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進化生物学者がイヌと暮らして学んだこと

イヌは世界をどう認識しているのか? その2

イヌの嗅覚はどれほど鋭い?

 前回、イヌの味覚や視覚について、そしてヒトと目を見合わせることなどについて書いた。しかし、何と言ってもイヌは嗅覚の動物である。それを言えば、哺乳類はだいたいにおいて嗅覚の動物だ。そこで、イヌの嗅覚について取り上げよう。

 巷では、イヌの嗅覚はヒトの10万倍鋭いと言われてきた。だから警察犬や麻薬探知犬がいるのかしら。10万倍ねえ。だとしたら、亭主と私が本格的なスパイスをたくさん使った、我が家自慢のカレーを作っているときなど、イヌたちは、めくるめく匂いの洪水に圧倒されて、窒息しそうにでもなっているのだろうか、というと、とてもそうとは思えない。こちらはワクワクしながら料理中でも、イヌたちはカレーには興味がないので、そばで無邪気に寝ている。

 ところで、最近の研究によると、「イヌはヒトの10万倍」という言い方の是非も含め、ヒトの嗅覚は他の哺乳類に比べてとても貧弱だ、ということを示す確実な科学的証拠はないらしい1)。そうした主張の元になったのは、19世紀フランスの有名な脳科学者であった、ピエール・ポール・ブローカの発言であるらしい。ブローカは、言語の認識が脳のどの領域で行われているのかを研究したことで有名で、言語野の一つである「ブローカ野」に、その名を残している。そういう有名人が、当時のいろいろな事情もあって、そんなことを言ったらしいのだが、以後、そのことをきちんと検証した科学者がいなかったというのが問題だ。どうも、私たち自身が視覚の動物だからか、嗅覚の研究は、視覚の研究に比べてずいぶん遅れている。

 2017年にサイエンス誌に出版されたこの論文はとても面白く、普段はあまり考えたことがなかった嗅覚の進化について、私は結構のめり込んでしまった。

 嗅覚は、鼻腔の表面の嗅上皮にある嗅神経細胞で感じとられる。嗅上皮そのものの面積はと言えば、ヒトはおよそ5平方センチだが、イヌは、犬種にもよるが130平方センチもある。そう聞くと、「ほう、イヌの嗅上皮は本当に広々しているね」ということになるが、この数字はからだや顔の大きさと関連したものであって、嗅覚の鋭さとは関係ない。なぜなら、嗅覚鋭い哺乳類の代表であるネズミの嗅上皮の面積は、ハツカネズミで1.4平方センチ、ドブネズミでも6.9平方センチだからだ。そもそも、彼らはからだが小さいので鼻腔も小さいのである。

 この嗅上皮には、嗅神経細胞という感覚細胞が密集しているのだが、その数は、イヌではヒトの50倍以上にもなるそうだ。それはそうだろう、面積が広いのだから。しかし、これは末端の感覚器のことで、そこで感じ取られた匂いは、脳の嗅覚野に送られて処理されて初めて認識される。脳のその部分は、嗅球と呼ばれている。

 この嗅球の構造と機能がクセものなのだ。嗅球は、動物の種によって大きさが異なる。また、脳全体の中で嗅球が占める容量のパーセントも異なる。ヒトの脳全体に対する嗅球の割合は、たった0.01パーセントに過ぎない。それに対して、ハツカネズミでは2パーセント。しかし、それは、ヒトの脳では、前頭葉や視覚野など、他の部分が大変大きくなっているからなのだ。絶対量で見ると、ヒトの嗅球は60立方ミリぐらいなのに対し、ハツカネズミでは3から10立方ミリである。ヒトの嗅球は結構大きい。

 では、この嗅球には何個の神経細胞があるのだろうか? 驚くべきことに、それは、どんな哺乳類を見ても、みんなだいたい1000万個の桁数なのだ。1000万とは10の7乗である。ネズミ、ウサギ、サル、ゾウ、ヒトと、からだの大きさでは何千倍も異なる哺乳類各種を比べてみると、どれも、x×107で書けるのである。

 生物のからだのいろいろな部分は、普通は、からだが大きくなるほど、その部分も大きくなる。からだが大きくなると、筋肉量が増え、その筋肉を制御する神経の数も多くなる。からだが大きくなると、血流も多くなり、肝臓や腎臓も大きくなる。ところが、どんな匂いを嗅がねばならないかということは、からだの大きさとは関係がないのだ。だから、嗅球とそこに分布する神経細胞の数は、どの哺乳類でも、10の7乗のオーダーでやってきたのであって、からだの大きさとはスケールしない。だとすると、ヒトとイヌでも、これまで言われてきたような大きな違いはないのかもしれない。

ヒトの嗅覚はどれほど優れている?

 改めて考えてみて、ヒトの嗅覚はどれほど優れているだろうか? ワインのテロワールや香水の匂い、チョコレートやお醤油、辛子など食べ物の匂い、排気ガスの匂い、石油の燃える匂い、鉄サビの匂いなどなど。いろいろ考えてみると、ヒトも結構優れた嗅覚を持っているのではないか? ほうれん草とカラシナの匂いの違いは、わかる人にはわかる。最近はコロナで満員電車というのも少なくなったが、以前は満員電車に乗るたびに、私は「オヤジ臭」というものに悩まされたものだ。これは中年以上の男性が出すアントニノニンという物質の臭いである。脱臭や消臭をうたった製品がこれほど多く販売されているのを見ても、ヒトは決して嗅覚が鈍いとは思えない。

 大学生の頃に愛読していた本の一つに、ノーベル物理学賞を受賞した、アメリカの有名な物理学者のリチャード・ファインマンが書いた、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』がある。その中でファインマンは、癌で亡くなったかつての妻のアイリーンとのゲームのようなものについて書いていた。たくさんあるコカコーラの瓶の一つをファインマンが握る。それを見ていなかったアイリーンが、ファインマンが握ったのはどの瓶であったのかを当てるのだ。結構当たるという話だ。私も、これは本当だと思う。

 では、なぜ私たちヒトは、警察犬に頼らねばならないのだろう? 先の論文の著者の考察によると、それは私たちが直立二足歩行をしているからなのだ。直立二足歩行すると、鼻が地面から遠く離れていることになり、単に地面の近くの匂いを嗅ぐことができなくなったからなのだ。うちのイヌたちを見ていても、つねに鼻を地面に近づけてクンクン嗅いでいる。人間だっておそらく、そのようにしたら、イヌと同じようにいろいろな匂いを嗅ぎ分けられるのかもしれない。でも、立って歩いているからそうできないだけなのだ。地上1メートル以上の高さに漂っている匂いや、食べ物の匂い、手にとって嗅ぐ物の匂いは、ヒトだって結構よく嗅ぎ分けている。

 パトリック・ジュースキントという作家の書いた、『香水』という小説をご存知だろうか? ヒトが究極の快を感じられる匂いを追求する男の話だ。主人公の男性は、花や既存の香水などのさまざまな「良い匂い」を研究し、究極の良い匂いは、若い女性の肌から発せられることを解明する。そして、ある手段によってその匂いを抽出し、他の良い匂いと合わせて調合することに成功する。さて、その究極の香水をつけて人前に現れた主人公は……。あとは読んでのお楽しみ。衝撃的な結末です。

 しかし、ここで水を差すようだが、女性と男性を比べると、匂いの嗅ぎ分けは、男性よりも女性の方が優れている。先ほどの論文によると、ヒトの男性の嗅球に存在する嗅神経の数は、これまでに調べられている哺乳類の中ではかなり下の方だ。数の少ない方から多い方に並べると、マーモセット(南米に住む小さなサル)、ヒトの男性、ハツカネズミ、ハムスター、モルモット、ヒトの女性、マカクザル(ニホンザルやアカゲザル)、ドブネズミ、の順になる。だから、先の小説の主人公は男性ではなくて、女性であるべきなのかもしれない。

 ここでもう一度の、しかし、である。「嗅ぎ分けることができる」ということと、「嗅ぎたい」という欲求は異なるのだ。もしかしたら、嗅ぎ分ける能力は男性よりも女性の方が優れているかもしれないが、嗅ぎたいという欲求は男性の方が強いかもしれない。それは、パトリック・ジュースキントの小説に表されているように、匂いの快感が性的な欲求と結びついているからだ。

 ヒトの女性は、妊娠可能な排卵期になっても、目に見えるからだの変化は起きない。本人自身も排卵しているかどうか気づかず、意識的には何の変化もない。しかし、からだの匂いの面では、排卵に伴って確かに変化が起きている。男性は、それに気づかないよりも、気づいた方が繁殖成功度が上がるだろう。だから、進化史において、ヒトの男性は、女性のからだの発する匂いには敏感に反応するようにできており、それを嗅ぎたいという欲求も高くなっていると考えられるのだ。だから、先ほどの小説のような話ができるのだろう。

 さて、哺乳類の嗅覚について語るときに、嗅上皮と嗅神経細胞以外にも重要な器官がある。それは、鋤鼻器と呼ばれるもので、ヤコブソン器官ともいう。これは、嗅上皮からの嗅神経細胞とは独立に嗅覚を感じる器官で、嗅上皮の近くに別に存在している。以前は、ヤコブソン器官は、とくにフェロモンを感知する器官だと考えられていたが、そうと限ったものではなく、もっと一般的に、揮発性の低い物質が液体で存在するときの感知に使われているらしい。

 発情した雌イヌの匂いは独特なものであるらしい。ヒトにはわからなくても、イヌにはわかる。うちのワンコたちのお友達のアリーちゃんは、避妊していない女の子で、ヒート(発情期)が来ると、代々木公園中の雄のイヌたちが興奮する。うちのマギーは、今は生後9ヶ月でまだネンネだが、そのうちにヒートが来るだろう。その前兆があるのかないのか、コギは最近しばしばマギーのお尻を嗅いでいる。

 ヒトにもヤコブソン器官があるのか、それは機能しているのか、というのは長らく疑問とされてきた。私が院生のころには、実はヒトにもあって機能しているのだという話があった。が、結局のところ、ヒトにはこれはないというのが最近の結論のようだ。これはヒトの嗅覚の特徴でもあるが、ないからと言って、ヒトの嗅覚が貧弱だということにはならない。イヌにはあるので、イヌは、普通の嗅覚器官とヤコブソン器官の双方を駆使してこの世界を感知していることになる。

  ところで、お散歩の途中でクンクン、クンクン、絶えず地面を嗅いでいるのは圧倒的に雄である。それは縄張りの確認と関係している。自分のおシッコで縄張りをマーキングし、他のイヌがその中でおシッコをしたかどうかをチェックしてまわるのだ。お友達のイヌのおシッコの匂いはすべてわかっているようだ。見知らぬ(嗅ぎ知らぬ?)イヌの匂いがすると、なんだなんだと丁寧にチェック。そして、これも覚えておくのだろう。

クンクンするコギク(左)とキクマル(右)

匂いの識別と学習と文化

 また、イヌもヒトも、匂いの識別は完全に先天的に決まっているだけではない。学習の効果も大いにある。ワインのソムリエは生まれながらにさまざまなワインの違いを嗅ぎ分けられるわけではない。もちろん天性の能力もあるが、主に訓練の賜物だ。

 イヌも同じなのだと思う。香川県の有名な警察犬のきな子ちゃんをご存知だろうか? 警察犬の試験に6回挑戦して失敗。もうダメかと思われた最後の7回目の試験で見事に合格した。香川県丸亀警察署の警察犬、広報犬として活躍したが、2017年に14歳で他界した。彼女の努力の物語は映画にもなった。まあ、これは嗅覚だけの話ではないのだけれど。しかし、イヌがヒトなどの臭跡をたどる能力も、生まれつきどんなイヌも優れているわけではなく、訓練の影響は大きいのだ。

 うちのイヌを見ていると、キクマルは、それほど匂いを嗅ぎたがらなかった。それよりもコギクの方が嗅ぎたがる。そして、誰よりも匂いを嗅ぐのが好きなのはマギーだ。嗅ぎ分ける能力よりも前に、そもそも嗅ぎたいという欲求がどれほど強いかが違う。マギーは、靴下や靴をくわえて持ってきて、クンクン嗅いでみちみちと舐めるのが大好きだ。人がオナラをすると、必ずやお尻を嗅ぎに来る。キクやコギはこんなことはしなかった。こんな個体差も、3頭も飼わなければわからなかったことだ。

 ところで、ノーズ・トレーニングというものがある。うちで持っているのは、1メートル×60センチほどの1枚の座布団のようなものに、たくさんのポケットやヒダヒダがついていて、そこにおやつを隠すことのできるシートである。イヌは、鼻でクンクン嗅ぎながらおやつを探すのだが、嗅ぎ当てたとしても、取り出すのが難しい。シートの隠し場所はヒダの下が多いのだが、ワンコたちの手では、「めくる」ということができない。そこで、自分で考えて、どうにかして取り出さねばならないのだ。

 マギーは、親たちが仕事に出ていてお留守番の時、床のコルクをかじったり、パソコンの電線をかじったりと「おいた」がひどかったので、暇つぶしを兼ねて、このノーズ・トレーニングシートを購入した。効果は抜群で、これで本当に暇つぶしができているのか、おいたは止んだ。しかし、これを見ていても、イヌだからといって、なんでも瞬時に嗅ぎ分けているわけではないようだ。また、このおもちゃに対する興味は、コギよりもマギーの方がずっと強い。やはり、嗅ぎたいという欲求そのものに、先天的な差異があるようである。

ノーズ・トレーニングに夢中なマギー

 そして、このノーズ・トレーニングのシートの使い方である。おやつを見つけたら(嗅ぎつけたら)どうするか? イヌの手ではなかなか取れないので、工夫が必要なのだが、どうしようかと考える子もいれば、えいや、とシート自体を引き裂いてしまう子もいるらしい。

こういう解決法をこそ、「ゴルディアスの結び目」というのだろうと思う。古代地中海世界のミタンニという国で、ゴルディアスが複雑な結び目を作った。それは誰にもほどけない。ところが、アレキサンダー大王がやってきて、剣で一刀両断したという。シートの中にあるいくつものポケットに入れられたおやつをどうやって取るか? それを、全体を引き裂くことで解決するというのは、まさにゴルディアスの結び目に対するアレキサンダー的解決のように思うのだ。幸いなことに、うちのワンコたちはそうしていないが。

 こうして嗅覚についての考察を重ねた結果、嗅覚に対する興味は倍増し、何でもクンクン嗅いでみたくなった。でも、ヒトの社会では、鼻をヒクヒクさせるのは礼儀に反する。エスニック料理などのニンニクの臭いに言及したり、特定の人々の体臭に言及したりするのは、礼儀に反するだけでなく、政治的・社会的に不適切なことだ。ヒトにとって嗅覚はあまり重要な感覚ではない、ということを表明することで私たちの文化は成り立っているらしい。イヌはそれをどう感じているだろうか? そんなこと、関係ないよね。

注1) "Poor human olfaction is a 19th century myth", by John MacGann, Science 356, eaam7263 (2017)

もう飽きちゃった

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著者略歴

  1. 長谷川 眞理子

    総合研究大学院大学学長。専門は行動生態学、自然人類学。野生のチンパンジー、イギリスのダマジカ、野生ヒツジ、スリランカのクジャクなどの研究を行ってきた。現在は人間の進化と適応の研究を行なっている。著書に『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊国屋書店)、『進化とは何だろうか』(岩波ジュニア新書)、『ダーウィンの足跡を訪ねて』(集英社)、『科学の目 科学のこころ』(岩波新書)、『世界は美しくて不思議に満ちている ―「共感」から考えるヒトの進化』(青土社)など多数。

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