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京都不案内

ヒッピーとタイガース

 北白川には面白い人が多い。気功仲間の山下敬子さんは、心が広くて開けっぴろげ。京大農学部近くの古い木造の家に住んでいる。15年間小学校の先生をしていた。元夫はインド哲学者で、彼が京大の博士課程の頃に結婚。インドのコルカタの近く、シャンティニケタンにタゴールが建てた芸術大学の講師になったので同行したが、道が合わなくて離婚。離婚した時、山下さんのお母さんは「のれんやなあ」と言ったそうだ。お母さんもシングルマザーだった。
 その後、娘二人を連れてアメリカを放浪。上の娘さんはそのままアメリカの学校に行き、コロラドにとどまっている。下の娘さんは子どもを連れて帰ってきた。「のれんやなあ」「ノウハウがあるから大丈夫やろ」と山下さんはいったそうだ。このお孫さんがとても元気で、学校に行かなくなってしまったので、岩倉にフリースクール「わく星学校」をつくった。
 農作業もできる畑があり、そこまで山下さんは自転車で通う。「わく星」にはいろんな子どもが来る。母親がツバル語の研究者で、半年はその赤道直下の島に行く子。家族で沖縄とハワイと日本に4ヶ月ずつ住んでいる子。二地域居住じゃなく三地域、それも地球規模。そんなわけで普通の日本の小学校とライフスタイルが合わない子どもたちが来ている。「費用は月4万円。私以外の5人はみんな京大生か京大中退した人や」と山下さんは笑うが、その生き方が本当に自由。
 この前、京都に着いたので挨拶に行ったら、前の夫君が来ていてご飯中だった。「一緒に鍋を食べて行かはります?」というのでお相伴させてもらった。インド哲学をしていた元夫は研究生活を終え、今は出身地の高知で自然農をやっているそうだ。「今は大根しかあらへん。ひたすら切り干しを作るか、冬に備えて薪割りですわ」。高知のウツボとグレという珍しい魚を持ってやって来ていた。かと思うと、山下さんの今のパートナーは庭師で、この人も元はヒッピーだ。
 最初に京都で貸してもらった住まいは、不動産屋さんが持っている鉄筋のアパート。その方は子どもさんを癌で亡くし、その経験から京大病院などに付き添いにくる親御さんに安く所有物件を貸してくださっているのだという。なんとも奇特なことである。難病後の保養に来ている私にも貸してくださったのだが、あまりに申し訳ない。
 次はその近くの一軒家を借りた。居間に掘りごたつがあり、そこから障子戸越しに庭とその向こうの大木が見える。その障子に映る日差しを眺めて日がな読書をする。いい時間だった。難点は3人成仏できない霊がいるらしいこと。2階でゴトゴト音がする。夜中、トイレに入ると悲しいメロディが流れる。一人で暮らすにはちょっと怖かった。
 一時、並びの家で、日曜日だけバーをやっている人がいて、そこの2階で山下さんが着物を着て、踊って見せてくれたことがあった。なんでもできる人だ。白塗りのダンサーだったこともあるという。

京都とヒッピー 

 京都にはヒッピーに影響を受けた人が多いらしい。1960年代、私が中学・高校の頃は、東京にも長髪でヒゲを生やし、極彩色の洋服を着たヒッピーという人たちを見かけた。彼らはベトナム反戦や自然回帰を訴えていた。東京は経済に合わせて人が動く。生き馬の目を抜く競争社会が主流の東京に住むのをやめて、ヒッピー系の人はゆったりと暮らせる古都京都に移ったのかも。

 山下さんはいう。 

「京都のヒッピーには三種類あるな。学生運動で挫折した人、アーティスト、神秘主義者。……ヒッピーといえば、画家の秋野不矩ふくさんの次男、絵本作家の秋野亥左牟いさむも知ってる。」

あら、私も知っているよ。秋野不矩さんの伝記を依頼されて、広島の福山まで話を聞きに行きました。それこそ、シャンティニケタンの大学に招かれた不矩さんと一緒にインドに行ってた。 

「とにかく若いころは美しくてもてた。最初の妻はアメリカ人でサンフランシスコの財閥のお嬢さん。座禅で使う座布団を虹色にしたのがものすごく売れた。」

私、小浜島に行った時、秋野亥左牟が壁に絵を描いた小さな小屋を見たことがあるわ。

「そのあと小浜島に行って、また気の強い女性と一緒になって、二人子どもができた。がんになっても一切治療をせず、お酒も飲んだし。最後は京都で過ごして、子どもたちがよく面倒を見たのよ。」

 1952年頃、秋野亥左牟と京都の鴨沂おおき高校で親友だったのが北沢恒彦。これまた面白い人である。二人は高校で反戦運動を展開。その後、北沢は京都市役所に勤務しながら、『思想の科学』編集やベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の活動を続けた。『京都TOMORROW』という雑誌が出るときに呼ばれた私に、「あなたたちは谷根千という土地が呼び出した地霊、いや妖精だ」という言葉を贈ってくださった。北沢さんは1999年に自死なさった。その息子が作家の黒川創さんで、妹の北沢街子さんが「編集グループ〈SURE〉」という小さな出版社を、それこそ吉田山近くの古いしもた屋でやっていたが、今は伏見に越したようだ。『北沢恒彦とは何者だったか?』という本も出している。
 既成秩序からドロップアウトしたヒッピー系の人が多いことが、京都を自由な都市にしているのかもしれない。京都御所近くにあった甲斐扶佐義さんの「ほんやら洞」などもそんな人たちの集まる場所だった。 

タイガースと沢田研二

 京都は、少女時代の私が好きだったグループサウンズ、タイガースの発祥の地でもある。沢田研二は岡崎中学校を卒業後、秋野亥左牟、北沢恒彦と同じ、鴨沂高校に進学し、北白川に住んでいた。この辺の居酒屋ではたまにジュリーと同期とか同窓という人に出会う。

 第12回「吉田山界隈の話」に登場した平井史朗さんは昭和31年生まれ、育ったのは五条烏丸。そこでお母さんが美容院をしていた。

「8つのときの東京オリンピックをテレビで見てよく覚えている。そのころデトロイト・タイガースが来て、赤子の手を捻るように野球をやったんじゃないか。阪神の村山が完全試合寸前までいった。メジャー相手によく戦った。そして、中学のときに最盛期のタイガースを見ました。」

 最初、瞳みのる(ピー)、岸部修三(サリー、のちに岸部一徳)、森本太郎(タロー)、加橋かつみ(トッポ)が組んでいて、後から美貌の沢田研二(ジュリー)が参加し、ファニーズというグループを結成した。

「河原町佛光寺に「田園」という喫茶店があって、そこに1965〜66年頃、ファニーズが出ていた。田園はその後、成人映画館になり今はコンビニ。
 上京してザ・タイガースになってからの大きなコンサートの一回目は1968年に烏丸丸太町の勤労会館で行われた。このホールはもうない。あの時人気絶頂で、沢田研二は男の僕でも色気を感じましたね。
 二回目は京都会館で、シロー(岸部四郎)のデビューだった。幕が開いたら4人しかいなかった。トッポ(加橋かつみ)が抜けた直後だったと思う。」

 トッポは伸びのある高音で、「廃墟の鳩」や「花の首飾り」ではリードボーカルを務めた。しかし、渡辺プロは沢田研二にばかり注目して、加橋かつみを脱退させようとしたという。

「タイガースは一生懸命やっていて、声の音域も広かった。ピーのドラムは独特の跳ねる感じ、ホップ感があって玄人好みだった。ただしギターは誰もうまくない。一番ギターがうまかったのはザ・ゴールデンカップス。ザ・テンプターズの松崎由治というギタリストだけはオリジナリティがあった。」

 タイガースのメンバーは、渡辺プロというタレント事務所管理になって自分たちのやりたい音楽ができないように感じ、ほとんどすべての曲がヒットしたのに、4年で解散。その日にピーこと瞳みのるはトラックで京都に向かい、勉強して慶應義塾大学に入学、漢文を勉強し、慶應義塾高等学校の漢文の先生になった。加橋かつみはベトナム反戦を描いたロック・ミュージカル『ヘアー』などに出演した。
 私はずっと後に、京都会館でのタイガースのコンサート映像を見たことがある。客席から彼らのファッションにいちゃもんをつけたマッチョな評論家(小汀利得おばまとしえ)に、サリーこと岸部一徳が堂々と舞台の上から反論していたのを忘れない。その経験もあって、私はあの前川國男の名建築、京都会館が妙な具合に改修されてロームシアター京都などになるのに反対したのだった。
 平井史朗さんの話は続く。

「他にもレッド・ツェッペリンやザ・モンキーズも京都で聞きました。そういえば、銀閣寺道のうどん屋「おめん」の近くに「ZIG ZAG(ジグザグ)」という喫茶店があって、京都の文化人のたまり場だった。東京でいえば、麻布のキャンティかな。
 ビートルズはリアルタイムで夢中になった。クラプトンはすごい。ブルース・スプリングスティーンは最初に聞いた時から有名になるだろうとわかった。デヴィッド・ボウイは1979年に京都に滞在したことがある。蹴上の九条山にアーティストの集まる家があってね。」 

 知らないことばかりだ。

京都で聴く音楽

 京都にはプロテストソング、フォークの伝統もまだ生きている。
 2016年1月19日、聖護院山王町にあるメキシコ料理店エル・ラティーノにいった。中川五郎・茶木みやこ両氏のコンサートがあると聞いて。ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」など懐かしいフォークをたくさんやった。中川はずっと音楽活動を中断していたが、2000年代になって再開し、ことに原発事故の後、また歌い始めた。西洋音楽を純粋に全部受けとめた人だ。近くの席にいる人を、どこかで見たことがあるなと思ったら、ばんばひろふみ氏だった。飛び入りでマイクを握り「『いちご白書』をもう一度」を歌ってくれて、やんやの喝采。
 中川一郎さんという1940年生まれの方が偶然隣の席にいてお話をした。工学博士、大阪芸術大学名誉教授という名刺をくださった。「ピート・シーガーに会いにハドソン川沿いの家に行ったことがある」「僕は終戦という言葉を使わない、敗戦に決まっている」「ビートルズには全く影響を受けなかった。それ以前の、彼らが影響を受けた音楽に影響されていた」などと聞いてびっくりした。
 ある日は、三本木遊郭の跡、頼山陽旧居跡、新島襄旧邸を見て、寺町通りを下り、夷川通りを右折して、カフェ・モンタージュへ向かった。京都府立医大の学生にしてヴァイオリニストという石神真由子のコンサートを聴きに。私の若い友人で京大のオーケストラにいた津田篤太郎医師に、「僕は東京だけど、森さん、京都にいるなら行ってみて」と言われて。津田さんは彼女のファンで、一緒にシベリウスのバイオリン協奏曲を聞きに行ったこともある。
 その日はモーツァルトの弦楽四重奏とクラリネットの五重奏で一時間ちょっと。このくらいがちょうどいいい。チケットは2000円、これもちょうどいい。100人来たとしても頭数で割れば一人4万円のギャラ、経費を引けばもっと少ないだろう。音楽家は大変だ。モーツァルトは正岡子規と同じく30代半ばで亡くなった。天上の音楽——美しすぎて、涙が出た。東京ではこんなことないのに。京都ってすごいところだなあ。
 2021年7月4日、京都の写真家、甲斐扶佐義さん経由で、ボブ・ディランの影響を受けたシンガーソングライター中山ラビがなくなったと聞いた。一時京都で活動した彼女は東京国分寺で「ほんやら洞」を経営していた。私より一つ上の世代で最も自由に生き、最後までかっこいい人だった。これまた一つの時代の終わりと言えるだろう。

京都の人のつぶやき

 京都の歴史あるライブハウスといえば、磔磔(たくたく)と拾得(じっとく)。磔磔は四条通の南、佛光寺の近くにあり、拾得は二条城の北にある。どちらも元酒蔵だった建物を利用している。先日、あるシンガーソングライターのライブを聴きに、磔磔に行った。人数を制限したうえでの開催で、ライブ中継もあり、別途チケットを買えばアーカイブも見られる。あの手この手でがんばっている。聴衆は大きな声は出せないけれど、そのぶん体を揺らし拍手をたっぷりと。久しぶりの生の音楽が身に沁みた。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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