底がすぽんと抜けているものがいい。底がないから、いつでもつぼからはみだして、土と一体になれる。あるいは、底のないつぼが、大きな鉢植えにちょこんとのっかっていて、そこに生えている木の養分になる。そんな骨つぼがほしい、と答えた。

 猫たちが死んだとき、どの子のなきがらも、祖父の家の庭にあるびわの木の下に埋めた。せめて、かたちだけでも、自然にかえしたいという思いからやったことだったが、彼らの肉や骨はおもいのほか栄養満点だった。ちいさかった木はぐんぐん枝をのばし、葉をおい茂らせ、黄金色の実を鈴なりにつけるようになった。
 季節がめぐるたびに、実を集め採り、家族みんなで食べた。八百屋で買うものよりもこぶりだが、やさしい甘みで香りがギュッとつまっていた。食べながら、猫たちの思い出話をした。びわが実るたびに、猫のお盆がやってくるようだった。
 種は天日で乾燥させたあと、焼酎漬けにすると、かゆみ止めや炎症止めの薬になった。葉っぱはお茶にして飲んだり、風呂に入れて薬湯にしたりした。これらは娘のつたが産まれたとき、母子の湿しんをやわらげるためによく使った。
 三十数年前、あの冬の日に出会ったちいさな命が、しぶとく生きながらえ、土にかえり、養分となり、ぼくらを助け、からだのいくばくかをつくっている。

 季節が夏から秋へ変わろうとしている。銭湯の帰り道、夜風に涼みながら、暗い路地を歩いていると、どこからかニャアと猫の声がする。何十年がたったとしても、ぼくの指先はそのやわらかな手触りを覚えている。

娘つたのつぶやき

 こんにちは、ヤマト。
 いま、私はとってもあなたに会いたい。ヤマトの緑色の目、みてみたいです。多聞にきいたけど、一番美しかったんだってね。子ねこの時の君、文章だけでも見とれます。こんど、あそびにきてね。

 ヤオヤへ。
 ねこの大運動会楽しかった? そのころ、私がねこだったら、一番かっぱつにうごいていたでしょう。「ひにんしゅじゅつ」のこと気がついていないのね? 子ども、うみたかったでしょ。かわいそうに。こんど、おいで。いっしょにお話しよう。

 スズメへ。
 発作くるしかったでしょう。ホーントたいへんだね。マタタビおいしいの? 泣いていると来てくれるスズメちゃん。やさしいね。そうぞうだけど、一番好きよ。こんど、あそぼう。

 はじめまして、ポチ。
 さどがしま、ってどんな所? 楽しいのかな? 芸ができるってすごいね。どんなことができるの? ワイルドなねこちゃん。鳥やネズミをつかまえんのか。やさしい時もあるんだよね。またこんど会いましょう。




 人知れず旅立ってしまったスズメ。
 大きなコブ、ガンになってしまったヤオヤ。
 やせほそったヤマト。
 一年ごとに、死んでいったねこたち。
 みな多聞のふとんにいく。
 その時、どういう気持ちだったのか。 




 ちいさいころ、夏まつりに行って、金魚すくいをした。というか、多聞が私の手をとってやってくれたのだが……。5匹くらいとれたのに、お店の人は3匹しかくれなかった。わずか3匹もそのときにはいっぱいに見えてうれしかった。
 その後、水そうとエサを買いに行った。
 金魚にも名前をつけた。一番大きいのが花子。中くらいのが花。一番ちいさいのはくるみ。お店のお姉さんが

 「そだつと水そうがパンパンになります」

といっていたので、きたいにむねをふくらませた。
 せわをしてたのしくやっていたのだが、ある日、花子が死んだ。団地のにわのちいさな木の下にうめた。びょう気で死んだらしかった。
 花も同じびょう気をもっていたのか、その後死んでしまった。最後にのこったのは、くるみだった。一匹ですいすいとおよいでいた。
 ひっこし先が決まった。いま住んでいるいちじょうじだ。4月20日はひっこしの日。それまでじゅんびがあって、なかなかくるみにエサをやれなかった。
 ひっこしがおわった。

 「わあ、やっとエサあげられるね」

 げんきなさそうなくるみにいった。
 ところがある日、くるみが死んでしまった。

 「くるみ、くるみ」

 くるみはうえ死したのだろう。しばらく、エサをあげられなかったから。まっ青になって、おなかを上むけにして死んでしまった。家族みんなで泣いた。
 水そうから出して、にわにうめた。わかるように上にレンガをのせた。
 それからにわに出るたびに、できるだけおいのりしている。あの日から、3年。くるみは、きっとちかくの木のようぶんになっているのかな。花と花子はどうなっているのかな。その前をとおるたびに思い出す。

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著者略歴

  1. 矢萩 多聞

    画家・装丁家。1980年横浜生まれ。9歳から毎年インド・ネパールを旅し、中学1年生で学校を辞め、ペン画を描きはじめる。1995年から南インドと日本を半年ごとに往復し個展を開催。2002年から本をデザインする仕事をはじめ、現在までに500冊を超える本を手がける。2012年、事務所兼自宅を京都に移転。著書に『偶然の装丁家』(晶文社)、『たもんのインドだもん』(ミシマ社)、共著に『タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる』(玄光社)、『本を贈る』(三輪舎)がある。http://tamon.in

  2. つた

    2011年横浜生まれ、京都育ち。小学校は昨年から永遠の春休みにはいり、風のふくまま気の向くままフリースクールとプールと図書館に通っている。本があれば、どんな長い時間でも退屈しない本の虫。好きな映画は「男はつらいよ」。いつの日か車寅次郎と再会することを夢見ている。矢萩多聞の娘。

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