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日本の「空気」――ウスビ・サコのコミュニケーション論

空虚な「マナー」

日本人の規律正しさや、マナーのよさは国外でも評判です。とくに、どんなに長い行列でも、誰ひとりとして割り込みをしないことには驚かされます。テーマパークのアトラクションに1、2時間並ぶことなどあたりまえで、日本人の忍耐力には驚嘆します。行列は、日本人にとっては、みな平等に守らなければならない義務です。お年寄りだろうと、妊婦さんだろうと、よほどのことがない限り、すべての人が順番を守らねばなりません。

しかし、日本人が陰ではルールを破っているのをはじめて見たとき、非常にショックを受けました。日本に来て最初に驚くのは、道にゴミが捨てられておらず、非常にきれいだということです。ところが、人目のつかない場所では、車からゴミを捨てる人をよく見かけます。自分に対して厳しいマナーを課しているというよりは、他人との関係のなかでしかたなくルールを守っているようにも見えるのです。今回は、日本人のマナーとルールについて、書いてみようと思います。

無限ループする車内アナウンス

私の息子たちは、妻が中国に駐在していた都合で、長らく北京のフランス人学校に通っていました。帰国後、次男は地元の小学校、長男は「帰国生徒教育学級」のある中学校に通うことになりました。後に次男も同じ中学校に進みました。その中学校では、帰国したからといって日本に染まりきるのではなく、国外で身につけた特長を活かしながら、言語や文化の壁を乗り越えて徐々に日本にランディングしていくことが重視されていました。

学級の年間行事に、生徒が日本に帰って来て感じたことをスピーチするイベントがありました。ある生徒が日本のマナーについて語っていたのがとても印象的でした。その生徒は、日本の電車のなかで、乗車マナーのアナウンスがくりかえし何度も流されることに疑問をもったのだそうです。わざわざアナウンスしなければ、日本人は自ら進んで気配りのある行動を起こせないものなのかと語っていました。

たしかに、日本で電車に乗ると、「お年寄りや体の不自由な方、妊娠中や乳幼児をお連れの方がいらっしゃいましたら席をお譲りください」「携帯電話の電源はお切りいただくか、マナーモードにお切り替えください」など、絶えずこれをしなさい、あれをしなさいと指示されます。アナウンスだけでなく、優先席マークや注意書きなどで車内が埋めつくされてもいます。

そのほかの生徒も、日本人の行列についての疑問を語っていました。ある日、電車の切符売り場の行列におばあさんがやってきたとき、あきらかに大変そうなのに、列に並んでいる人は誰ひとりとして、順番を先にしてあげたり、手助けしてあげたりしなかったそうです。その生徒がかつて住んでいた国だったら、すぐに誰かがおばあさんを連れて、先に通してあげようとするだろうにと語っていました。

しかし、日本では、先に並んでいる人には先に購入する権利があると考えられています。スーパーのレジの列でも、お年寄りが来たからといって順番を譲る場面を見たことがありません。また、優先席ではない通常の座席に座っている人のほとんどが、ひたすらうつむいて、絶対に目のまえのお年寄りや妊婦さん、体の不自由な方を見ようとしません。あきらかにその方々が大変そうであるにもかかわらずです。こういった日本人の習慣に、困惑する外国人は少なくありません。

たしかに日本人は、決められたルールに忠実ではありますが、裏を返せば、指示されなければ行動に移せないともいえます。また、どのような状況でも自分の権利を譲りたがらないことが多いように思います。

ルールへの盲信

ある日、私が新幹線に乗っていたときのことです。斜め前の4人組が席を向かい合わせにして座り、ビールを飲んでいました。お酒の酔いもあってか、かなり騒がしくしていたので、私はイヤホンで音楽を聴きながら、ひと眠りすることにしました。

ところがです。しばらくすると誰かが私を起こしにきました。顔をあげると、それは車掌さんです。「ちょっとあなたのイヤホンの音が漏れているので、迷惑になっています」と注意されました。私は思わず目を丸くして、斜め前の4人組を見つめてしまいました。あの人たちが騒がしくしているのはいいのだろうか⁉ 言葉には出しませんでしたが、それがそのときの正直な気持ちでした。車掌さんが去ったあとも、4人組の騒ぎ声は車内にこだましていました。

もちろん、私がイヤホンから音を漏らしていたことは大いに反省すべきことです。しかし、私よりも大きな音を出している人がすぐそばにいるのに、そちらは注意されないことが理解できませんでした。

飛行機の荷物棚をめぐって、日本人がトラブルを起こす姿も目にします。キャビンアテンダントはたいてい、「空いている棚をご利用ください」とアナウンスします。つまり、空いているならばどの棚に手荷物を入れてもよいはずなのですが、自分の座席の真上の荷物棚は自分のものだと考え、占有することに尋常でないこだわりをみせる人がいるのです。

座席の上の棚に別の人の荷物が入っていると、「誰が入れたんだ!」と怒り出す人さえいます。そして、たいていキャビンアテンダントを呼びつけて、文句を言い出します。しかし、座席の真上の棚を占有できる決まりなどないため、キャビンアテンダントは困ってしまいます。「ビジネスクラスの棚が空いているようですので、お客さまのお荷物はそちらで預からせていただきますね……」などと、対応するしかありません。無事、別の場所に荷物を置けることになっても、「なぜ私のところに他人の荷物が……」と、フライト中もしばらくぶつぶつと怒っています。

形骸化したマナー

多くの日本人はルールへの執着が強すぎ、また、柔軟にネゴシエートすることが苦手なのかもしれません。私は、コミュニティのなかで共生するためには、空間の利用をめぐるネゴシエーションが欠かせないものと考えています。そのためには、言語化・指標化されていない状況を適切に把握し、自分自身で判断し、行動しなければなりません。日本人はパターン化された「空気」を読む力には群を抜いて長けていますが、その「空気」に身を任せることがほとんどのため、その場その場で起きている個別の状況へ柔軟に対応する経験をあまり積むことができないのでしょう。

日本では、マナーの出発点が、ルールや他人の目、あるいは「空気」なのです。しかし、マナーとはそもそも他者への気づかいや共生の作法のはずです。日本人のルール至上主義は、人間としての感覚を麻痺させてしまっているようにすら思えます。

マナーとは、習慣に基づく身体化された礼儀・作法です。本来は車内アナウンスのようなものでリマインドする必要はないはずです。毎日乗る電車で、毎日アナウンスする必要があるということは、日本人のなかでマナーが身体化されていないことを物語っています。それどころか、アナウンスがくりかえされるあまり、かえってただのBGMと化してしまい、誰の耳にも届かず、ただ「うるさい」だけになってしまっていることも否定できないでしょう。

アナウンスが効果を発揮することも、たまにはあります。車内でルール違反をしている人がいるときにアナウンスが流れると、周りの人はその人に視線を送り、無言の圧力をかけるのです。ルール違反をしている人も「他人の目」には弱いものですから、きちんとルールを守り出すことが多いのです。しかし、行動原理が自分の内部ではなく、外部にあることに変わりはありませんので、その場しのぎの効果しかないのですが。

「大人が口をはさむ問題ではありません」

息子が北京から日本に戻って来たとき、日本の文化に慣れていないせいで、さまざまなトラブルが起きました。

息子が通っていた中学校では、買い食いが厳しく禁止されていました。しかし、ある日の下校中に、先輩が買い食いしているところを目撃したそうです。息子が、「え? 〇〇くん、買い食いしてるや~ん!」と、先輩に向かって言ったところ、相手を激怒させてしまいました。学校に告げ口されると思ったのでしょうか。おそらく、上下関係を重んじる日本の文化をふまえると、見て見ぬふりをするのが賢明だったのでしょう。彼は「それが先輩に対する口の利き方か!」と、息子の首を絞めたり、殴りかかったりしたそうです。近くにいた駅員さんが止めてくれたことで、何とか事態は収まりました。息子はそのまま家に帰ってきて、何食わぬ顔でゲームをしていましたから、その時点では、私は何も知りませんでした。

しかし、駅員さんまで巻き込む事態になったため、学校に通報が入ったようです。その夕方のうちに学校から電話がかかってきました。
「ちょっと大変なことがありまして……。大変申し訳ございません……。」
「え? 何があったんですか?」
「申し訳ございません。また明日、詳しく説明いたします……。」
私は面倒くさいなあと思いながら、翌日学校へ行きました。まずは校長先生が出てきて、あれこれとややこしく説明されました。要は、向こうの親御さんが謝りたいと言っているから、会ってもらえるかということだったので、
「まあ、いいですけど」
と、了解して、お会いすることになりました。その親子はやってくると、深いお辞儀をしました。この度はどうのこうのと、非常に丁寧に謝られました。

私は状況をよく飲み込めず、正直なところ、驚いていました。そこで、
「この状況、おかしいんじゃないの?」
と、素直に思ったことをその子に向かって言いました。周りにいた大人たちは、え?どういうこと?という様子で、戸惑っていました。

「あなたが殴ったのは、私の息子の先輩への口の利き方が悪かったからですよね。彼は日本に帰って来たばかりで、先輩・後輩という文化を知らず、どうやってふるまうべきかわからない。でも、あなたは息子の先輩ですよね。だから彼に、先輩との接し方や口の利き方を教えるのは、あなたの義務のはずです。あなたが彼に教えてあげないとわからないのです。これから、あなたが先輩としてちゃんと教えてあげてください。これは、われわれ大人が口をはさむ問題ではありません。これから息子の教育はあなたに任せます。ありがとう。では、私は帰ります」
そう言って、私はさっさと家に帰りました。

私に会う前、その先輩は規則に則って反省文を書かされたことでしょう。そして、型どおりに丁寧な謝罪をしてくれました。しかし、ルールを押し付けたり、かたちだけの反省をさせたりしたところで、本質的には何も解決しないのではないでしょうか。何が悪かったのか、なぜこのようなことになってしまったのか、子どもたち自身に考えさせることこそ必要なのです。

きちんと冷静かつ柔軟に考えることができていれば、発作的にカッとなって殴ってしまうのではなく、「そういえば、こいつは帰国生徒だから先輩への口の利き方とか知らねえよな」という状況把握ができたはずです。そもそも私の息子には、その先輩を非難する気などまったくありませんでした。学校で買い食いしてはいけないと散々指導されていたのにもかかわらず、はじめて買い食いしている人を目撃して、「だめだと教えられたのになぜ⁉ しかも自分より一年も長く教育を受けている先輩が⁉」と、純粋に混乱しいていただけなのでした。

日本では、子ども同士で学びあえば済むような話も、いちいち学校を経由します。しかし、そうするとルールだけが増加・定着していって、子どもが自分で考えたり、本当の意味でのマナーを身につけたりする機会が奪われてしまいます。日本では、「他人の目」がないとルールが機能しません。そのため、ルールを守ることそのものが目的化してしまい、誰も見ていないところではルールを破ってもかまわないという思考が根付いてしまうのです。

共生社会のマナー

ルールに依存しすぎると、相手のことを想像したり、状況を的確に捉えたり、責任をもって行動したりする能力が育ちません。先に座った私には権利があるといって電車の座席を必要な人に譲らないことや、行列の順番を柔軟に変更できないことも、そこからきているように思います。また、日本では明確にルール化しなければいけないと考えられているふしがあります。しかし、はっきりとルール化しすぎてしまうと、一人ひとりが思考する余地がなくなり、クリエイティビティは育まれません。

もっと自分で責任をとる機会が必要です。「ルールだから」と受け身になって思考停止するのではなく、「今はこういう状況だからこうする」と主体的に判断し、柔軟に行動することこそが、共生社会のマナーなのですから。

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