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京都不案内

田中ふき子さんに聞く(2)

「まあまあ、お昼を食べましょう」といって、その間もお話は続く。

―京都は米軍が爆撃しなかったという。

「京都でも空襲はあったんですよ。みんな隠してますけどね。千本通りの私の家から10分くらいのところでも爆弾が落ちて人が死んでますね。木の上に何かぶらさがってると、(よく見たら)首なしの死体が爆風で飛ばされてたり。私の友達のお母さんの実家が五条坂のところで、爆弾が落とされました。太秦うずまさの軍需工場がやられたのと、清水の上の方のお寺もご家族みんななくなって。箝口令かんこうれいが出て、次の日はもう大きな穴も埋まっていました。京都はお寺や美術品が多いから、空襲をしなかったなんて、それは嘘です。
 戦争が終わったときは自由になると思いましたからね。良妻賢母はしてはいけないことがいっぱいある。女の子やから、女の子やからと言われてきた。私たちはお茄子の漬物一つにしても皮のついたはしっこより食べられませんでした。白い所なぜ食べちゃいけないの、というと、そこは男の食べるところ。府一のあのリベラリストの校長(ふき子さんが通っていた府立第一高等女学校の校長先生。第15回に登場)でさえ良妻賢母、体操もキュロットで、ブルマーに反対しはったの。いま都大路を京都マラソンで、女性が短パンで走らはるでしょ。あれみたら校長先生、気絶しはるわ。」

―戦後も本屋さんをしてらしたんですか。

「そうです。10年位、次兄がしていましたが、どうしてやめたのか、私は丹波へ行ったので知りません。忠夫兄は昭和21(1946)年の5月3日にモンゴルから帰ったんです。その直後に父が52で亡くなりました。
 昭和25(1950)年にあの金閣寺を焼いた人の因縁話があるんです。あの人、金閣に火をつける前にうちに来てはったんですよ。
 夏の夕方でした。マント着て、イエス伝、ヨハネ伝なんか、上の方の棚にあったのを取って、箱だけ(棚に)入れて本はマントに隠すんです。それは万引きの常套手段。それで母は気づいて、その人に「ちょっとおあがりやす」といって招き入れ、「みんな出しておくれやす」とうながした。「イエスの本を読みたい人がそんなことをするのは教えに背くことやないか」といって説教したんです。お茶を飲みながら。「すみません、悪うございました」といったらしいですけど。母は「そんなに盗んでまで読みたい本やったらあげます」といって、3冊もあげたんですよ。
 丹波の篠山ささやま(京都府と兵庫県の県境)の人やったんかな。美しいものは許せないと火をつけたんでしょう。店に来てから3日くらいです。新聞にも写真が載りましたわ。母はがっかりして泣いていました。でも金閣寺に住み込みでいること自体、しんどかったんでしょうかね。」 

―三島由紀夫(1925-1970)が『金閣寺』、水上勉(1919-2004)が『五番町夕霧楼』に書いていますよね。

「五番町(1958年まで西陣にあった花街)の夕霧楼に遊びに行ったんでしょうね。放火が露見して、(その人の)お母さんは京都に出てきて、その帰りに保津川に身を投げて死なはったんです。」

―京都の町中からこの綾部の農家に嫁がれたんですね。

 「父も亡くなって、いつまでも実家にいられんようになってね。24でしたから。蒙古から帰ってきた兄も、結核で療養してたんです。
 昭和26(1951)年、ここに来たのはびっくりです。田中嘉二さんが私の兄のところに直接談判に行ったんです。もともとは次兄の親友で、農業普及員の資格を取りに京都市内に来るときは、うちに泊まっていたんです。
 私にも相談しないで、母にも言わずに、忠夫兄はびっくり仰天したけど、「おれのところに『ふき子さんをください』と来るのは見所がある」といいました。彼が京都に出てくると、2時間講義を聴かなあかんのです。農村の仕組みとか稲のなる道筋とかね。でも農村の悪いところは一つも言わんのです。
 田中の家は十代目。当主です。でも周りからいったら、ただの百姓です。町人から見てそこに嫁に行くなんてみんな反対したと思いますよ。私は彼のニューフロンティア精神にほろりとしたんです。「これからは必ずパン食の時代がくる。その時にフルーツが必要となる。だから僕は果物をつくりたい。果樹園をつくりたいので、この僕に力を貸してほしい。僕の夢の半分を担ってください」と言われました。短気でしたけど、人には絶対怒りませんでした。怒ると家の扉をみんな開けて、私が全部閉めました。そこにある写真は私ら夫婦です。すごく笑顔のいい人でしょ。
 食事だけつくってくれたらええ、あとは本でも読んでおってもええ。私の母も百姓ですが小作に何でもさせて食べていたので、農家の大変さなんて知りませんから。「何も知りません、できませんといってればええ」ということで、知らんから来れたんです。にわかに結婚式ということで、式の準備を万端整えて、母や伯父たちも礼服姿で、ハイヤーで丹波に来たんですよ。
 親類は玄関から、お嫁さんは勝手口からしか入れてくれない。私は知らずに玄関から入ったんで、ずっとさらしもんです。お姑さん、「(勝手口の)戸を開けておかんで、わるかったなあ」といって。それはここの風習なんです。石川達三(1905-1985)の『結婚の生態』(1938年)じゃないけど、性生活を伴う奴隷にはなりたくない。家族の夕食のときの話は、私には何もわからん、これでは私は何もできない、と思いました。
 私たちは結婚したら「お互いさん付けで呼ぼうね」といってた。「嘉二さんちょっと」といって、「ふき子さんなーに」といったら、義父の弟が「自分の嫁にさん付けで呼ぶとはなんだ」という。「さん付けで呼べない」と夫が謝りましたが、田舎の長男はみんなおとなしいですね。私は嘉二さんを「うちのおっさん」と呼ぶことにしました。
 義父母の前でいったんですよ。「ちょっと文句いわせてもらいます。なんでほんまのこといってくれなかったんですか。なんで百姓家で百姓のことしないでいいなんて、そんなことがありますか」といったら、「そうか。そういわんと来てくれないと思ったんや」という返事でした。
 このままでは宙ぶらりんで何の役にも立たないと、私は決心して、おじいさん(義父)の前に手をついて、「私を一人前の百姓にしてください」と頼みました。「なんで嘉二に頼まんのか」というので、「あの人に習うと甘えます。お父さん教えてください」というたら、「そうか、じゃ、ちゃんと装束してこいよ」と。翌朝、地下足袋はいて行ったら、いきなり牛の綱渡されました。怖かったなあ。
 「牛はおどおどしたらいかんのや。30センチくらい残して綱を手にもって牛の鼻つらをとって、牛とにらみ合えと。牛に舐められたらあかん、この人は怖い人や、と思わせなあかん」と教わりました。
 そのころ麦を一町以上つくってたんですよ。二毛作で、麦を刈ったあと、水はって田圃つくらなならんでしょ。次の日、昨日の畑の麦を刈ってこいというから、「はい」といって行ったけど、どこがうちの畑かわからなかった。表札は立ってないでしょ。よそ刈ったらおこられますやん。刈ったらすぐ脱穀せなあかんでしょ。それで、通りがかった人に「うちの畑どこですやろ」と聞いたんです。「あ、田中嘉助さんのところの嫁はんやな」といって連れて行ってもらったもの。それで帰ったら、そんなに刈れてないからおこられました。畑探してうろうろしてました。わからないから表札立ててくださいと言いました。
 京都弁は使うな、とも言われました。行かはった、着やはった、というけど、この辺は来ちゃった、行っちゃった、しちゃったとかいうんです。私の息子には「しかるときは京都弁使わずにおこって」といわれましたね。それで、(すっかり綾部弁に慣れてしゃべっているうちに)「ちゃちゃちゃのおばさん」と言われました。ここの家は禅宗のお寺の檀家ですが、私はクリスチャンですから、洛西教会で洗礼を受け、野の花教会に通いました。でも、日曜ごとに教会に行けないということが私にもわかってきました。日曜こそ弟も妹も総出できばる日なんです。次第に教会から離れていきました。 

―どんなものを作っておられるのですか。

「うちは一町歩で、米を作っています。そのほかに野菜と果樹をつくっています。子育ての頃は豚も飼ってましたし、人工授精で種つけも自分でしました。一番たくさん生んだときが、一回のお産で21匹。面白いですよ。でも、17匹より育ちませんでした。多い時で250頭もいたかな。
 子豚は生まれて1ヶ月経つとけっこう大きくなる。(私には)3人子どもがいますが、この子らの大学の費用は豚が稼いでくれたんですよ。豚が出産するとき、産道に手を入れると子豚がかむんです。ピッとかまれるけど痛くはない。それで指ではさんで、「それ、出せ」「がんばれ」。自分のお産の時みたいに一生懸命でした。みんなに名前つけて、私がシロちゃんとか呼ぶと、出てきましたよ。子豚は日に日に大きくなり、4ヶ月で出荷します。」 

―忙しくて、実家に里帰りどころじゃないですね。

「母が亡くなったのが昭和31(1956)年の9月20日です。56歳でした。希望したように100までは生きなかった。嘉二が死んだのも、この世で会えなかった兄が死んだのも9月で、9月はちょっと憂鬱です。義父の命日も9月です。
 子どもは3人いて、長男は東大の法科を卒業して、京都で弁護士をしていますが、年に一度、私の好きな南座の芝居を見せてくれました。もう今は行けません。下の娘は神戸大を出て行政や大学の仕事をしていて、上の娘がこの近くの農家に嫁いだものですから、何くれとなく私の世話をしてくれます。」 

なんという記憶力だろう。それから話は農業や虫や果樹の話に移っていった。

「今の農業は老人と女性でもちこたえています。それにしては、あまりにも女性の力が認められていないと思います。これまでに私のやってきたことは何だったのか。」

「私は体が昔風にできてますから、マンゴーとパイナップルなんて食べると調子が悪い。昔の野菜はどれも美味しかったですよ。
 樹やら花やらの香りがなくなったと思いませんか? 今年は匂いがしない。栗の花には青竹を割ったような匂いがして、つわりのときはあれで難儀しましたが、今年は一回も香りがしなかった。桃も匂わなかったですね。
 気候変動のせいでしょうか。スモモは200キロくらい取れるはずが、5、6杯でおしまい。柿も花が咲いていません。渋柿はなってますが、匂いが少ないと思いますね。ぶどうなんて小さい花なんです。横通るといいにおいやと思うんですが、その匂いがしなかった。なぜなんでしょう。ブルーベリーもそうですね。去年の三分の一でした。まちがいなく高温です。甲州ぶどうのワイナリーが山梨から長野へ移っているというでしょう。
 虫と植物が今のおかしさを知っている。農家は自然と人間をつなぐ通訳、それを伝えないといけません。朝の4時半か5時に起きて消毒やると午後2時までかかるんです。普通虫がビックリしてぱっと飛び立つのですが、それがいない。花小蜂とか。だから交配しないんやろな。クモもいなくなってます。
 オクラもそうです。花は咲くんだけど、実は落ちてしまう。裏に川が流れているので網戸にヤモリがつくんですが、それもいない。自然が相当おかしくなってます。」 

 ふき子さんの話はいつまでも聞いて飽きなかった。鱧の食べ方、栗の茹で方も教わった。

「夫が70歳で逝ってしまったので、私は一人暮らしです。こんなところにいると孤独死すると、周りはいうんですが、私は自立死だと思います。ここで突然ぽっくり死ねたら最高です。」

 前の世代の女性の生きてきた道、それを記すのが私の役目だと思い、長々と書いてみた。

京都の人のつぶやき

 2回にわたって取り上げた田中ふき子さんのライフストーリー。この連載を準備するにあたって、3人の女性とつながることができた。一人は「ふき子さんの秘書のようなものです」と仰る山崎万里さん。山崎さんは食農教育の活動をされている。もう一人はふき子さんの御長女のみほさん。綾部で農業を営まれている。「母は本当におもしろい人なんです。人を惹きつけてやまないんです」と電話でお話しくださった。そして、もう一人はふき子さんご本人。目が見えにくいと仰りながら、原稿を確認してくださった。すてきな女性たちの人生の、ほんの一部分にふれることができて、うれしい。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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