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京都不案内

京都で樹木気功

 京都に通うようになったのは二〇一五年の五月からだ。
 私は大病を得て、入院し、厳しい治療の後、その予後の精神の安定と健康の持続を求めた。思えば浪人も留年もせず卒業した二二歳から社会に出て働いてきた。三六歳からはシングルマザーとして子ども三人を育て上げる必要もあって、暇なんて時代はなかった。過労がたたってか、五〇歳で、原田病という一〇〇万人に五人しかならないという自己免疫疾患が押し寄せた。この時に、京都大学医学部卒の津田篤太郎医師という、漢方にも強い、リューマチや膠原病(こうげんびょう)など自己免疫疾患が専門の若い名医に出会い、そのアドバイスでどうにか乗り越えた。次の六〇歳には何がくるのだろう。がんがきた。 

 見つけてくれたのが、京都のN氏である。同じく京都で学んだ友人のY氏の紹介だった。Yさんはかねてから、私の働きすぎをひどく心配して、Nさんに一度会ってみてもらったらと勧めてくれていた。そこで、私は京都でNさんと会うことにした。言語学者で治療家ということで、神経質そうなすらりとした人を想像していたら、現れたのは、角刈りで中肉中背、西郷隆盛みたいなおっちゃんだった。私と同い年である。
 指定されたのは北白川の吉田というラーメン屋。なぜならここは無化調、化学調味料無添加なのだ。京都大学の近くで、「学生さんには材料のいいものを食べてもらいたい」と店主はいった。一番あっさりしたラーメンを頼んだ。「この辺だと天下一品の総本店がありますよね」と聞くと、N氏は「あそこで化学調味料を入れないでね、とお願いするとかなりおいしい」という。濃い顔立ちから、「ご出身は九州ですか?」と聞くと、「そうです、玄界灘に面した海辺の村で、父も母も教師でした。京大には数学で入学して、言語学に転じました。なんだかんだで大学に一〇年くらいいて、その後もずっと…」という。
 いつから治療家になろうと思われたのでしょう。「コプト語の研究のためエジプトに行こうとして、空港で倒れました。自分で治そうと思って色々やった。その時に自分に治す力があるということがわかったんです」。
 この先を話すと、信じるか信じないかの問題だから、やめておく。私は一八歳くらいから唯物論者だったが、四〇歳くらいからは徐々に考えが変わっている。世界中を歩いて、宗教的な人々の中に魅力を感じた。特にバリ島や沖縄などのアニミズムに惹かれた。万物に霊が宿り、見えないものがあるという畏れを抱く。それは大事なことに思えた。
 そんな話をすると、「そうです。世の中、見えるものなんて五パーセントもない。友情も誠実さも、真実も見えないものばかりでしょう」とNさんは言った。
 彼は今、京都のある小学校で早朝に地域の人々の健康を守るための樹木気功を行っている。ここで述べておくが、イニシャルにしているのは、これを読んで人がどっと押し寄せないようにである。頼まれても紹介はできない。あくまで地域住民の健康増進のための会であって、その場を乱すわけにはいかない。
 Nさんは、私を見て、「首から上の血の巡りが滞っていますが、首から下は何も問題はありませんね」と言ってくれた。それで私はとても気が楽になり、安心した。その時、「左の肩には亡くなったお父さんの守護霊がいます。右の肩にはマオリ族がいる」というので驚いた。ちょうど父がなくなったばかりだったからだ。それがどうしてわかるのか。だけど私にはマオリ族に知り合いはいない。「あ、それは関係ない。そういうものなんです」とNさんはニッコリ謎の笑みを浮かべた。
 翌朝、参加した樹木気功は、クスノキの木の気をいただくというもので、一時間ほど体を伸ばしたり、脱力したり、息を吸ったり吐いたりした。体の中に気を通すと体が軽くなり、爽やかになった。特に体に悪いことを勧めるわけでもなく、費用もかからない。また来たいなと思った。 

 二〇一四年、たまたま京都に用があって、二度目の樹木気功に参加した。その時、Nさんは私の足元を見て、「あ、がん反応が出てますね」という。私は驚いて、大病院に向かった。
 そうすると確かに子宮頸がんの1期のBだという。三・六センチにも育っている。実は三六歳の頃から、私は子宮がんの検診で引っかかり、高度異形成3Bとされていた。本郷の東京大学病院などに定期検診に通ったが、消えもしないかわり、進行もしない。簡単な検査をしてその結果を聞きに行き、それより精密な内視鏡検査を勧められ、予約して検査し、また結果を聞きに行く。半年に四回も病院に行き、しかも待たされるという繰り返しにうんざりして、忙しいのを理由についサボりがちになった。
 ふと思い出して、最初から内視鏡検査をしてくれる民間の評判の良いクリニックに変わり、やがてお腹を切らない円錐切除術を勧められたのだが、その手術のために大病院でレントゲン他の検査を受けなくてはならないと知り、面倒くさくてそのままに放置していた。
 大病院では「もう円錐切除の段階ではない」と、放射線で小さくしてから、すぐ手術をするという。「私は一週間待ってください」と頼み、その間に自分なりに調べた。この時も、津田篤太郎医師が協力してくれた。
 「病院を変えましょう。あそこは産科には定評がありますが、婦人科の方は、そんなに医師がいません。若い医者がたくさんいるところが一番研究も進んでいます」ということで、がん研有明病院でセカンドオピニオンをもらうことにした。この病院はがんの専門病院で、スタッフが揃っている。私のステージではどちらも五年生存率は同じというので、手術はせず、放射線治療を選択した。

 京都のN氏に、「私、おっしゃるとおり、がんなんだそうです」と報告すると、突然、東京まで新幹線で来てくださった。「樹木気功をしましょう」というので、東京駅に近い皇居東御苑に行ってみると、「ダメです、ここの木は全部死んでいるようなもので。治癒力はありません」という。それで思い切って地下鉄に一〇分乗り、家の近くの白山神社にお連れした。ここは天暦二(九四八)年に、加賀の霊峰白山を祀る白山比咩神社を勧請したもので、五代将軍綱吉とその母桂昌院の帰依厚かったという、古い社である。郷社であるが、明治維新後、准勅祭社とされ、現在は東京十社のうちの一つ。穢れを祓い、安産を見守る社として知られ、六月の文京あじさいまつりでも有名だ。
 「おかしいな、鳥居が結界のところに立っていない」という。五〇センチずれているそうな。境内にはたくさん木が植わっている。「うーん、この一本だけがどうやら頼めそうだな」という。それは、ギリギリのところにプレハブ倉庫が建てられているちょっとかわいそうな木だった。ちなみに、勝手に木に抱きついたりする人がいるが、木は大迷惑。まずは「気をいただいてもいいでしょうか」と許可を得なくてはならない。生きている木でも、そのほとんどは、気をもらうことを許してはくれないという。
 その後、散らかし放題の家にも来てくれた。ここまできたら、と私は開き直った。「ここの家は住んでいていいところですか?」と私は聞いた。もし、ダメだと言われたらどうしよう。「マンションの隅っこに一人霊がいますが、上がってもらいます」と言って、Nさんは祝詞を唱えた。それから私の体に念を送った。「最初に高度異形成がわかってから四半世紀のあいだ動かなかったとてもおとなしい、たちのいいがんです。がんは止めましたから、本当は放射線治療をやることもないと思うのですが、まあ、気がすむようになさってください」とNさんは言った。
 「がん細胞はどんな人でも一日に何万個もできていく。それを免疫のキラー細胞が打ち消してくれる。その免疫機能が衰えた時、一日に一〇〇〇個消え残ったとしても、一〇〇日で一〇万個になる。一ミリのがんでも一〇万個はあるでしょう。森さんの場合、新国立競技場をめぐる市民運動で世間の矢面に立たされ、そのストレスで免疫が弱まった(東京五輪のメイン会場となる新国立競技場の建設計画の見直しを求めて、「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」を結成し、運動していた。森まゆみ『異議あり! 新国立競技場――2020年オリンピックを市民の手に』岩波ブックレット、二〇一四年)。四センチ近いなら、おそらくがん細胞はすでに何億個もあるでしょう。でも、がん細胞もその人自身なので、敵視するのでなく、なだめなければいけません。敵視して攻撃するとがんは怒って暴れます。何か子守唄を知りませんか」。
 私はその場で、「五木の子守唄」「島原の子守唄」「モーツアルトの子守唄」などを歌ってみたが、自分でも歌って一番気持ちが良かったのは美智子皇后(当時)作詞、山本正美作曲の「ねむの木の子守唄」だった。そうそう、それがいいですよ、というので、私は下腹部のがんにずっとそれを歌い聞かせた。
 それで抗がん剤も使わず、二月・三月・四月と通院による放射線治療も終わって落ち着いた五月に、久方ぶりに京都に赴いたのである。 

 爽やかな五月であった。しかし、京都駅の周りは大変な人出。外国人が多い。私は駅前のバス停に並び、市バス一七番線に乗った。河原町四条のあたりが渋滞しており、北白川に着くまで五〇分もかかった。
 その少し手前、今出川通と志賀越道が交わる交差点に大きなお地蔵様がある。志賀越道は滋賀へ至る街道で、その旅の平安を祈るお地蔵様だ。子安観世音として人々に厚く信仰されてきた。その近くに難病のお子さんを持つ親が看病のために泊まるマンションを提供している奇特なオーナーがおられ、そこを一週間、一泊二〇〇〇円で貸していただけることになった。浴室もトイレも完備されている。ありがたいお話である。
 翌朝、六時過ぎに小学校まで歩く。懐かしいクスノキが朝日にキラキラと光っている。手を振り下ろしながら悪いものを吐き出す。三秒で鼻から息を吸い、七秒で吐き出す深呼吸。手を高く空に伸ばすだけで、気持ちがいい。その手で、クスノキの気をいっぱいいただく。体中をマッサージする。体の力を抜いて、関節や骨盤を緩める。最後は高く上がった太陽を背に受けて、腎臓の免疫力をアップする。小一時間、クスノキの前で体を動かし、最後に木に挨拶をした。そっと樹皮に触ったら、「木が喜んでいる」とNさんが言った。
 参加者は一五人くらい。遅れてくる人もいる。それでもNさんは一人一人を丁寧に見て、どこが悪いか、その場合どこのツボを触ればいいかを見極めていく。私は「肝臓は大丈夫、腎臓は八〇パーセント機能している。上行結腸と下行結腸のあたりに弱いがん反応がありますね」ということだった。
 借りているマンションまで戻る途中においしそうなパン屋さんがあって、ついサンドイッチを買ってしまう。豆腐屋さんもあって、豆乳をペットボトルで売ってくれる。朝ご飯はそんなもの。あとはやることがない。
 三日目に長男が来て、一緒に気功に参加した。Nさんは「おや、珍しい。彼は生まれつき結界を持ってるよ。沖縄の青年には時々いますが、東京の人ではあまり見ないですね。どこも悪いところはない」というのでホッとする。
 久しぶりに来た息子と、哲学の道に沿って歩く。法然院、私が京都で最も好きなお寺だ。そこから安楽寺、霊鑑寺、永観堂まで。静かで気持ち良い。お昼には疏水沿いの叶匠壽庵で京料理のお弁当を食べる。雰囲気もあり、味もなかなかで、お値段も良心的だと思った。
 安楽寺には逸話がある。昔、後鳥羽上皇の後宮にいた左大臣の姫たち、松虫、鈴虫という姉妹が、虚栄と嫉妬の宮仕えに飽き、出家を願った。最初にそれを聞いた法然は「南無阿弥陀仏の念仏を唱えていれば出家には及ばない」と言ったが、その後にすがった法然の弟子である安楽、住蓮らは彼女たちの望みを叶え、髪を下ろして逃がした。後鳥羽上皇は激怒し、法然を讃岐国、親鸞を越後に流し、安楽、住蓮を含む四人の僧侶を死罪とした。一説には彼女たちと僧侶の間に密通があったともいう。これを承元の法難という。そんなことは初めて知った。安楽寺はその安楽(遵西)と住蓮が専修念仏の道場とした草庵が始まりだという。
 そんなふうに私の京都通いが再開した。最初のうちは熱心に、一〇日くらいも滞在した。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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