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おかあさんのミカターー変わる子育て、変わらないこころ

子育てはチームで―「私」から「私たち」へ主語を置き換える

 厚生労働省が2020年6月に発表した2019年の人口動態統計によると、合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの数)は1.36と、4年連続で低下し、少子化はますます加速しているのが今日の日本の状況です。夫婦で希望して子どもをもった場合でも、母親がもっぱら子育ての責務を負う現状はあまり変わっていません。「子育ては楽しい」「子育てもできるおとうさんは素晴らしい」といった政府のイメージ戦略とは裏腹に、1人目の子育てのゆとりのない現実に直面して、2人目を諦めるカップルもめずらしくないのではと思います。

 前回、家庭に「おとうさん」がいるなら、ぜひおかあさんの「同志」になってもらいましょうと書きました。しかし、やはり日本社会は、自分の志を主張することよりも集団の和を重んじる文化が根強く残っています。たとえ制度として可能であっても、みなが残業するオフィスから1人だけ育児のためにさっと帰宅することは難しいでしょう。新型コロナウイルスの影響下では強制的に自宅にいた男性も、社会の経済活動の再開とともに、次は暗黙の「出勤」の圧力に直面しています。

 戦後の欧米文化(自立した個を重んじる)の価値観を表層で受け入れ、深層では古来の日本の和の文化(個人より集団を重んじる)を持ち続けるダブルバインドな日本人の心の構造は、子育てにも目に見えない負の影響を与え続けていると思います。私は、自分自身の子育てにおいて体験した疑問や葛藤を理解しようと模索するなかで、その構図というか、からくりに気づくことができました。「私が」努力して頑張ることが、私個人の将来の幸せと社会の進歩(すなわち集団としての幸福)を同時にもたらすのだという信念は、とりわけ私が育った昭和後半の時代社会に生きる人々が、無意識のうちに共有していたものでした。

 自身の専門である臨床心理学に始まり、文学、社会学、歴史学、霊長類学、比較行動学、ジェンダー学など、答えを探して貪欲に本を読み、研究会などで学ぶうちに、戦後の日本が共有するに至ったその独特な信念が、勉学や仕事だけでなく、子育ての領域にも入り込んでいたために私は今このように苦闘しているのだと気づいたとき、目からウロコが落ちたように自分の主観的体験の見え方が変わり、心が楽になったのを覚えています。「どの瞬間」という特定のエピソードを思い出せるわけではありませんが、幾度も「ああ、そうだったのか」という(心理学で言うところの“A-ha” experience)体験をしました。欧米的な個人としての「私」という主体を確立し、「私」が頑張れば幸せになるという信念は、20世紀後半の日本においては男女平等の理念と輻輳し、女性である私にも育ちの過程で刷り込まれていたことが深く納得されたのです。

 今、おそらくこの連載を読んでくださっている方の多くも、「私が」頑張らなくては、という責任感をもって子育てに臨み、あるいは取り組んでこられたのではないかと思います。社会では、責任を引き受ける覚悟なく子どもをもってしまってつらい状況に陥ったり、そこから逃げ出してしまったりするおかあさんの問題がよく取り沙汰されますが、それもまた根っこを探っていけば、「私が」頑張る方式の子育てが当然とされる、同じ信念にたどり着くのではないでしょうか。「私が」(つまり世間からすれば「あなたが」)頑張るべきなのだという圧力に耐えかねて、つらい状況に陥るおかあさんに対するまなざしについても、私は見直す必要があると思っていますが、今回はそれよりも、社会からも自分自身でも気づかれにくい、責任を抱え込みすぎてしまうおかあさんの問題について、考えてみることにします。

 

 子育てにおいて、同志のおとうさんがいつもそばにいてくれたら、こんなに心強いことはありません。しかし、日本の現状では、おとうさん個人の意思にかかわらず、その実現は相当に難しいと言えます。ではどうすればよいのか。霊長類のフィールド研究からも強く示唆されるように、ヒトの子育ては母親単独では成立せず、複数の大人が同時に複数の子どもを育てる前提になっています。それはおそらく、何万年を経るあいだに、遺伝子レベルに刻まれたパターンでもあるのでしょう。

 発達行動学者の根ヶ山光一さんは、母親個人に子育ての責任が負荷されすぎる日本の現状に対する問題意識をもって、2000年代半ばから沖縄の宮古島と石垣島のほぼ中間にある多良間島での子育てのフィールド研究を行い、「アロマザリング」という子育てのしくみを再評価しています(根ヶ山光一著『アロマザリングの島の子どもたち――多良間島子別れフィールドノート』新曜社、2012年など)。アロマザリングとは、母親以外のコミュニティの構成員が複数で母業を行い、子育てに加わることを意味します。私が前述した「複数の大人が同時に複数の子どもを育てる」イメージと重なります。

 この島には、今でも子どもが生まれると「守姉(もりあね)」と呼ばれる血縁のない、もしくは遠縁の少女を選び、特別な絆を結ぶ習慣が今も生きているそうです。庶民が富裕層の屋敷に住み込む方式から、それぞれの家族での居住へという変化が進んだ江戸時代の中期に、本土でも、「取り上げ親」「名付け親」「乳親(ちおや)」「烏帽子親(えぼしおや)」といった、血縁のない大人と生まれた子どもに特別な絆を作る風習があったことが知られていますが、守姉は、それと同様の、家族外のメンバーが物理的にも精神的にも子育てを担うしくみの一つと言えるでしょう。多良間島では、祖父母や親戚、守姉以外にも、多様なメンバーが子育てに関わるシステムがあり、根ヶ山さんは、そのことが、例に挙げた本のサブタイトルにもなっている通り、親がわが子と自然に「別れ」、子どもがのびやかに自立していく大きな要因になっていると考えました。

 このフィールド研究から受け取るものが、離島の消えゆく風習へのノスタルジーや、自然回帰の生活への憧れなどであっては決してならないと私は思います。親子がお互いを尊重し、適度な物理的・心理的距離を測り、適切なタイミングで別れていくためには、子育ての主体に母親以外の誰かが複数加わることが、とても重要な意義をもっているという指摘がここには含まれているのです。現代の都市部での子育てにおいてこそ、また「私が」子育てを頑張らなければと思う女性ほど、この指摘から学ぶことは多いのではないかと思います。

 

 私自身の子育ても、最初は「私が」頑張る方式の典型と言ってよいものでした。長女が生まれたときは、1週間で退院してすぐ、おっぱいを増やす子育ての努力と同時に、今で言うテレワークを自主的に始めました。できるだけ「私の」都合でクライエント(相談者)に迷惑をかけないよう、一部の希望者には自宅で遠隔相談を行ったのです。当時はビデオ通話やSNSは普及していませんでしたから、電話が主なツールでした。相談予約の入っている時間帯に合わせて、離れて住む私の父に来てもらって赤ちゃんの見守りを頼み、私は別室に50分籠もって深刻な相談に耳を傾けるということをしていました。

 同志たる夫は、平日は深夜帰宅で傍らにはいませんでしたから、産後休暇が明けて本格的に職場復帰するまでの2ヶ月ほどの間、私は入試に新たな科目が加わった受験生のような切実さで、すべての科目を失敗しないように、少しでもよい結果を出せるように、昼夜奮闘していたような気がします。そして、職場復帰してからは、実際には赤ちゃんホームの保育ママ、保育所の先生方、同僚や友人など多種多様な人々と共にわが子を育てていたにもかかわらず、「私が」頑張らなければいけないという悲壮感は、やはり消えることなくつきまとっていたのです。

 

 ところが、この「私が」頑張る方式は、次女が生まれたときに見事に破綻しました。

 次女が生まれて4日後、以前から決まっていた1年間の在外研究のため、夫が渡欧して不在になりました。密かに、4歳離れている長女が「小さいおかあさん」になって手助けしてくれることを期待していたのですが(長女がお腹に宿ったとき私がまずわが子に抱いたイメージは「同志」でした!)、その期待は大いに外れ、4歳分退行(赤ちゃん返り)してしまったのです。

 宣戦布告とも言える場面を、今もありありと思い出します。

 退院してまもなく、友人の一人が手作りのホールケーキを持ってお祝いに来てくれたときのことです。箱を開けると、純白のデコレーションケーキに、友人が趣向を凝らして作ったシュガークラフトの白い靴が載っていました。私が「わぁ、かわいい! ありがとう!」と言い終わるか終わらない瞬時に、じっと傍らで注視していた長女がその靴をさっとつかんで口に入れ、パリパリと噛んで食べてしまったのです。

 呆気にとられた友人と私でしたが、何食わぬ顔でしれっと黙ってそこにいる長女の心中には察せられるものが十二分にありました。叱ったり、泣かれたりという場面の記憶はないので、たぶん「仕方ないねぇ」と困ってみせるに留めたのだと思います。と同時に、これからが思いやられるなぁと漠然と感じていました。

 その予想は的中し、そこからまるで育児の教科書に書かれている通りの、いえ、それを遙かに超えたスケールの退行が始まりました。たとえば、ベビーベッドに次女を寝かしていると、いつの間にか柵を外して次女を下に降ろし(やっと寝かしつけたはずの次女は泣いています)、代わりに自分がそこに上がって、哺乳瓶に入れたミルクを寝転んでチュウチュウ吸っている。ベビーバス代わりの洗面所の大きなシンクにお湯をはって沐浴の準備をしていると、先に自分が裸になってよじ登り、体を折りたたんでそこに浸かっている、という具合です。今ならそれらを微笑ましいエピソードとして思い浮かべられますが、物理的に「私」しかいない当時の子育て状況で、あと一滴の水でバケツが溢れそうな緊張感のなかでは、それら一つひとつが心の折れる体験でした。

 とりわけ、ほとんど毎夜のおねしょが始まったのには泣かされました。長女の許しを得て告白すると、この退行(対抗?)は、私が育児休暇を利用して娘たちと一緒に夫の留学先に滞在した夏の2ヶ月ほどだけを除いて、その後9年あまりも続いたのです。いろいろ勉強したり、病院に連れて行ったり、対応を工夫したりしてみましたがどれも甲斐なく、私は毎朝シーツとパジャマをまるごと洗濯するよりありませんでした。

 私が学んだ教訓は、自分が努力するだけではどうにもならない子育ての現実がここにあるということです。小学校に上がってから診察を受けた小児科医からは、「いわゆるおねしょですね」と説明されました。カウンセラーでもある私の頭の中では、それは「愛情が足りないせいですね」と翻訳されて響きました。足りていないことは明らかだと思いましたが、十分に出なかったおっぱいと同様、「私が」頑張っても無理なものは無理で、白旗を掲げざるを得ませんでした。

 

 冒頭にも書いたように、これらの体験とそれを理解しようとする一連の模索を通して、私はある時期から、「私」という個人を主語に据えること、それ自体を相対化する必要に気づいて自分を追い詰めることなく、おおらかに構えられるようになっていきました。足りないものは、誰かに足してもらえばいい。私は娘たちを信頼して託せる場を積極的に探し、共に育ててくれる人に心から感謝するようになりました。

 たとえば私が出会った保育ママの先生は(この方は教師の経験があり、働く母親のたいへんさも身をもってご存じでした)、産休明けから預かった大勢の子どもたちが大きく成長するまで、保育だけでなくしつけも教育も担ってくださる方でした。同僚には子育て経験者の女性が複数いて、感染症後の自宅待機期間でどこにも預かってもらえない娘たちをやむなく職場に連れて行くと、代わる代わるわが子のように世話してくれました。小学校低学年時代は、近所に住む働くママ友も頼りになる存在でした。早朝から泊まりの出張に出ないといけないときは、前夜のうちに着替えの入ったかばんと翌日の用意が入ったランドセルを背負った娘をそこへ泊まりに行かせました。翌日は、娘はその家の友達と一緒に登校し、学校が終わったら学童保育所やおけいこの塾で夕方まで過ごし、夜は慣れ親しんだ保育ママの先生宅に帰って、晩ご飯を食べお風呂に入り、そこへ私が迎えに行くという「リレー」のような状況もよくありました。

 そんな、にぎやかであわただしい日々を重ねるうち、結果的に長女のおねしょは課外活動の初めての合宿を目前に、ある日突然終わり、二度と再燃することはありませんでした。後になって「なんで治ったんだろうね?」と問いかけたところ、「さあ、幸せになったからじゃない?」という答えがあっさり返ってきました。じゃあ、それまでは不幸だったのか、と突っ込みたくなるところですが、娘のなかで時が満ち、何か得心がいったタイミングだったことは確かな気がします。

 

 「私が」頑張れば、あるいは「私が」頑張りさえすれば、という意識のあり方は、受験勉強や仕事の業績作りにはある程度有効かもしれませんが、生きている人を対象とする営みにおいては、こと子育てにおいては、ときに逆効果で、むしろマイナスの影響を及ぼすこともあるのではないでしょうか。ヒトとして、動物として、子育ては誰か個人の幸福や達成のために行う営みではないのだという当たり前のことに気づいたとき、「私は」どうしたいのか、何をすべきかと考えるのではなく、「私たちは」どうするのかと考えることが、私にも少しずつ自然にできるようになりました。

 ここで言う「私たち」とは、抽象的な多数者のことではなく、先ほど挙げた例のように、目の前の子ども(たち)を育てる複数の大人のことです。さらに言うと、価値観や目標や方法を共有し、協働できる「チーム」を指しています。私は、娘たちを共に育ててくれるチームのメンバーがいなかったら、とても一人ではやってこられなかったと思いますし、そのような子育てによって子どもたちにも多くの見えない財産を残せたと信じています。昔も今も、離島でも都市部でも、実は子育てはチームで行われるものだということを意識し直し、「私」ではなく「私たち」を主語にして考えることが、ますます必要になっているのではないでしょうか。

 

 補足として紹介しておくと、このような実証的研究の知見もあります。

 小児・思春期専門の精神科医で、子育て支援の実践も長く続けてこられた原田正文さんは、ご自身が担当した「大阪レポート」と呼ばれる大規模調査(一市の1980年生まれのすべての子どもを対象として、小学校入学後まで追跡したもの)と、「兵庫レポート」と呼ばれる2003年の大規模調査(同様に、一市の2000年~2003年生まれの子ども全部を対象としたもの)を詳細に比較分析するなかで、20年間の子育て現場の急激な変化を明らかにするとともに、自己効力感(self-efficacy)が高いと自己評価する母親は子育てで困難を感じやすく、またそのような母親の子どもは発達が遅れているという傾向を見出しています(原田正文『完璧志向が子どもをつぶす』筑摩新書、2008年)。

 自己効力感とは、「初めはうまくいかない仕事でも、できるまでやり続ける」「重要な目標を決めたら最後まで成し遂げる」「人の集まりの中では、うまく振舞える」「思いがけない問題が起こった時、それをうまく処理できる」などの項目で測られる特性であり、高い方が職業上の達成につながることは一目瞭然です。しかし、子育てにおいては、この特性が高いほうが、自分で頑張ろうとして孤立し、子育てのストレスを感じやすく、また子どもの能力も、統計的には有意に低くなるというのです。つまり、「私が」頑張りさえすればできるはずと思って子育てに臨む母親ほど、子育てはうまくいかないという可能性が示されているわけです。

 私は幸運にも娘たちを育てるチームに恵まれ、後からそのことに気づいたのですが、これからの時代に子育てに臨むおかあさんたちには、ぜひ最初からチームで育てるという意識をもっていただけたらと願っています。

 かつて、このような話を子育て支援のセミナーや講座ですると、「そんなことを言う人がいるから、若い母親が努力しなくなるんだ」と苦言を呈する年長の参加者(たいてい男性)が必ず一人はいて、残念に思ったものです。今なら、「去年のラグビーのワールドカップを思い出してください」と語りかけるところでしょう。歴史的大健闘を果たした日本代表チームが掲げたスローガンは「ワンチーム」でした。ボールをゴールに運ぶためにそれぞれが自分の役割を果たしつつ呼吸を合わせて進んでいくとき、誰一人、甘えて手を抜いている選手はいません。そこには、個人競技とは質の異なる努力とその醍醐味があり、ゴールにたどり着いた喜びがあるということを、子育てをほぼ終えた今の私なら、少しばかり自信をもって言えそうな気がしています。

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著者略歴

  1. 高石 恭子

    甲南大学文学部教授、学生相談室専任カウンセラー。専門は臨床心理学。乳幼児期から青年期の親子関係の研究や、子育て支援の研究を行う。著書に『臨床心理士の子育て相談』(人文書院、2010年)、『自我体験とは何か』(創元社、2020年)、編著に『子別れのための子育て』(平凡社、2012年)、『学生相談と発達障害』(学苑社、2012年)、『働くママと子どもの〈ほどよい距離〉のとり方』(柘植書房新社、2016年)などがある。

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