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『人、イヌと暮らす』はじめに

進化生物学者と心理学者の夫婦の家に、真っ白な可愛い子犬がやってきた。名前はキクマル。続いて、やんちゃな暴れん坊コギク、可愛いわがまま娘のマギー。
3頭3様、個性の違う彼らと一緒に暮らして考えたことをつづる、科学×愛犬エッセイ。
本書の「はじめに」を全文公開いたします。

 

 人間はペットとしていろいろな動物を飼っている。しかし、もっとも数が多くて人気があるのは、何と言ってもイヌとネコだろう。二〇二〇年の「全国犬猫飼育実態調査」(一般社団法人ペットフード協会)というものによると、日本にはネコが推定九六四万四〇〇〇匹、イヌが八四八万九〇〇〇匹というから、これはすごい。

 中でもイヌは特別な存在だ。人はイヌと親密に心を通わせ、イヌもそれに応えてくれるように感じる。ネコも、人と親密な関係を持つとは言えるが、イヌとネコを比べると、やっぱりイヌは違う。それは、ネコがあくまでも単独性の動物であるのに対し、イヌはそもそも社会生活をする動物であるというところに起因するのだろう。

 この世に生物は何百万種と存在する。その生物がこの地球上に姿を現したのは、およそ三八億年前。最初の生物がどんなものだったのかは、誰も知らない。そして紆余曲折を経たのちに、自分で動いて活動する「動物」というものが進化した。動物の大部分は、昆虫など、骨のない無脊椎動物である。生物進化の歴史では、そちらが先に出現し、今に至るまで大繁栄している。しかし、およそ五億三〇〇〇万年前ごろに、からだの真ん中に脊椎という骨を持つ、脊椎動物が進化した。そして、それ以後、この動物群はさまざまに分岐し、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類という分類群を輩出した。

 これらの脊椎動物の中で、自分の努力でいつでも体温を一定に保っているのが恒温動物であり、それは鳥類と哺乳類だけだ。そして、鳥類は卵を産むが、哺乳類は子どもを産んで、それを母乳で育てる。私たちヒトはその哺乳類の一員である。そして、哺乳類がおよそ四五〇〇種いる中で、ヒトはサルの仲間である霊長目に属する。

 本書は、サルの仲間である私たちが、食肉目の仲間であるイヌと一緒に暮らすことによって学んだいろいろなことをつづったものである。考えてみれば、サルがイヌと一緒に暮らすとはかなりおかしなことだ。でも、それほどおかしくはないのかもしれない。桃太郎だって、サルとイヌを従えて鬼退治に行ったのだし。では、キジはどうして? それはよくわかりません。まあ、それは脇に置いておくとして、「犬猿の仲」という言葉があるように、自然状態では相性はよくないのだろう。

 私と夫の長谷川寿一は、それぞれ自然人類学と心理学の研究者である。二人とも、大学で研究を続けてきた。

 自然人類学とは、ヒトという動物がどのように進化してきたのかを明らかにしようとする、生物学の一分野である。もう一つ、文化人類学という学問分野があり、こちらは、ヒトの諸集団が持っている文化について研究する学問である。この文化人類学と、私の専門である自然人類学とは、手法も理論もまったく異なる。しかし、何せ、自然人類学の研究室を持っている大学が非常に限られているので、自然人類学の方は、世の中にはあまり知られていない。「文化」と「自然」を省いて「人類学」というと、十中八九、文化人類学が思い浮かべられてしまう。

 一方、心理学は、ヒトの心の働きと行動の原理を明らかにしようとする学問である。ところが、なぜか生物学との密接な連携はなく、自然人類学とのつながりもない。心理学は伝統的に、生物としてのヒトの進化的基盤については考えてこなかった。夫は、これはおかしいと思い、ずっと、ヒトの心理の進化的基盤を追究しようと考えてきた。

 そういう二人が結婚して、野生のニホンザルやら、アフリカの野生チンパンジーやらを研究してきたのである。対象がサルの仲間である理由は、ヒトが霊長目だからだ。曲がりなりにもヒトの進化について考えようというのだから、ヒト以外の動物を研究するとしたら、まずは、ヒトに近縁な霊長目の仲間ということになる。中でも、チンパンジーは、現生の動物の中でもっともヒトに近縁であることがわかっているので、進化生物学者としては、研究せざるを得ない。

 霊長目とは、手足に五本の指を持ち、それらで枝をしっかり握ることができる哺乳類である。また、両眼が顔の前面についているので世界を立体的に見ることができる。これらの特徴は、樹上生活への適応であり、ヒトという生物は、そんな樹上生活を祖先型に持ちながら、再び地上を歩く生活に戻ってきた霊長目の一種だ。そんなヒトという生物がどんな性質を備えているのかを知るには、ヒトに近縁な霊長目を研究するのは、常道であろう。という訳で、私たちは長らく野生ニホンザルや野生チンパンジーの研究をしてきた。

 もちろん、それによって得られた知識は豊富である。しかし、私たちは、霊長目とは異なる系統として進化した哺乳類や鳥類など、他の脊椎動物の行動と生態からも、多くの示唆が得られるはずだと思い、霊長目以外の動物も研究してきた。シカ、ヒツジ、クジャクなどがその例である。それらの動物の研究からも、多くの知見が得られた。

 ところが、である。そんな研究の対象として選んだのではなく、ただ心の友として他の哺乳類と一緒に生活を始めたことから、私たちは、これまた実に多くのことを学んだ。それが、イヌであり、それが本書のメインテーマである。

 私たちは霊長目、イヌは食肉目で、哺乳類の進化で見ると少し遠い存在だ。しかし、両者ともに社会性の動物なのである。人類学者や心理学者は自分たちの社会性の起源を知るためにサル類を研究するのだが、イヌという、かなり異なる系統の動物の社会生活を知ると、一口に社会性と言っても、そのあり方は一つではないことがよくわかる。サルは視覚優位の動物、イヌは嗅覚優位の動物。でも、両方とも他者の存在が重要な意味を持つ社会性の動物。そして、イヌは、私たちとはかなり異なる存在でありながらも、家畜化の過程を経て、ときに心が通い合うという経験をさせてくれる存在だ。こんな彼らと一緒に暮らして考えたことを、いろいろとつづっていきたい。


(左から)著者、スタンダード・プードルのコギク、マギー、著者の夫・長谷川寿一
撮影:李智男


 

 

イヌと暮らせば、
 愛がある、
 学びがある。
進化生物学者が、愛犬と暮らして学んだこと。

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 イヌのそもそもの起源は?
 どうしてイヌは可愛いの?
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進化生物学者と心理学者の夫婦の家に、真っ白な可愛い子犬がやってきた。名前はキクマル。続いて、やんちゃな暴れん坊コギク、可愛いわがまま娘のマギー。
3頭3様、個性の違う彼らと一緒に暮らして考えたことをつづる、科学×愛犬エッセイ。

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著者略歴

  1. 長谷川 眞理子

    総合研究大学院大学学長。専門は行動生態学、自然人類学。野生のチンパンジー、イギリスのダマジカ、野生ヒツジ、スリランカのクジャクなどの研究を行ってきた。現在は人間の進化と適応の研究を行なっている。著書に『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊国屋書店)、『進化とは何だろうか』(岩波ジュニア新書)、『ダーウィンの足跡を訪ねて』(集英社)、『科学の目 科学のこころ』(岩波新書)、『世界は美しくて不思議に満ちている ―「共感」から考えるヒトの進化』(青土社)など多数。

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