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京都不案内

五代友厚と二人のスリランカ人

 京都に滞在していたある朝のこと。恒例の気功の会が終わった後、参加者のTさんが、「森さん、こんな人の話聞いてあげてくれない?」というのである。Tさんは一人で子どもを育てた元気な女性だ。とても70代には見えない。声も大きいし、服もなかなかしゃれている。
 私が物書きだと知ると、話を聞いてほしいという人はたまにいる。友達のお母さんは北海道の開拓民で、その話を聞いてほしいと息子さんに頼まれ、一週間、温泉に入ったり出たりしながら、話を聞いたこともあった。名付けて「聞き書き湯治」。

 さて、今回紹介のKさんは、大正12年生まれの男性で92歳、京都大学を卒業した人だという。高齢なので、私の方から指定された鞍馬口の喫茶店「花の木」に出向くことにした。Tさんが「悪いわね。これで行って」と京都市バスの回数券をくれた。「花の木」は高倉健が好きだった伝説の喫茶店で、壁にはジャン・ギャバンの大きなポスターが貼られていた。
 Kさんに会って、さっそく話を聞く。

「父は烏丸通の角で呉服屋をやっていました。母はとても厳しい人で、中学4年までは、これが実の親かと疑ったこともあるくらい。一発で松山高校に合格してから母の態度は一変しましたね。そして京都大学の経済学部に入ったのですが、1年生の時に学徒出陣で持って行かれました。
 母に「男だったら何になりたかったの?」と聞くと、「船乗り」だというので、僕も海軍を志望しました。海軍は陸軍みたいに荷物を背負って行軍しなくてすむ。船に通常の2倍の食料を積んでいるし、上下分け隔てなく食事をとる。船の中は狭いので、すれ違う時の敬礼の仕方も違う。知ってますか? 今の信号の色の順番なども海軍から来たものですよ。」

 東南アジアの海を軍艦で回り、終戦の時は福岡にいた。300回以上の空襲を受けたが、運よく助かったという。復学し、3年勉強して、昭和23年に卒業した。

「一番行きたかったのは日本郵船で、社長に手紙を書きましたが、「申し訳ない、今船がないので」といわれた。それで三菱と三井を受けようとしたが、財閥解体にかかって採用がなかった。3番手の商社は石油船を10艘持っていた。そこに入って、人の嫌がる仕事もなんでもしましたが、最後は日商岩井と対等でない合併をして、京大の7期下が上司になりました。それで嫌になり、42歳の時にコンサルタント会社に転職して、またあちこち世界中を回りました。」

 息子を白血病でなくしたり、妻が病気になったりと苦しい時期もあったが、そのうち転機が訪れた。

「スリランカから来たネルソンくんという男が大阪大学の博士課程にいて、息子のように面倒をみることになりました。彼は広島大学で修士課程を終えたあと、大阪大学に入りました。
 研究していたのは五代友厚です。彼はスリランカの近代化に寄与しようとして、その手本になる人物を日本に探していました。この人を研究対象にしたのは、商業史が専門の宮本又次先生の示唆もあったようです。」

 五代友厚(1836〜1885)は薩摩藩の武士で、1862年に幕府艦千歳丸に水夫として乗船。上海に渡航し、高杉晋作と会う。ちなみに高杉らが泊まったホテルは、私が15年ほど前に上海に行った時、まだ残っていた。翌1863年の薩英戦争で、五代はイギリスの捕虜になったが、横浜で脱出。
 1865年には薩摩藩遣英使節団としてイギリスに。ヨーロッパ各国を視察し、ベルギーでは貿易交渉にあたる。1866年に帰国した後、薩摩藩の貿易・商事を扱う会計係になり、長崎のグラバーと協力して長崎小菅修船場を作る。これは世界遺産にも登録され、そろばんドックとも呼ばれる。
 戊辰戦争を倒幕軍として戦った五代は、32歳で新政府の外交の要職を務め、大阪に造幣寮を作り、初代大阪税関長となる。
 1969年には官吏をやめ、本木昌造の大阪活版所を応援し、日本初の英和辞書を作った。奈良天和鉱山の開発、福島半田銀山の経営に尽力し、藍の製造工場、堂島米商会所、大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所、大阪製銅会社、関西貿易社などを設立していく。まさに、東の渋沢栄一に勝るとも劣らない大実業家だった。

「岩波の広辞苑には五代のことを政商と書いている。五代は薩摩藩の上士で、父は儒学者、島津の殿様のブレインをしていたので、西郷隆盛や大久保利通とは家柄が違いました。五代自身も島津斉彬に可愛がられてね。維新の3年前に上申書を書いています。上海貿易をしろ、その儲けで機械を買えとか。
 明治5年に会社組織を作るとき、社員がもし全部給料を使わなければ社内貯蓄をさせる、社員が病気になったらどんな遠方からでも名医を迎えて治療させるとか、たいへん社員思いの会社を作りました。
 五代は一度離婚していますが、スッキリしたいい男だったので大変モテて、いろんな女性に惚れられて、子どもも何人もいます。後妻のトヨという人は最後まで尽くしました。五代は金では動かなかったし、自分の会社を残さなかったので、本当に知られていないんです。」

お詳しいですね。

「というのもネルソンくんの研究を助けるために、私は五代の資料を買ったり集めたりしてあげました。彼は漢文はなかなか読めないので、その解読も手伝いました。それで博士論文も通ったのです。
 ええ、素晴らしい青年でしたよ。彼としては欧米に追いつけ追い越してアジアで気を吐いた日本に憧れていたのでしょう。だけど、博士号を取るまで17年かかりました。
 そしてスリランカに帰れば大学の教授になれるところだったのに、日本に留まり、少しでもスリランカを外から援助しようと、民間総領事のようなことをしていました。特に、2004年のスマトラ沖の大地震の復興援助に何百回も政府宛にお金を送った。しかし、それは政府のところで止まってしまい、被災地では使われなかったのではないか。
 その使われ方を見てくるといってスリランカに行き、そこで心臓発作で亡くなってしまった。今から10年前、彼が65歳、私は82歳の時でした。」

 この話を聞いたのは、2015年8月のことである。そしてKさんは、「私の集めた五代友厚の資料があるのだが、あるテレビ局のディレクターが貸してくれといって持って行ったきり返してこない。それを返してもらって、あなたにコピーを送る。もしできることなら、ネルソンくんの仇討ちに、あなたに五代友厚のことを書いてもらえないか」というのであった。

 しかしその後、いくら待っても資料は来なかった。テレビ局のディレクターが返さなかったのかもしれない。私も同じような例をいくつも知っている。しかもその秋から、NHKでは『あさが来た』という明治の女実業家・広岡浅子を主人公とした朝の連続テレビ小説が始まった。そこに浅子の協力者として五代友厚が登場、演じたディーン・フジオカの端麗な容姿ですっかり人気が出て、「五代さま」と呼ぶ女性ファンも増える一方。なんだか私の出る幕ではないような気がした。
 調べてみると五代については、ネルソンくんの指導教官である宮本又次先生の著書もあり、いくつか小説もある。Kさんは「司馬遼太郎は侍にしか興味がなく、実業家は描かなかった。『坂の上の雲』にも五代は2行出てくるきりです」といっていたが、『坂の上の雲』の主人公たちは、秋山好古、秋山真之、正岡子規など、維新前後に生まれた、五代の次の世代である。 

 私は五代よりも、そのネルソンくんというスリランカ人の人生がよほど気になった。今でこそ、アメリカの影響で、特に理科系では博士号を取るのが当たり前になっているが、一昔前、人文系で博士号を取る人は本当に少なかった。それを、言葉ができないなかで、17年もかかって取ったというネルソンくんはなんという努力家だったのだろう。

 私は2017年に初めてスリランカに行った。そんなに大きな島ではない。その時は建築史研究者と一緒だったので、主に建築家ジェフリー・バワの作ったホテルなどに泊まり、海で泳いだり、シーギリヤロックというとんでもない大きな岩に登ったりした。スリランカの東海岸と西海岸で天候がまったく違うのに驚いた。
 一緒に行った人のなかに東京大学の農学部の教授がおり、新規に受け入れる院生の面接もあった。その人に会いに行ったコロンボ大学の建築もジェフリー・バワ設計だった。 

 その院生候補の女性パビットラは、そのあと旅についてきて、私は何日もホテルの一緒の部屋に泊まり、仲良くなった。ある時は、彼女の両親が住む町のホテルに泊まったが、ホテルのご飯が高すぎるので、彼女がお母さんに電話してカレーを作ってもらった。
 「これから朝ごはんを取りに行く」という彼女と一緒に、シクロみたいな小さなタクシーに乗った。彼女は途中で、食パンを2斤も買い込んだ。「私のお母さんはブティックをやってるの」というので、青山や表参道にあるようなお店を想像したが、行ってみると森の中の駄菓子屋さんだった。そしてお父さんは腰布を巻いて上半身裸で出てきた。
 「びっくりした? 私はこのうちから大学も自分でお金を貯めて行ったのよ。それで今会社に勤めて、月に400ドルくらい給料がある。この国ではすごくいい方だけど、もっと上を目指したい。東大で博士号が取りたい」と彼女は夢を語った。
 しかし彼女は日本語がまったくできないのであった。「授業も英語、教授の指導も英語、論文も英語で書けばいいから大丈夫」というのだが、私はとりあえず、これだけは知っておいたほうがいいという単語を20ばかり紙にローマ字で書いて、ホテルの部屋で一緒に発音の練習をした。「アリガトウ、コンニチハ、サヨウナラ、ダイジョウブ、コレイクラ?」。「アリガトウ、アリガトウ」と彼女はにっこり笑った。 

 そうして何ヶ月も経たないうちに彼女は日本にやって来た。旦那さんを連れて。この旦那という人は大学を出ていないが、前に日本で働いたことがあり、関西弁がペラペラであった。「いい人を見つけたでしょう。新聞に夫募集の広告を出したの」と彼女は簡単そうにいった。
 私は街を案内したり、ご飯をご馳走したりした。「お寿司はどうかしら」「生の魚はスリランカでは食べません」「じゃ、蕎麦にしましょう」といって蕎麦屋に入った。「それはhotか?」と彼女が聞く。「温かいのがいいなら、鶏南蛮がいいかな」と、彼女には鶏南蛮そばを、私はざるを注文した。一口食べて、彼女はいう。「ちっともhotじゃない。スリランカ人はヌードルは食べません」。え、なに食べるの?「三食ご飯にカレーです」。その時やっと、hotは温かいではなく、辛いかどうかと聞いたのだと気がついた。
 「日本ってこんなに寒いの?」と夏仕様の服を着た彼女がいうので、私は上着とセーター、マフラーをあげた。とても喜んだ。

 京都のネルソンくんも、きっとそんな異文化の中で戸惑いつつ勉強したのだろう。日本語を学び、日本語で博士論文を書くのに17年もかかった。時利あらず、とはこのことだ。あまりに楽天的な若いスリランカ女性と会うたびに、私は写真も見たことのない、ネルソンくんのことを思い出した。

 その彼女からももう、連絡は来ない。百万遍で銭湯に入り、農学部前の宿まで帰る時、途中に二つくらいインドだかバングラデシュだかわからないカレー屋さんがある。そこでご飯を食べている留学生を見るたびに、私は苦節17年かけて博士号を取り、帰国してすぐに死んでしまったネルソンくんと、日本語が一つもできないのに東大の博士課程に留学したパビットラさん、二人のスリランカ人のことを思い出す。

京都の人のつぶやき

 京都の大学生だったころ、1年休学してフランスに留学した。向こうに行くと醤油に飢える。そういうときは中華料理屋に駆け込む。小さな街でも中華料理屋はある。街の様子がわかってきてからは、中国人がやっている食料品店で醤油とみりんを買って、分厚い肉(薄切り肉なんて売っていない)で肉じゃがなどを作った。母には味噌を送ってもらい、少しずつ大切に使った。寮に届いた荷物を管理人室に取りに行ったとき、「ほら、あなたの国のちっちゃな一部が届きましたよ!」とにっこり渡されたときの嬉しさは今も忘れない。
 日本に留学したネルソンくんは、きっとスパイスに飢えたことだろう。本格的なカレー屋は今ほどなかっただろうし、どんなふうにしのいだのだろう。祖国から持ってきたスパイスを少しずつ大切に使っていたのだろうか。そんなことを考えると、まぶたの奥がジーンとしてくる。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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