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京都不案内

私は京都が苦手だった

 還暦を過ぎて、ふたたび京都に通うようになったのは二〇一五年の五月からだ。
 それまでは、仕事で行っても、ゆっくり滞在しないですぐに帰ってきた。ホテルも高いし、食べ物屋も高い。名所旧跡は混んでいる。もう一渡り見ちゃったしな、それも今よりずっと空いている、風情のある時代に。それに私は京都がなんとなく苦手だった。しかし、大きな病を得て、私は京都で樹木気功をやることにしたのである。その話はまた後で。

 私が初めて京都に行ったのは、一九六七年、中学に入る前の春休みだった。
 東京オリンピックに合わせて一九六四年、新幹線が大阪まで開業した。
 父が、新幹線で奈良と京都に行こう、と言い出したのだ。それは父らしい、一泊二日のウルトラ盛り込み過ぎの旅で、タクシーを頼んで、一日に一〇くらいもお寺を訪ねた。一日目は奈良の東大寺や興福寺を見学、京都に移動し、古い旅館に泊まる。母が「京間というのは広いのねえ」と驚いていたのを思い出す。確かに、東京の長屋を改造した家で歯科医院を経営していた母に、あの旅館の八畳と一〇畳の二間続きはずいぶん広く見えたに違いない。今、実家より小さい私の家の、マンションサイズの六畳を見るたびに、母の声が響く。
 京都で拝観したのは清水寺、金閣寺、銀閣寺、龍安寺の石庭、苔寺とも呼ばれる西芳寺、泉涌寺などだったと思う。あとは忘れた。私は西芳寺の美しい苔に惹かれた。運転手さんが湯葉料理の店に案内してくれた。生まれて初めて食べる湯葉、そんなにおいしいものでもなかったが、珍しくはあった。そしてその日のうちに新幹線に乗って帰ってきた。 

 中学に入ると、平凡社の『太陽』という雑誌を集め、『源氏物語』や『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』などを読むようになった。『古事記』や『日本書紀』もお小遣いで岩波の古典文学大系を買って読み始め、やっぱり日本の文化は西高東低なのだな、と思った。
 『源氏物語』を読むのに一番役に立つガイドブックは、池田亀鑑『平安朝の生活と文学』(角川文庫、一九六四年)という本で、唐の長安を模して作られた京都の街の構造、後宮の制度や役職、さらに御所の中の地図、寝殿造の説明、宮廷の食事や寝具などについて細かく書いてあった。これをくれたのは『源氏物語』の講義もしていた伯母の近藤富枝である。角川文庫が黄ばんで字も見えづらくなったので、ちくま学芸文庫(二〇一二年)に換えた。
 この前、伯母の本『読み解き 源氏物語』(河出文庫、二〇〇八年)を読んでいたら、突然、小学四年生だった姪の森まゆみが遊びに来て、「私は源氏の中では空蝉が好きだわ」と言った、と書いてあって仰天した。そんな生意気なことを言っただろうか。原文など歯が立つわけがない。小学生の頃に読んだ『源氏物語』は子供向けの翻案もので、性的なことは隠されていた。光源氏が父桐壺帝の妃である藤壺中宮と密通して、冷泉帝が生まれ、罪の意識におののく、などというところは全く理解できなかった。それでも、少女の紫の上を源氏が引き取って育てるところや、夕顔の生き霊に祟られた不思議な死とか、源氏が関係する女性たちに着物を選んで送るところなどは、じゅうぶんエロティックで興奮した。
 古典を原文で読むようになったのは中学から。また判官贔屓もあって、紫式部よりは、若くして亡くなった中宮定子に仕えた清少納言の方がさっぱりして好きだった。ともあれ子供の頃に暗唱したものは忘れずに根付く。「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山際…」「仁和寺にある法師、…」「音のかそけきこの夕べかも」というようなフレーズは、世界のどこにいても風景とともに思い起こされる。この前も、エチオピアに行ったとき、夕暮れの鳥の群れに「烏の寝床へゆくとて…」だなあ、と思ったことである。 

 そんなわけで、高校に入ると、ユースホステルの会員になり、レンタル料を浮かそうとシーツをリュックに詰め、東山ユースホステルに泊まっては、京都の寺を訪ね歩いた。京都大原の三千院を舞台にしたデューク・エイセス歌う「女ひとり」が流行っていた頃だった。行きはお金がないので、夜行の椅子席。早朝に着くと清水への坂を登っていく。野に朝もやがかかって『徒然草』の「あだし野の露、鳥辺野の煙」という一節を思い出す。嵯峨野の念仏寺や落柿舎の辺を歩いたのもその頃だった。今はもう、観光客でいっぱい、竹林を切り開いて、妙な道ができていたり、介護施設ができたりして、昔の面影はない。
 ガイドブックにある店で湯豆腐を食べたら、次の日は公園でパンをかじる。そんな貧乏旅行で、中学生の方が拝観料が安い場合は、中学生と偽った。一度妹を連れて行ったら、あまりの強行軍に奈良の箸墓古墳のあたりで泣き出され、往生したことがある。
 東山ユースホステルは、今の地下鉄東西線「東山」に近い三条通りにあったが、今はない。当時は市電も通っていたが、今はバスに替わり、古い低い家並みもみんなビル街になってしまった。

 お正月に行った時、丸もちの白味噌雑煮が出て、衝撃だった。東京の雑煮は醤油仕立てのすまし汁で、トリと小松菜、椎茸くらいしか入っていない。そして角もちである。あんな甘ったるい雑煮があるとは! 総じて京都の味は私には薄い。母は江戸から日本橋の家、父は宮城県に先祖を持つうちの味付けはいわゆる「しょっからい」。
 初めて京都でうどんを食べた時も驚いた。「うどんが透けて見える」と。ニシンそばもそばが透けて見える。ずっと後で、河合隼雄さんと対談した時、「まあ、東京の人はよくあんな墨汁みたいなそばを食いますなあ」と逆の衝撃を語られた。その京都人が「天下一品」や「キラメキノトリ」のドロドロの濃いラーメンを好むとは、時代も変わったものである。いや、あれはただの学生文化なのだろうか。
 くずきりとかいう甘味も、不思議な食感であった。正直言って美味しいとは思わなかった。湯豆腐もイマイチだし、ちょこちょこ詰め合わされた松花堂弁当とかいうものも、さしてうまいとは思わない。海老芋と棒ダラの炊き合わせ、芋棒とかニシンそばも、海から遠い盆地京都での保存の苦労を表すものなのだろう。 

 それと、京都のガイドブックにやたら書いてある「一見さんお断り」という文字が怖かった。京都の老舗では、初めての客を相手にしない。「売ってもらえないこともあります」と書いてさえあった。それと「ぶぶ漬け神話」。京都のお宅で「ぶぶ漬けでもどうどす」と言われたら、たやすく乗ってはいけません。「そろそろ帰ってくれ」という合図です、というのだ。
 これもずっと後になって、日本中世史研究の脇田晴子先生に聞いたところ、「それは祇園祭の氏子圏あたりの話やね。京都大学周辺は各地から人が集まるから、そんなしきたりはないでしょう」とのこと。しかし、この「ぶぶ漬け神話」は、東京ネイティブにはいまだに強く信じられている。言葉に裏のない東京では、「お昼だからチャーハンでも作ろうか」「あら、ありがと」、「ラーメンの出前とる?」「いいわね」で済むのに……。 

 ともあれ、京都は成長期の私の美的、文学的な暮らしの中ではかなり中心を占める存在であった。
 芥川龍之介の「芋粥」で、京都の貴族が「一度でいい、芋粥を腹一杯食べてみたい」と願い、地方の豪族のところに行くと、都では高価で手に入らない芋を山のように積み上げて食べさせようとするくだりがある。『今昔物語』由来の小説だが、そこには舌の肥えた東京下町っ子・芥川の、京都の食べ物に対する皮肉が効いているような気がする。そういえば、芥川の「鼻」や「羅生門」も京都への想像力をかきたててくれた作品だ。
 高校生の私は、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』、川端康成の『美しい日本の私』なども読んで、日本の文化について考えたりした。
 しかし彼らの小説を読むとガックリくる。高校の頃は、川端康成がノーベル文学賞をとった現役作家で、『古都』とか『美しさと哀しみと』なども読み、その当時は北山杉など京都の風物に憧れたが、今読むと爆笑してしまう。『美しさと哀しみと』は五十代の作家が特急「はと」に乗って、二四年も前に別れた京都の昔の恋人に会いに行く話である。当時一六歳の少女を、三〇代の作家は妊娠させるが(未成年淫行)、早産で赤ん坊はすぐに死ぬ。女は自殺未遂をはかり、精神病院に入る(舞姫みたい)。その後、日本画家となった独身の女と再会し、除夜の鐘を聞きに行く。そして今も彼女は彼を思慕している、というなんとも虫がいい話。しかも彼の作品で一番読まれ続けているのは、彼女との恋愛を描き、妻にタイプさせた作品。徹頭徹尾、男目線で書かれ、今なら女性からブーイングが出るはずだ。これがフランスでも映画にもなったと聞くと、おかしくて笑っちゃう。
 谷崎潤一郎の『細雪』は戦争中の話だとはずっと後まで気づかなかった。一つも戦争の影がなく、芦屋の蒔岡家のお嬢様方は、芝居や花見に何を着ていくか、何を食べるか、私から見れば本質的でない、どうでもいいことをいつまでも話している。花見のコースは南禅寺の瓢亭で夜食、都をどりを見て祇園の夜桜、麩屋町の旅館に泊まって、あくる日は嵯峨野から嵐山に行き、中之島のかけ茶屋で弁当を開く。いいご身分ね、というしかない。こんなしょうもない小説が、「戦争への消極的抵抗」だと賞賛されたり、何度も映画化されるのにも驚く。
 そういえば高校三年の時、私は京都にある級友のおじさんの家に泊めてもらったことがある。広い池の向こうに門があり、その門を入ると立派な庭があり、障子戸の玄関があり、玄関の間で出迎えを受けた。そこから廊下を何度も折れて、泊まるべき客間に案内され、京菓子と抹茶が供された。一五坪の長屋育ちの私はここでも仰天した。そのおじさまは何日か仕事を休んで、私たちに京都を案内し、おいしいものも数々食べさせてくださったのである。おそらく島津製作所の御一族だったと思う。京都の旧家の暮らしを東京の自分の狭い家と比べると、これまためまいがするほどのショックを覚えた。 

 実は、大学受験の時に受けたいのは京大だった。長年、京都大学で教えておられた吉川幸次郎先生の『唐詩選』が私のバイブルだったし、その弟子である高橋和巳が小説家として一世を風靡しており、『悲の器』に始まって『生涯にわたる阿修羅として』まで読みふけっていたからである。しかし父親に「何もそんなに遠くまで行かなくても近くに東大があるじゃないか」と反対され、数学がまったくできなくて国立には落ちた。
 大学一年の秋、友人たちと京都に行った。寒い中で鞍馬の火祭を見て、山から降りてきて泊まった小さな宿の素晴らしかったことを忘れない。遠くに灯った小さな看板、典型的京町家、お湯を沸かし、色とりどりの浴衣を揃えてくれた女将の心配り、朝ごはんの出汁巻の美味しかったこと。ここも一見さんはお断りの宿で、友人のお母さんの紹介であった。
 それを最後にずっと京都とは縁がなかった。

 結婚し、子どもが次々生まれ、シングルマザーとなって食べるのが精一杯で、京都にゆっくり行く暇もお金もなかった。研究会や仕事で行っても、用が終わるとすぐに新幹線に乗って帰った。あらゆる小説や映画、流行歌などで作られた京都イメージを、私は素直にのみこめなくなっていた。
 一九九〇年に全国町並みゼミの京都大会が行われた時は――既に三〇年前になるが――、町並みが高校時代に訪れた一九七〇年代初頭とはかなり違ってきていた。木造下見張り、格子戸を持ち、瓦屋根の京町家はその頃から減り始め、狭い小路に奥歯に物が挟まるようにマンションが建設された。
 ここ数年、観光立国推進基本計画によるインバウンド政策とやらが始まって以来、ますます外国人で混雑する京都は、私には苦手な街となった。谷崎潤一郎は東京日本橋の生まれ育ちだが、関東大震災で自分の愛した東京は消えたとして京都に移住している。今、谷崎が京都を見たら、腰を抜かすに違いない。
 そんな感じで、私は京都に仕事で行っても滞在はしなかった。
 ところが二〇一五年にがんという重い病を得て、治療の後、自分で少しは体のメンテナンスをしなければならなくなった。その時に思いついたのが、そのガンを見つけてくれたNさんという治療家である。彼は週に何度か、京都のある場所で朝の気功の会を開いている。そこに参加したらどうか、と友人が勧めてくれたのである。それで私の京都通いがまた始まった。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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