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京都不案内

吉井勇とかにかくに碑

 ある夜、木屋町の八文字屋、甲斐扶佐義さんのバーから外に出て、鴨川を渡り白川沿いを歩くと、大きな石碑が目についた。鞍馬の石だという。

かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる

 祇園を愛した歌人、吉井勇(1886~1960)の古希を祝して建てられたもので、今も11月8日の忌日には祇園の芸妓さん舞妓さんが白い菊の花を献花するという。
 この歌ははるか昔から知ってはいたが、まあ、伯爵の坊ちゃんが、わずか25歳(以下すべて数え年)でこんな遊んじゃっていい気なもんだ、という印象があった。
 この人のお父さんは海軍軍人で貴族院議員、伯爵。それは祖父の吉井友実が薩摩藩士で維新に功があったので、伯爵を授けられたからである。上野の西郷隆盛銅像を建てた肝煎りもこの人。吉井勇は学校を転々とし、東京府立第一中学校、今の都立日比谷高校の学生の時に、 

出雲なるの川上はそのむかし八頭の大蛇の住みけるところ

という歌を作ったのだそうだ。この歌、私はとても好き。
 伯爵家なのに家が没落して、田端の先の尾久に住んだことがある。確かに当時は場末に違いない。父に倣って海軍を志し、攻玉社中学に転校、しかし祖父吉井友実の晩年の文人生活にも憧れて、歌や絵も好んだ。1905年、20歳で早稲田大学高等予科文科に入学したが、学業はどうも性に合わなかった。与謝野鉄幹が主宰する新詩社に入会、つまり明治浪漫主義の竜巻にすぐ巻き込まれてしまう。

 1906年、与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々ちのしょうしょうなどと伊勢、紀伊、奈良、京都を旅行、見聞を広げた。この人のことを研究的に調べたのは、翌1907年の九州旅行――当時、紀行文「五足の靴」として新聞に連載された――について『「五足の靴」をゆく――明治の修学旅行』(平凡社、2018年)という本にまとめたからである。主宰者与謝野鉄幹が、新詩社の若き俊英、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎もくたろう、平野万里ばんりなどを揃えて地方行脚することが主眼だった。当時はテレビもインターネットもない。『明星』という雑誌を広めるために地方講演をし、地方の読者とじかに交流することが拡販のために必要だったのである。
 木下杢太郎が上野の図書館で調べ、天草の南蛮文化の跡を訪ねようといいだして、旅のコースは大きく変わった。そして、白秋は故郷柳川に残り、平野万里は先に東京に帰り、後の三人は鉄幹ゆかりの徳山に厄介になり、京都に向かう。1907年、明治40年の8月20日に京都で泊まったのは、新詩社の常宿「信楽しがらき」。神宮丸太町から西へ、鴨川を渡ったあたりで、川沿いの宿である。三本木の花街のあったところで、当時は寂れていたが、幕末には桂小五郎がいつづけて新撰組の詮議にあい、芸者幾松の機転で命を救われている。桂は維新後、木戸孝允となり、正妻となった幾松の晩年のすがれた姿を高橋由一が描いている。
 信楽は70近いばあさんとお愛さんという名物女将が切り盛りし、一見さんは泊めない宿であった。 

「奥の離亭の簾を巻くと、下は直にちょろちょろと賀茂川の流、左には糺の森、右には丸太橋を越えて三条の大橋、正面には如意ヶ嶽、吉田山、黒谷の塔が見える、比叡山を始め、東山三十六峰は一望の中に緑だ」

と「五足の靴」には描写されているが、今はビルが多くなり、こんな景色は望めない。

京に来ぬ山紫水明処と言へるその家の名をなつかしみつつ

と吉井勇はのちに歌う。そこは頼山陽の「山紫水明処さんしすいめいしょ」という住まいのあった跡であった。

 この時、三人はともしびのまたたく街を歩き、祇園に行く。

「我ら若きものは今日の歓楽に耽って明日の悲哀を思わず、一日一日を美しく過ごしたいと望む。これがまた実に若き日の誇りだ」

まさに明治浪漫主義そのものを彼らは生きようとしたのである。

「黒髪の匂いが七重に自分を巻いて、美しい幾匹の雲の少女がひらひらと五色の糸を散らす」

祇園は彼らにとってふらふらになるほど夢を見せてくれる極楽のようなところであった。

 さて、「五足の靴」の旅から帰り、平野万里を除く三人は新詩社を脱退する。既に名の出始めた三人の若き詩人を失い、新詩社は急に失速し、『明星』は100号で終刊になった。

わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや

 この鉄幹の歌もいい。

 そして吉井らは東京の隅田川あたりの失われた江戸情調を愛し、「パンの会」を結成する。パンはブレッドではなく、牧神のことである。『方寸』という美術雑誌のメンバー石井柏亭、倉田白羊、山本鼎、森田恒友らも合流し、ドイツ人の日本研究家フリッツ・ルンプもきた(この人は第一次大戦期、習志野の戦争捕虜収容所に入れられて、そこの見聞を書いた)。高村光太郎や谷崎潤一郎、時には永井荷風もきた。永代亭、第一やまと、メイゾン鴻巣、三洲亭などの西洋料理店に集い、白秋の「空に真赤な雲のいろ 玻璃はりに真赤な酒の色 なんでこの身が悲しかろ 空に真赤な雲のいろ」という歌をみんなで歌った。これが明治浪漫主義の絶頂。谷崎は宴会の後で小山内薫に引率されて吉井と悪所に行ったこと、蒲焼の折を持って葛飾の白秋をおとずれたこと、小網町のメイゾン鴻巣で吉井と酔いつぶれて二階の座敷に泊めてもらったことなどを随筆に書いている。吉井と谷崎はそれから死ぬまで親友であった。

 吉井の方はその後、小山内薫と市川左團次が主宰する自由劇場に加わり、戯曲を書く時代がくる。そして森鷗外は、与謝野と彼らの反目を悲しんで、『スバル』を創刊、石川啄木、平野万里、吉井勇が編集の任につく。が、啄木はローマ字日記で、吉井が怠けてやるべきことをしないと怒った。
 そして1910年、スバル発行所から、吉井の第一歌集『酒ほがひ』が出る。装丁が高村光太郎、口絵が木下杢太郎。その中の「祇園冊子」の冒頭に例の「かにかくに」の歌がある。
 現在の女性である私から見れば、あまりにいい気なものではあるが、とにかく明治浪漫主義とはそういうもので、彼らはますらおぶりから、恋愛を多く歌うようになり、高村光太郎でさえも吉原の太夫に惚れて通ったりしているのだから、大目に見よう。「五足の靴」の旅でも、書いてはいないが、最年長でも与謝野鉄幹が35歳だから、花街や遊郭に行ったのではないかと私は疑っている。
 「酒ほがひ」は「さかほがい」と読み、酒を酌み交わしてみんなで楽しむという意味だろうが、青春の狂躁時代がこの酒浸り、遊里浸りの日々であった。当時も当然、赤木桁平こうへいあたりから「遊蕩文学撲滅論」が出て、近松秋江しゅうこうなどとともに槍玉に挙げられた。赤木は漱石門下で、東京帝大法学部を出たコチコチだから、花街私小説には批判的だった。

 私も中学高校のころ、広津和郎や宇野浩二、谷崎から荷風、川端まで、近代文学は芸者とのどうのこうのばかりじゃないか、とうんざりしたものである。最近、今となっては公開できないアメリカ映画をまとめたサイトを見て笑った。女性、黒人、LGBTなどへの差別が明確な映画は『風と共に去りぬ』をはじめとしてアメリカでは上映できない。男女平等が達成はされないが標榜されている日本の今日でも、吉行淳之介に至るまで「男だけが女を好きにしていい文学」というものはもう成立しないだろう。
 スト破りみたいだけど、私の中には、その頃の祇園の情調や女のきっぷにも惹かれるものがあって、吉井勇の歌もいいなあ、と思ってしまう。ことに

ややありて再び闇に戻りたる花火のような恋と思ひぬ

とか、新内節しんないぶしの柳家紫朝を歌った

秋の夜は紫朝を聞けばしみじみとよその恋にも泣かれぬるかな

などは好きだ。とにかく、「遊蕩文学撲滅論」を書いた赤木が、のちに軍事評論家になって戦争を鼓吹したのに比べれば、軟派というのは基本的に国家なんぞにかかわらず、美しいものを愛で、好きなことして遊びたい人たちなのだから、まことに平和的である。

 しかし、その後の吉井勇の歩みは平坦ではなかった。1918年ごろ、それこそスペイン風邪の流行時、吉井は倦怠を覚え、作品を発表しなくなった。
 1921年には伯爵柳原義光の次女、徳子と結婚。14歳も年下で、勇はこの時36歳。いっこうに彼の放蕩は止まなかった。華族女学校出の妻は、長男滋を生んだが、仲は冷え切る。1932年11月号の『婦人公論』の「妻に与うる書」で吉井は、妻が家事をしない、すべて女中任せ、わざと粗野な言葉を使う、勝負事が好きで花札をする、ダンスに夢中などと難じている。夫が自然を求めて神奈川県の南林間に移住しても、妻は都心にとどまり遊び続けた。
 そして赤坂のダンスホール「フロリダ」の舞踏教師・小島幸吉と関係を持つ。のみならず、愛人の関心をつなぎとめるため、他の有閑マダムも紹介し、これが1933年の「不良華族事件」に発展し、徳子は警察の取り調べを受けた。彼女は近藤廉治男爵とも関係を持っていたらしい。彼女の父の柳原義光は男色家で、役者に手切れ金を脅し取られた。この柳原家では大正時代には義光の異母妹の白蓮が、筑紫の炭鉱王の妻でありながら、帝大生宮崎龍介のもとに奔るというスキャンダルも起こしている。しかし、柳原家は大正天皇の母柳原愛子の実家なので、こうしたスキャンダルはすべて不問に付された。
 結局、徳子はこの事件の首謀者として華族としての礼遇停止、近藤夫妻は除族(華族の身分を剥奪)、吉井勇には監督不行届きとして訓戒の沙汰があった。そして吉井は離婚し、長男を妹に託して再び旅に出、一時は高知の山間に隠棲する。ここは香美市といって、今、吉井勇記念館を持っている。 

かにかくに捨てむとしつれ恥おほきわが世思へば涙しながる

 吉井勇の歌は「かにかくに」で始まるのが多い。あれこれと、という意味だろう。この事件で吉井の人気は暴落した。しかし姦通した女は罪に問われ、遊里に遊ぶ男は咎められない、という点で不公平、非対称に見える(当時の刑法では、夫のある女性が姦通した場合、処罰の対象となったが、妻のいる男性が姦通しても、相手が人妻でないかぎり罪にはならなかった)。徳子は柳原白蓮の娘宮崎蕗苳ふきによれば、「一緒にいるだけで楽しい、明るく活発な女性」だったそうで、1978年まで生きて78歳で死去した。同じく不良華族事件に連座した斎藤茂吉夫人輝子は世界100カ国を旅したスーパーおばあちゃんとして「徹子の部屋」などに元気な姿を見せていた。

 1937年、吉井勇は浅草の「都」という江戸前の料理屋の看板娘、おたけさんこと国松孝子と再婚、「これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」。

 翌年53歳の吉井勇は土佐より京都へ移り、左京区北白川東蔦町21番地に居を定める。当時はまだ農村であった。

「二階が二間、階下が六間ほどあって、夫婦二人には広すぎるくらい、二階から北東に比叡、西に愛宕がハッキリ見え、花売りで有名な白川女の本場なのでいたるところに花畑があって、環境も至極美しかった」

 妻孝子は浅草で水商売をしていたとは思えないほど、地味で堅実な主婦だった。吉井は京都の住宅地に定住して京都の自然や風物や年中行事を日記に嬉しく書き留めた。ある時は夜が明けないうちにそっと家を出て、叡山電車に乗って八瀬へ、ケーブルカーに乗って比叡山に登り、京都市中を遠望したりした。
 それ以来、歌集『天彦』、『洛北随筆』はじめ閑寂幽玄の境地へ入っていく。 

 昭和19年、戦争末期に東山区岡崎円照寺町に転居。翌年2月、富山県八尾に疎開。雪深い街で「人情の酷薄」に苦しむ。戦争で京都は無傷で、一刻も早く帰りたくなった。まずは石清水八幡宮の近く月夜田つきよだに越し、ようやく1948年、京都市上京区油小路元誓願寺町482番地に転居。芸術院会員になり、歌会始の選者も務めた。64歳であった。
 1951年、左京区浄土寺石橋町19番地へ転居。橋本関雪の白沙村荘の斜め前で、疎水沿いに橋本関雪が植えたという桜並木があった。ここを紅声禺こうせいかと名付けた。
 1955年、吉井勇の古希を記念して11月8日、友人らによって「かにかくに」の石碑が建てられた。それまでに、吉井勇は第二の故郷京都を代表する文化人となり、京都の街にも愛されていた。

 亡くなったのは、1960年11月19日、京大病院にて、病名は肺がん。良き伴侶を得て、業績も認められて幸せな晩年と言えるだろう。それまでに「五足の靴」の仲間は皆、鬼籍に入っていた。勇は妻を伴って天草を再訪し、

白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿

と詠んで、その大きな石碑が大江教会の前庭に立っている。

 吉井勇の作品で一番知られているのは、1915年の「ゴンドラの唄」だろう。中山晋平作曲で一世を風靡した。「命短し、恋せよ乙女」。黒澤明監督の『生きる』にも出てくる。この歌は私が『「即興詩人」のイタリア』(ちくま文庫、2011年)に書いたように、ベネチアの俚謡で、鷗外が訳したものが元となっている。 

あけの唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶わかく、汝の血の猶熱き間に。白髮は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす」

 まさに、吉井は生き急ぐように祇園に青春を埋めたのであった。生涯の親友、谷崎潤一郎は、22歳の吉井が今までの恋人を18人数えたと書いている。これは祇園に行く前だからその後、何人まで増えたものか。

 「変に頑なな専門の歌人くさくないところが好きであった」「鷹揚で、こせついたところがなくて、一般歌人とは人柄はまるで違った」「東京山手の生まれだけども、会った感じは下町風」「お愛想を言うでもないのに妙に人を惹きつけた」「晩年には京都を愛して京都の地で終わりを告げた」と、谷崎は『吉井勇全集』の序で亡き友を偲んでいる。そう言われるとだんだん好感を感じるようになった。

 「かにかくに碑」の建っているところは、谷崎や吉井が愛したお茶屋「大友」の跡地である。それにはそれでまた別の話がある。

京都の人のつぶやき

 吉井勇については、このエッセイを読むまでまったく知らなかった。それでも「ゴンドラの唄」は知っている。『生きる』の名場面も覚えている。作品は作者を離れて生き残る。吉井は京都を愛し、京都市内をあちこち転居したようだが、そのひとつは私が住んでいるところから目と鼻の先。「このあたりを歩いておられたのか」と思うと急に親近感がわいてくる。
 ところで、京都市の住所は総じて長い。たとえば、第6回に出てきたフランソア喫茶室の住所は京都市下京区西木屋町通四条下ル船頭町184。通り名からおよその位置がすぐにわかって便利だ。しかし、自分の住所となると、いちいち書くのは面倒である。したがって普段は、通り名を省略し、町名と番地を記す。それでも郵便物は問題なく届く。ただし、役所や銀行などの正式な書類では「ぜんぶ書いてください」と言われる。一度数えてみたことがあるのだが、都道府県名から部屋番号まで書くと40字もあった。ちまちまと細かな字で綴らなければ、枠には収まらない。京都に住む人には馴染みのある経験だろう。

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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