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京都不案内

京大周辺建築案内

 うちの3人の子どもは中学の修学旅行が京都と奈良だった。みんな、「いにしえの都というからどんなに古い町が残っているのかと思ったら、お寺以外はビルとマンションじゃん」と帰ってきた。ただ、どの子も「小グループタクシー観光」の運転手さんの親切には感激したという。引率の先生は宿で待機するだけで、手抜きじゃないか、と親としては思う。
 今から30年前に、私は京都で行われた「全国町並みゼミ」に参加し、京町家の驚くべきテンポでの消失を知った。それまでゼミは過疎が進む町村で開かれることが多かったが、その時初めて、固定資産税や相続税の高い大都市圏で古い建物を残すことの大変さが話し合われたように記憶している。その後、古い町家を残そうと「京町家再生研究会」が発足し、現在も活発な活動を続けている。
 とはいえ、2015年から再び京都を丁寧に歩いてみると、案外古い建物が残っているものだ。目的のないぶらぶら歩きで出くわす建物も多い。民家はもとより、いわゆる洋風建築にも事欠かない。

 私の京都滞在を知った友達が東京から訪ねてくる時、案内するコースは次の通り。まずは京都大学農学部の並木道、そこに沿っていくつか古い長屋があるが、蔦のからまる農学部の表門・門衛所(森田慶一、1924年。以下カッコ内は設計者と建築年)はドイツ表現派の影響が見られる。国登録有形文化財。
 私は8年間、文化庁の文化審議会委員として、文化財保護の会議に毎月出て、たくさんの有形文化財の登録に携わった。新聞はたいてい、「国登録文化財に指定された」と書くが、正しくは「国有形文化財に登録された」である。国は上からの指定しかしないと思っている人がいまだに多い。他にも重要伝統的建造物群保存地区は市町村からの申し出を受けて国が選定、世界遺産は政府の推薦、世界遺産委員会の審議を経て登録される。
 農学部構内に入ると、早朝など馬術部の学生が馬を引いて歩いていて、このカッポカッポという蹄の音が嬉しい。一度名前を聞いたら「アナスターシャ」とロシアの皇女と同じだった。その奥の方に、バンガロー風の平屋の建物、旧農学部付属演習林事務室(大倉三郎、1931年)も国登録有形文化財である。
 早朝の気功の後、北白川の住宅街、というより、東京ならば邸宅街だが、低層の建物の中から塔がぬっと見える建物は、武田五一と東畑謙三による設計の東方文化研究所(1930年、現東アジア人文情報学研究センター)。東方文化研究所と西洋文化研究所、旧人文科学研究所は統合されて、人文科学研究所となっている。
 蛇足を言えば、人文科学研究所は公開講座を開いており、市民も参加できる。一度、たまたま夜が空いていたので、「京都から見た近代仏教」というテーマに興味を惹かれ参加してみた。京都でも文明開化期の廃仏毀釈の波は大きく、例えば建仁寺(四条)の境内はよほど縮小されて今の花街祇園になってしまったこともわかった。本願寺派の若い僧侶たちは、京都にいても宗派の危機は乗り越えられない、と東京進出を図り、本郷で『反省会雑誌』を始める。これが現在の『中央公論』の前身だ。そんな面白い話を聞いた。
 今出川通りを挟んで、京大の本部キャンパスに入ると、時計台とみんなが呼んでいる建物は武田五一設計(1925年)、なかには大学史に関する資料等を展示する歴史展示室や、ラ・トゥールというレストランが入っている。
 ともかく、京大関連では11の国登録文化財(建造物)があるという。重要文化財の清風荘(旧西園寺公望私邸)もいずれ拝見したい。京大YMCA会館地塩寮も登録文化財で、次に紹介するヴォーリズの設計だが、京大の管理ではない。

 さて、旧東方文化研究所から小暗き白川疏水べりに降りてずっと北方向に行くと、明るいスパニッシュ様式に赤瓦の駒井邸に出る。駒井卓という遺伝学者・京都帝大教授が夫人の静江さんと住んだ家で、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計(1927年)。ヴォーリズは伝道者、社会事業家でもあったアメリカ人で、近江兄弟社を作り、建築、学校教育、医療、福祉などにもつくし、1000棟をこえる建築を残した。今も一粒社ヴォーリズ建築事務所として続いている。四条大橋南西の東華菜館もヴォーリズの設計(1926年)。夏になって鴨川に納涼床が設けられたら、建物を見上げながら中華料理を楽しみたい。
 滋賀県の近江八幡に行くと、ヴォーリズ作品がかなり残っている。私の息子が宮大工の修業中、最初に修復に関わったのが近江八幡にあるウォーターハウス邸(1913年、国登録有形文化財)だった。駒井邸も細部まで丁寧に作られた繊細な建物で、私は紫色のクリスタルのドアノブや階段室のステンドグラスなど、見とれてしまう。現在は日本ナショナルトラストの財産で、日を決めて公開されており、ゴールデンウィークに行った時に案内してくれた方は京都市の職員だった。その並びにも京都帝大教授がかつて建てた家がある。
 一説には、大正から昭和初期の帝国大学教授の給料は、現在の貨幣価値に換算すると4500万円くらいだという。東京大学に勤める友人は、1000万円もこえたことがないといい、しかも年々減る一方だと嘆く。それまで地名がつかなかった唯一の帝国大学に東京帝国大学とついたのは、明治30年に日本で二番目の帝国大学として京都帝国大学が創立された時である。最初の頃の教授たちは、相国寺のあたりに住み、その頃は北白川なんて肥臭い農村だったというのである。確かに白川女という女たちが、花を頭の上に乗せて売り歩く絵を見たことがある。紺木綿の筒袖の裾をからげ、頭には白い手ぬぐいを巻いて。最後の白川女という人が2007年まで生きていたそうである。
 その後、白川あたりの開発で農村は都市に変わり、京都大学教授が家を構えるようになる。現在では北白川辺りは手が出なくて、「僕ら、滋賀県民や」と友人が言うように、車で20分も上がると比叡平という住宅地に大学教授が多い。ただ、今でも白川通沿いの裏手の道沿いに、結構畑があって、かつての農村の面影が想像できる。

 あるときたまたま、宿舎に帰るときに横丁をのぞくと、白い囲いの奥にとんでもない巨大な廃屋が見えた。窓は敗れ、蔦がからまっている。近所の方に聞いてみた。「あれは光華寮と言ってね、かつての中国人留学生の宿舎です。戦後、台湾が購入したものだけど、所有権をめぐって台湾と台湾の正統性を認めない中国との間で係争中で壊せないらしい」とのこと。ここでもまた現代史の証言を見てしまった。この話をフェイスブックに載せると「あそこに恋人が住んでいたのでよく訪ねました」というメールが来た。
 またある時は、吉田山の麓で立派な洋館を壊しているという情報が入り、すぐ駆けつけたところ、熊倉工務店という1897年設立の由緒ある企業が作ったもののようである。若い人たちが、モルタルスタッコ仕上げの外壁の下に貼られたモザイクタイルを丁寧に剥がしていた。現在の持ち主にお話を聞いた。「最初に建てた方は息子さんが3人いて、京都大学に入ったらここに住まわせようと思っていたらしいんですが、誰も京大に行かなかった。それで私の父が譲り受けてここで出版社をやっていました。父は岡田虎二郎先生の静坐の弟子で、京都での静坐の会の世話役もしていたようです」とのこと。岡田虎二郎は田中正造や画家の中村彝(つね)もその道場に通った人で、東京日暮里の本行寺に墓がある。持ち主の女性は自分一人なので、もう少しコンパクトな、利便性のある住まいに建て直す、ということだった。

 本当に犬も歩けば棒に当たる。あるとき、宿舎から道を渡った向こう側の横丁のお屋敷が売りに出て、チラシが入っていた。敷地146坪で建坪71坪、1億1500万円。私には到底手がでないが、東京なら数倍すると思う。何と藤井厚二設計。藤井厚二(1888〜1938)は広島県福山市の裕福な酒造家の家に生まれ、東京帝国大学建築学科を出て、最初竹中工務店に勤めた。1920年から京都帝国大学の教授を務めながら、小住宅の設計に才能を発揮した。通風、採光、洋風の生活の日本家屋へのなじませ方など、環境工学を取り入れた先人である。早速見学に行った。これまた、丁寧でセンスの良い住まいである。不動産屋さんも「できたら壊さないで使ってくれる方に」と言っていた。
 藤井厚二は大山崎に一万坪の土地を買い、住宅を建てて住んでは人に譲り、4棟建てた。最後の一つ、藤井が最後の10年を暮らした聴竹居(1928年)は現在、竹中工務店の所有であり、社員の松隈章さんが保存と管理の中心をになっておられる。本当に繊細な造りで、部屋も家具も小ぶり。私はこの家はできるだけ静かにそうっと、どこにもぶつからないように歩く。紅葉の多い庭も素晴らしい。
 藤井厚二の生まれた郷里福山の山の上にも彼が設計した住宅が一棟ある。東大の大月敏雄さんや京都女子大の北尾靖雅さんと福山で街並みの調査をした帰り、松隈さんに連絡すると、持ち主さんが今おられるので拝見できるそうです、と間を取り持ってくださった。これは、福山出身の方が、リタイア後を過ごす家として見事にリフォームされ、海の見えるお座敷でお茶をご馳走になった。
 京大と敷地を接する、売りに出されていた家は1927年の池田邸だとわかった。大趣味人でもあった藤井が49歳で没したのは惜しいことである。

 京都に来たときは、せっかくだからと、国立京都国際会館(大谷幸夫、1966年)、都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)の佳水園(村野藤吾、1959年)、そして妙にリノベされてしまった京都会館(前川國男、1960年、現ロームシアター京都)など、京大周辺以外の戦後の建築物も見て歩いている。
 「静かな昼下がり、京大近くの進々堂で本を読んでいます」とメールしたら、編集者の友人が「まあ、なんて優雅な響きでしょう」と返信をくれた。この建物は創業者続木斉の設計、施工はやはり熊倉工務店(1930年)。漆芸家、木工家の黒田辰秋の分厚い卓が私を昔に連れていってくれる。

京都の人のつぶやき

洋風建築といってもいろいろだが、煉瓦造は勘弁してもらいたい。なぜなら、ここは京都である。兼好さんが「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」と言わはった京都である。海辺の街の高校生だった頃、私は兼好さんの意図するところがまったくわかっていなかった。ましてや北国のひとには意味不明だろう。答えは、7月の京都にあった。蒸し風呂というよりもお湯のなかを歩いているような感覚。これか!こういうことか!と腑に落ちたのだった。(もう一人の編集担当Yの談)

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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