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美しいってなんだろう?

美しき「庭」

 つややかな若葉が空にむかってにょきにょき伸びている。花芽をつみとらないように気をつけながら、せん定ばさみをチョキチョキと動かす。
 ずっと前に庭師の友人から聞いたコツを思い出しながら、見よう見まねの日曜園芸。プロのようにはいかないけれど、のびきった葉や枝をまあるく整えていけば、それなりにさっぱりする。ひたいににじんだ汗をぬぐうと、土ぼこりと細かい草葉がざらり肌をなでていく。
 すこし切りすぎたかな。縁側に腰をおろし全体をみまわす。葉でおおわれて、暗く冷たくなっていた庭が見違えるようだ。陽の光がさし、土もこけもかがやいてみえる。木々の間を吹きぬける初夏の風。ゆれる青もみじが笑っている。
 まずまずすっきりした庭をながめながら、冷たい麦茶を飲んでいると、まぶたの裏に選ばなかったもうひとつの未来が見える。


 ぼくは装丁家にならなかったら、庭師になっていたんじゃないか、と思うときがある。
 いろんな出会いや、偶然があって、二十年ほど前から、本づくりにかかわるようになった。もちろん、この仕事は面白い。頭のなかで思い描いたものが、本という手にとれる形になり量産されるのはうれしいし、つくったものをみた人から、あらたな依頼がもらえることにも感謝している。だけど、もしも、どこかでボタンをかけ違っていたら……。
 庭は裏切らない。ていねいに世話をしてあげればあげるだけ、それなりの美しさを見せてくれる。どんなに面倒くさくても、お風呂にはいって後悔したことがないように、たった一時間でも庭そうじをすれば、一時間分の心地よさがえられる。
 本づくりはそうはいかない。何時間もなやみ、手を動かし、さか立ちしてもいいデザインが生まれないときがある。そんなときは、散歩したり映画をみたり、庭そうじしたりするにかぎる。ぼくにとって、庭がなくてはならない生活の一部になったのはいつからだろう。




 子どものころ、横浜に暮らしていた。
 「横浜」というと歴史ある港町として、しゃれたイメージを思いうかべる人も多いが、それは関内や元町、山手など一部の地域。なんてことはない。ほとんどの住民はみな、丘と谷にへばりつくようにして暮らしている。
 ぼくの町の名前は、保土ヶ谷区瀬戸ケ谷町。谷のなかにある谷だ。まわりも桜丘、富士見台、岩崎、霞台、井土ヶ谷、久保山、清水ケ丘など、丘や谷を思わせる地名ばかりである。
 家から十五分ほど歩いた丘の中腹に、祖父母の家があった。人里はなれた場所ではないが、家族はみな「山の家」と呼んでいた。

 

 山の家へ向かう途中には、まがりくねった坂道があり、雨がふったあとは、猫のように大きなガマガエルがよく現れた。両わきはヤブや笹がうっそうとおいしげる林で、日が暮れると虫たちの大合唱。うるさいくらいで、ほかには何も聞こえなくなる。
 昔からこのあたりは、台風がくるとがけくずれが起きやすく、林の奥にはいくつもの慰霊塔があった。うそかまことか、江戸時代に罪人の首を切ったという「首切り山」があり、子どもたちの探検ごっこの舞台となった。また、山には大小の防空ごうがいくつもあって、戦争が終わったと知らない日本兵が住んでいる、ひみつの財宝がかくされている、夜になると歩きだすお地蔵さんがいる……、そんなうわさ話を聞いては、おっかなびっくり胸をおどらせたものだ。
 坂をのぼりきると、右におれる細い私道があり、斜面にいくつかの家がポツポツ並んでいる。
 山の家は祖父がすべて設計したそうだ。建物は木々に囲まれ、蔦の葉にびっしりおおわれていた。和風にも洋風にも見えるふしぎな家で、玄関をはいると、一九五〇年代のおわりごろに建てたのにしてはめずらしいキッチンカウンターがあった。アップライトのピアノがあり、壁にはベートベンのデスマスクと、ウミガメのはく製。ショーケースにところせましと並べられたつぼや皿。天井は船底のようになっていて、コンクリートと木くずをまぜてつくった天板からは、ときどき草がこぼれおちてきた。

 祖父は変わった人だった。進駐軍の基地で働いたあと、八王子で車の板金塗装工場をやっていたが、五十代には引退。工場をほかの人にゆずり、落語にでてくるような「ご隠居さん」になった。
 ぼくが物心のついたころには、骨董集めと家庭菜園、手づくりパイプやてん刻にはまり、映画と本とお酒を楽しむ、仙人のような生活をおくっていた。あるころから、物書きでもないのにペンネームをつくって、「四十八(よそはち)」と名乗りはじめた。
 孫たちが、おじいちゃん、と呼んでも、ぷいとそっぽをむいて返事をしない。四十八は「おれは一生、四十八歳」という意味だそうだ。
 そんな祖父が熱中していたもののひとつが、庭づくりだった。
 桜や梅、柿などはもちろん、シュロやバショウなど南風を感じるめずらしい木もある。骨董の大きなかめには、スイレンや水草が育てられ、めだかが泳いでいる。自作の池には鯉がいて、ちいさいながらたいこ橋が渡されている。どこから仕入れてきたのか、エキゾチックな顔だちの虎の石像の口からは、ちょろちょろと水が流れる。自家製ワインをつくりたかったのだろう。つるをはわせる棚をこさえて、ブドウづくりに挑戦したこともあった。
 庭の片隅には「春眠荘」と名づけられたプレハブ小屋があった。あたたかい季節は、レコードや本をもちこみ、ここを隠れ家にしていたそうだ。
 伝え聞くところによると、一家が横浜に引っ越してくる前に住んでいた日野市の家にもちいさい庭があったそうだ。
 祖父の父、つまりぼくの曽祖父は、包丁一本で西へ東へ店をわたり歩くうなぎ職人。酔っ払っていないときがないほどのお酒好きで、仕事帰りにいろいろな動物を買ってくるくせがあった。猫、ダックスフント、カラス、ヤギ、鶏、インコ、尾なが鳥、ふくろう、猿……庭は動物園さながらで、近所の子どもたちがよく見物にきたという。
 
祖母は動物が嫌いだったので、動物が増えるたびに気が滅入ったが、子どものころの母や叔母は、おじいちゃんが連れて帰ってくる動物たちを楽しみにしていたそうだ。


 そのときよりはおちついたとはいえ、山の家の庭はにぎやかだった。犬とチャボ、ウコッケイがいて、季節のうつり変わりとともに花が楽しめるようになっていた。
 庭には記念樹もあった。庭そうじを手伝うと、いつも椿の横に並んで背くらべをさせられた。この木は多聞が生まれたときに植えられたものなんだ、年によって椿が病気になったり、花を咲かせなかったりするときは、おまえの身代わりになってくれているんだよ、と教えてくれた。
 祖母は長年俳句をしていたこともあり、花や星の名前をよく知っていた。ぼくがインドに暮らしはじめ、国際電話でしゃべったり、手紙をやりとりしたりするときは、きまって庭の植物のことが話題になった。彼女はほ乳類にはこころを許さなかったが、植物のことはまるで家族の一員のように、つねに気にかけていた。
 兄が結婚し、はじめてのひ孫が生まれるころには、マンション建設のために山は切りくずされ、土地の区画整理で畑はちいさくなり、庭も姿を変えた。祖父はすこしずつ庭を整え、おさない子どもが走って遊べるようなリーチのながい通路をつくり、桜の木の下に西洋風のベンチやテーブルをおいた。
 しばらくして祖父が亡くなり、祖母も高齢になって手がまわらなくなると、木も雑草もはえるがままにはえ、庭はあっという間にむざんな状態になった。
 
祖母はかつての美しい庭の思い出を語りながら、情けない、情けないと悔しそうにため息ばかりついていた。
 そのうち、知り合いの庭師に年に数回剪定をしてもらうようになり、かろうじて庭のかたちは保たれたが、いま思い返すと、祖父母が元気なうちに、どうしてもっと一緒に庭そうじをしてあげられなかったのだろう、と後ろめたい気持ちになる。




 二十代半ばから三二歳くらいまでを暮らしていた横浜・妙蓮寺では、建物よりも庭のほうが広い変な家に住んでいた。
 これまで三十年間も人が住んでいなかった木造平屋で、築年数は不明。壁がはがれおちているところもあり、土壁を塗ったり、障子をはり替えたり、引越し前に自分で直す必要があったが、じつは住みはじめてからの方が大変だった。
 前の住人は梅治さんという庭師のおじいちゃんだったそうだ。家の三倍はある広大な庭には何本もの梅をはじめ、松、ツツジ、モミジ、モクレンなど植木が豊富で、大きな池があり、灯ろう、つくばい、立派な庭石がゴロゴロしている。かつては手ごろなサイズだったであろう盆栽の松が、鉢をつきやぶり、土に根づき、肩ほどの高さに育っていた。


 はじめのころは、自然にかこまれてうれしい、などと友だちに自慢していたが、梅雨のころから、雑草がぐんぐん伸びてきて、夏には毎日草刈りをしないと追いつかなくなった。
 朝からせっせと草刈りをしても、家のまわりを一周するのに一週間はかかる。ようやくすべて終わると、最初に刈ったはずのところにあたらしい雑草がはえている。らちがあかないので、ホームセンターにいき、混合ガソリンで動く草刈り機を買ってきた。
 刈った草は普通のゴミに出せる量でないし、昔のように焚き火で燃やすこともできないので、庭の奥に大きな穴を掘って捨て場にした。草を集めて運ぶのは、なかなかの重労働。庭そうじ中、ぎっくり腰になって、近所の整体院に運ばれたこともあった
 いつしか、稼いだお金のほとんどは、庭の道具を揃えるために費やされ、庭仕事の合間に装丁をするような状態になった。
 このころは、仕事を受けまくって、いまの倍の量の本をつくっていた。
 どうやってやりくりしていたのか、もはや覚えていないが、庭があったことでなんとかのりきれたのかもしれない。植物にかこまれ、ときには雑草たちに憎しみを向けながらも、大地の近さを感じながら本をつくれたのは救いだった。

 

 ある春の日、妻から「赤ちゃんができたみたい」と告げられた。のぞみ待ちわびた授かりもので、わが家は梅の花が咲き乱れたかのように華やいだが、喜びは束の間、しばらくして、切迫流産、早産の危険があると知らされた。妻は不安と不調のなか、仕事を休むこととなり、絶対安静の身となった。
 具合が安定するまで、ほぼ一人で家事と仕事をこなさなくてはならない。しかし、夏の訪れとともに庭の草木は容赦なく伸びていった。門から玄関までへつづく石だたみの両脇には、ひざ上まで育ってしまった雑草が森となり、歩くたびにバッタたちがぴょんぴょん楽しそうに飛んでいた。
 ある朝、いつものように窓を開けようとしたらぴくりとも動かない。おかしいな、と思って外にまわってみたら、大小の蔦がからまるようにして窓を押さえつけていた。裏山に自生するクズやヤブガラシなどの蔦が、おしよせる波のように繁殖し、家全体を飲みこもうとしていたのだ。蔦はいくら切ってもすぐにはえてくる。おそろしい生命力に、人間はなすすべもない。
 妻と二人、縁側に座り、台風の日に豪雨を呆然と見つめるようなこころ持ちで、迫りくる植物たちをながめていた。ここ数ヶ月、お腹のなかの子にどんな名前をつけようか悩んでいたが、このとき、「つた」という名前にしようと二人で決めた。


 

 蔦にとっては、裏山も庭も隣の家も関係ない。人間がつくった境界などはかるがると飛び越え、光と水を求め、いのちのままに伸びていく。どんな状況にあっても生き抜く、たくましさとしぶとさ。
 たとえ、人の迷惑になったり、うとまれたりしてもいい。とくべつな才能や、万人に好かれる能力が備わっていなくてもいい。いのちは手に負えなくてあたりまえだ。切られても切られても、生きていってほしい。
 そんな思いをこめて名づけた赤子は、翌年二〇一一年二月のおわり、病院に行ってから二晩、分娩台にあがってから六時間という難産の末、健康な肉体をもって生まれた。
 数日後、病院を退院して、母子は妙蓮寺の家に帰ってきた。
 家の前に車を停め、門扉をひらき、おくるみに包んだ赤子を抱きかかえ、こわごわと庭を歩く。雑草が枯れ草になって足をさわさわとくすぐる。冬空につんつん伸びる梅の木には紅い花が満開で、蜜をもとめる蜂たちが飛んでいた。枯れ葉でうもれた地面にやさしい光がふりそそぎ、これからおとずれる春の予感を明るく照らしていた。


 これまで恐ろしいこと、悲しいこと、さびしいことは数え切れないほどあったし、これからもあるだろう。しかし、どうであれ、大丈夫だとおもう。ぼくの目にはあの日の庭の風景が焼きついていて、いまでも心をあたたかくしてくれるのだ。

娘 つたのつぶやき

 今日は月曜日。4月ににわであそんだ日のことを思いだしてみる。
 「ちゃんと水やりしようね」
畑をたがやしているママが言った。
 「うん」
にわの土で土あそびをしたり、ダンゴムシをつかまえたりしているわたしと弟が言った。弟が
 「つかれた」
と言って、家に入った。わたしはぐーんと上を見る。ああ、いいきもち。この間、みんなでにわそうじしたし、森のようにおいしげっていた木がさんぱつしてもらって、うれしそうに笑っている。ときどき、ふきぬける、春の風。家の庭は色々な木がうえられている。モミジ、松、梅、カキ、ツバキ。きせつごとに花や実が楽しめる。とうろうもある。
 この家にひっこす前、ひっこし先をさがしている時、はじめてこの家に来た。雪の日で、にわがかがやいていて、とってもみりょくてきだった。わたしはブーツをとってきて雪であそんだ。ママとわたしは、にわにひきよせられてしまった。そして、この家にひっこしてきた。

 わたしはまだそんなにたくさんのにわを見たことがない。
 ひいおばあちゃんと、ひいおじいちゃんのおにわは、ほとんど記おくにないし、ひいひいおじいちゃんのおにわは、なおさら見たことがない。
 ひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんのおにわをものすごくみてみたい。口から水がでるトラ、池にかかったたいこばし、西洋風のベンチやテーブル。見たくて、わたりたくて、すわりたい。
 ひいひいおじいちゃんのおにわは、動物がいっぱい。そのじだいに、わたしが生きていたら、おにわに入って動物を見て、自分のおにわも、そういう風にしたいな、って思っただろう。

 みょうれんじのおにわ、どんなだったんだろう。わたしの名前のもとになったにわ。この家に多聞たちが住んでいなかったら、「つた」という名前ではなかったのかもしれない。どんな名前になっていたんだろうか。
 みょうれんじのおにわのことは、記おくにない。けれど、6、7才くらいのとき、みょうれんじに行った。そのとき、多聞が住んでいた家はお店になっていて、家具もなくて、カフェみたいなつくえといすがおいてあるのを見て、ここが前の自分の家だったの? と思った。おにわは手入れされていたのか、よくおぼえていない。ざっ草が生えていたような気がする。

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著者略歴

  1. 矢萩 多聞

    画家・装丁家。1980年横浜生まれ。9歳から毎年インド・ネパールを旅し、中学1年生で学校を辞め、ペン画を描きはじめる。1995年から南インドと日本を半年ごとに往復し個展を開催。2002年から本をデザインする仕事をはじめ、現在までに500冊を超える本を手がける。2012年、事務所兼自宅を京都に移転。著書に『偶然の装丁家』(晶文社)、『たもんのインドだもん』(ミシマ社)、共著に『タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる』(玄光社)、『本を贈る』(三輪舎)がある。http://tamon.in

  2. つた

    2011年横浜生まれ、京都育ち。小学校は昨年から永遠の春休みにはいり、風のふくまま気の向くままフリースクールとプールと図書館に通っている。本があれば、どんな長い時間でも退屈しない本の虫。好きな映画は「男はつらいよ」。いつの日か車寅次郎と再会することを夢見ている。矢萩多聞の娘。

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