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進化生物学者がイヌと暮らして学んだこと

イヌを契機に「母性行動」全開

 キクマルが我が家にやってきたのは2004年の8月。生後3ヶ月の時だった。もともと、その年の2月に、私が東京大学農学部獣医学科で非常勤講師として集中講義をしたことがきっかけで、キクマルをもらい受ける話になったのである。ところが、そのころの私は早稲田大学政治経済学部に勤めており、渋谷区富ケ谷のマンションとは別に、千代田区二番町のマンションに住んでいることが多かった。

 そういうわけで、初めてキクマルを我が家に連れてくるときには、夫が一人で迎えに行った。その後も、私は、キクマルが2歳ぐらいになるまで、彼と長く一緒にいることはあまりなかった。キクは本当に綺麗で、性格も素直ないい子だった。イヌを飼うのが初めてということもあり、キクの体調に一喜一憂しながら可愛がった。それでも、真の意味で「子どもが可愛い」というような感覚を私は持てなかった。

 こんなことを言っているのは、今、「子どもが可愛い」という感覚がどんなものか、私によくわかるからである。それは、コギクによって誘発されたのだ。その前と後では、「可愛い」という感情に雲泥の差があることを、今の私はよく知っている。

 コギクは、2015年の1月1日生まれ。その前年の秋にはもう、キクマルの姪っ子ジャスミンに子どもが生まれたら、1頭もらうことを決めていた。その時には私は、早稲田大学から総合研究大学院大学に職場が移り、今度は、週の半分を葉山で暮らす生活だった。

 コギクを迎えに行ったのは、3月28日。このときは私も一緒だった。帰りの車の中では、最初はキクと同じく後部座席にすわらせていたが、キクがなんだか迷惑がってウーウーと唸る。それで、途中からコギクを前に移動させて、私が抱っこして帰ることになった。まだ小さくて(と言っても7.4キロ)、くるくるした毛が柔らかく、からだのぬくみが気持ち良かった。

 こうして、富ケ谷のマンションで、キクマルとコギクの2頭を飼う生活になった。しかし、富ケ谷のマンションは、もともと、大型犬がダメなのに、キクマルを特別扱いで除外してもらって飼っていたのである。2頭となると、さすがに迷惑だろう。そんなとき、ほんの数百メートル先の、神山町のマンションが見つかった。大型犬でもなんでも、何頭でも飼ってかまわない。ただし、迷惑をかけない限り、という自由民主主義の権化のようなマンションである。

 そこに引っ越したのが、2015年の12月。神山町のマンションの方が面積も広く、大型犬が2頭いても十分だ。まだ1歳にもならない小さなコギクは、やんちゃで、いたずらっ子で、言うことをきかない、キクマルとは正反対の「悪魔ぶり」を存分に発揮した。私の靴をかじる、置き物を壊す、花瓶の花をバラバラにするなどなど、何度コギクを怒ったことか。ところが、ある日私は、コギクに対して深い深い愛情を感じている自分を発見したのだ。心の底から湧き上がってくるような暖かい感情で、同時に、「この子は絶対に私が守るぞ」という決意のようなものも混じっていた。

 今では、いつそんな感情を持つようになったか定かではないのだが、覚えているのは、コギクの「おいた」を叱ったあとで、シュンとしたコギクを抱いていたら、私の腕の中で寝てしまったことだ。そんなことが数回はあったと思う。そのときのコギの肌のぬくもり、スースーという寝息、すっかり信頼した様子で私の肩に頭をのせて眠っている無邪気な顔。そんなこんなの刺激が、私の脳に劇的な変化をもたらしたに違いない。それ以降、先ほど書いたような、深い深い愛情が生まれたのだ。


コギクに愛情のこもった眼差しを注ぐ長谷川眞理子さん。左上はキクマル

 ところが、話はそこで終わらなかったのである。この話は、どこか別のところでも書いたのだが、もう一度振り返ってみたい。私はもともと、人間の小さな子どもがそれほど好きではなかった。できれば、かかわりを持ちたくないと思っていた。私たち夫婦に子どもはいない。二人ともずっと忙しく仕事をしてきており、研究生活に邪魔が入るのは嫌だということもあった。とくに子どもが嫌いだというわけではないが、飛行機や電車の中で小さな子どもが泣いていると、嫌だなと感じたものだ。

 ところが、である。コギクに対して、深い深い愛情を感じるようになったあとのある日。逗子に行く湘南新宿ラインの中。同じ車両の少し離れた場所で、小さな子どもがむずかって泣いていた。かなり大声で泣き続けていた。私はと言えば、例によってパソコンを開いて仕事をしていたのだが、なんと、その泣き声を嫌だと思うどころか、「あれれ、あの子はどうしちゃったのかな?」と心配している自分を発見したのだ! 

そして、泣いているその子の様子をこの目で見たいという欲求を感じた。少し離れているので、実際にどうしているのか見えないのがもどかしいのである。これには自分で自分に驚いたのだが、その後は、街中でも電車の中でも、小さな子どもが泣いているのに出会うと同じ感情にかられる。できれば、そばに行ってあやしてあげたいと思う。泣いていないなら、それで結構。どの子もみんな可愛いと思う。やれやれ、私って、こんな人間じゃなかったんだけどね。

 

 子どもを欲しいとは思っていなかった、子どもは嫌いだと思っていた、という女性が、一旦自分の子どもが生まれると、心底可愛いと思うようになるというのは、よくある話だ。私たちの身近なところでも、そういう人はいる。それは、哺乳類の雌に備わった、脳の「お母さん回路」があるからだ。

 脳科学でもっともよく研究されているのは、ラットだ。未交尾のラットの雌は、見知らぬラットの赤ん坊を見ると、怖がったり嫌がったりする。ところが、自分の子どもを産むと、赤ん坊をなめてグルーミングし、巣の外に転がり出れば回収し、ミルクを飲ませるという母性行動が自然に出てくる。では、この母性行動を発現させる仕組みは何なのか?

 1960年代に行われた研究によると、未交尾のラットの雌が見知らぬ赤ん坊を見ると、初めは近づかなかったり、攻撃しようとしたりするのだが、1週間ほどの間に、だんだんにそのような反応が消えていく。そして、赤ん坊をなめる、回収する、実際には乳汁分泌がないにもかかわらず、授乳する姿勢をとる、などの「母性行動」が出現するのだ。だから、たとえ子どもを産んでいなくても、雌には「母性行動」の鋳型はすでに存在する。赤ん坊という刺激にさらされると、その鋳型が実際に動き出すのだ。

 実際の母子関係では、赤ん坊は、母親が赤ん坊という刺激に慣れて「お母さん回路」を発露させるまで待ってはいられない。産み落とされた瞬間から、せっせといろいろな世話をしてもらわねば、哺乳類の赤ん坊は生き残れないのだ。

 そこで、「お母さん回路」の発現は、妊娠中から着々と準備されている。妊娠初期からプロゲステロンというホルモンがだんだん増加する。プロゲステロンがやがて減少していくと、今度はエストロゲンが増えていく。エストロゲンは、プロラクチンとその受容体を増加させる。プロラクチンは乳房では、母乳の産生を促す。また、プロラクチンは、子宮に働いてオキシトシンの受容体を激増させる。出産のときには、オキシトシンが子宮を収縮させて、実際に赤ん坊が生まれ出てくるようにさせる。

 このプロラクチン、エストロゲン、オキシトシンというホルモンは、母親の脳にも働きかけ、その構造と配線を激変させる。そうして、母親に、子どもの世話をしたい、という欲求を生じさせるのだ。哺乳類の子どもには世話が必要で、親による世話がなければ死んでしまう。しかし、たとえそういう知識が母親にあったとしても、「世話をしたい」という欲求がなければ母親は世話をしない。そうさせているのが、プロラクチンとオキシトシンで、それらは、脳内の報酬系に働きかけるのだ。そうすると、母親は子どもの世話をしたいという欲求を持ち、実際に世話ができると、それは大変な報酬として心地よく感じられる。だから、どんどん世話をするようになる。

 なんだ、そんなのはしょせんネズミの話ではないか、と軽んじてはいけない。このような生存と繁殖に直接かかわるところの脳の働きと内分泌の仕組みは、ラットでもサルでもヒトでも、基本的に同じなのだ。ヒトではもちろん、文化やら規範やらの認識による行動変容はあるが、仕組みの基本は同じなのである。

 

 小さなコギクを抱いていた私の脳には、きっと同じことが起こったに違いない。コギクは私の「子ども」ではないし、ヒトですらない。しかし、未交尾のラットの雌が、見知らぬ赤ん坊と暮らしている間に、やがて母性行動を発現したのと同様に、コギクという刺激にさらされているうちに、私の脳内にもともと備わっていた「お母さん回路」が活性化されたのに違いない。

 ヒトである私が、ヒトではないイヌの子どもに愛情を感じ、母性行動を発現させても、進化生物学的にはなんの利益も効果もない。コギクをどんなに可愛がっても、私自身の繁殖成功度は上がらないからだ。しかし、コギクがきっかけで私の母性行動が発現されたのは事実である。こんなことを、進化的な「誤作動」と呼ぶ研究者は多い。しかし、本当に「誤作動」なのだろうか?

 母性行動を引き起こす刺激と、それによって引き起こされる母性行動の仕組みを考えてみよう。刺激は、どれほど「ヒトの、自分の子ども」の刺激であると限定できるだろうか? 進化の仕組みは、何もかもを心得ている万能の神様が設計するのではない。だとすると、母性行動を引き起こす刺激として特定できるものと言えば、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などの感覚刺激入力だろう。ラットでは嗅覚刺激は重要らしいが、ヒトの嗅覚はそれほど鋭くはない。だとすると、視覚、聴覚、触覚の刺激だ。

 コギクの見た目はヒトとはずいぶん違う。でも、二つの丸い目が並んでいて、こちらをじっと見る、というのは同じだ。そして、ストレスを感じたときに出す、ヒーヒーという高い声。そして、生暖かい体温とふっくらした触り心地。いつも足下にまつわりついて、こちらとの接触を求める行動。こんなことが直接の刺激なのだろう。そういう刺激が母性行動を活性化させ、普通は、それが自分の赤ん坊なのだ。

 そして、多くの親が私に教えてくれたところによると、自分自身の子どもが可愛いと思うようになると、よその子どもも同じように可愛いと思えるようになるようだ。もちろん、自分の子どもが一番可愛いし、もっとも強く保護したいと思うのは、自分の子である。しかし、町で見かけるどんな子どもにも愛情を感じ、それは、子どもがいなかったときには感じられなかったことだと言う。現代の脳科学では、この、一般的な子どもに対する愛情と、自分自身の子どもに対する特定の愛情の双方が、脳画像の研究で示されている。

 私の脳にも、きっとこんな変化が起こったに違いない。だから、今の私がコギクを見るときの脳活動を調べるとおもしろいだろう。ああ、しかし残念ですね。コギクを抱っこしてこうなる以前の私の脳活動の記録がない!


長谷川さんに甘えるコギク

 もう一つ、コギクの刺激でこれほど簡単に私の「母性行動」が発現してしまった背景には、ヒトという生物が共同繁殖の動物だということがあるに違いない。ヒトは、母親一人ではもちろんのこと、両親だけでも自分の子どもを育て上げることはできない。祖父母、兄弟姉妹、おじおば、近所の他人などなど、多くの人々がかかわって初めて子どもが育つ、行動生態学で言うところの共同繁殖の動物である。共同繁殖ができるためには、自分自身の子ども以外の子どもに対しても、可愛いという感情が引き起こされねばならない。だから、ヒトは、その閾値が低いのだと思う。

 昨年の12月に我が家にやってきたマーガレットちゃん(通称マギー)に対しても、私は、同じような深い深い愛情を感じている。先日、伊豆の別荘で、薪ストーブの薪の箱からムカデが出てきたことがあった。なんと、私が真っ先に感じたのは、「マギーが噛まれないようにしなくちゃ」ということだった。新型コロナウィルスの感染拡大で在宅勤務が増えた昨今、週日の昼間にマンションにいると、近所の子どもの声がする。これもまた良いな、と感じる私がいる。


伊豆の庭で。マギー(左)とコギク(右)とともに

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著者略歴

  1. 長谷川 眞理子

    総合研究大学院大学学長。専門は行動生態学、自然人類学。野生のチンパンジー、イギリスのダマジカ、野生ヒツジ、スリランカのクジャクなどの研究を行ってきた。現在は人間の進化と適応の研究を行なっている。著書に『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊国屋書店)、『進化とは何だろうか』(岩波ジュニア新書)、『ダーウィンの足跡を訪ねて』(集英社)、『科学の目 科学のこころ』(岩波新書)、『世界は美しくて不思議に満ちている ―「共感」から考えるヒトの進化』(青土社)など多数。

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